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曇天日和

どんてんびより

影すら絶やし駆けろ

俺は母を殺して産まれてきた。

初めて咥えた乳首の、ひやりとした感触。
寝藁の上で立ち上がった時、視界に入ったのは動かぬ母の体。
その母に取りすがり、慟哭する人だかり。
それが俺の原初の記憶。当然のように俺は忌まれ、蔑まれた。親不孝者と。

母は美しく明るい栗毛で、俺の前に何頭か兄を産んでいた。
どの兄も母のように美しい栗毛で、丈夫な駿馬だったという。
兄たちは皆、買い手がついて売られていった。
つまり母は、この牧場で一等、金になる馬だった。
しかし自身と同じ牝を産むことなく、身籠らない年が二年ほど続いたらしい。
後継となる娘を産んでもらうべく人が手を尽くした結果、母はまた仔を孕んだ。
次はよく似た牝であれ。そう望まれながら母の腹を突き破ったのは、真っ黒な脚だった。

逆子。今までの仔とは違う、墨よりも黒い体。
牧場の宝であった馬を難産の果てに失い、得たのが不気味な黒馬。
到底、購いにすらならなかったであろうことは、理解できる。

結局、俺は叔母に預けられた。
母と同じ栗毛で、同じ頃に一頭栗毛を産んでいたが故、これ幸いとばかりに。
乳兄弟の彼は顔全体が白く、青い目のいかつい顔立ちをしていた。
異形同士で丁度いいと皮肉を言われたが、特に気にしなかった。何を言われても仕方ないと思っていた。

牧草地で共に過ごす若馬たちからも遠巻きにされた。
あまりにも黒過ぎる俺と、険しい青い目の乳兄弟。
人からも馬からも煙たがられることを、彼は露骨に嫌がった。見た目を選んで産まれてくることなどできぬのに、と口惜しがりながら。
抑えきれぬ怒りの矛先は俺にもよく向けられた。何故お前はもっと抗わぬのか、と。
あまりにも面倒だった。誰かが何かを厭う気持ちは自然と湧き上がるもの。
それをわざわざ覆してやろうとまでは思えなかった。

やがて乳母はまた栗毛を産み、乳兄弟がもう一頭増えた。
見目はいいが元気が過ぎる牡で、放っておけば埒を飛び越えそうになる。人の手には負えなかった。
だか彼は、青い目の兄も、黒過ぎる俺をも格好いいと言って、俺たちに対しては従順に後をついてくるようになった。
俺たちが牧場内のはみ出し者として扱われるようになるのに、大して時はかからなかった。
それに怒る兄と、気にしない弟と、最早何もかもどうでもいい俺。
三頭で適当に駆け回っては、最低限の世話以外誰からも見向きもされない日々が続いた。

仔馬の時代はあっという間に過ぎていく。
気が付けば、十分人を乗せて走れる体になっていた。
いつかは適当に安く買い叩かれて、人にこき使われて死んでいくだろう。
あるいはさっさと肉にされて終いかもしれない。それが、早いか遅いかだけ。

牧草地から若馬が一頭、また一頭といなくなる。買い手がついた馬たちは、次々に人の手に渡った。
その様子を眺めながら、相変わらず俺たち三頭は牧草地の片隅にいた。
牝ならまだしも、牡は使われなければ意味はない。見向きされなければ無価値と見なされる。
これはいよいよ馬肉への道待ったなしか。そんな考えが頭を過ぎった。

夜中、急に目が覚めることが多くなった。
何故かはわからなかった。夢を見ていたわけでもなかった。
ただひとつわかっていたのは、目が覚めてしまった時は無性に外に出たくなることだ。
馬房の衝立をすり抜け、誰もいない牧草地へと駆け出す。
冷たい人の視線も、露骨に避けてくる他の馬の姿も、そこにはない。薄い月と散らばった星が光る、俺の体と同じ色の夜がある。
ただ、衝動のままに走るということを、何度も何度も繰り返した。

ある夜、また牧草地を駆けずりまわっていたら、乳兄弟たちに割って入られた。
隠れてこそこそ何をやっていると怒られ、自分たちも混ぜろと言い出され。
いつの間にか、夜な夜な三頭で牧草地を独占するのが習慣になってしまった。

時折、兄の方がその青い目を鋭くさせながら俺に詰め寄る。
何故その走りを昼に見せぬと。何故誰にも見せつけようとしないのだと。
誰もいない場所で走る方が走りやすいと伝えれば、呆れたように嘆息された。


同い年くらいの若馬が軒並みいなくなった頃。
広く感じる牧草地で、いつものようにぼんやり過ごしていた時だった。

「ここまで黒いとはな」

埒の向こうを見やる。この牧場の主と、見たことのない人が三人もいた。
随分と屈強そうな男二人を両脇に据えたその人は、幾分小さく見える。
なのに、何故か目が離せなくなった。真っ直ぐに見つめてくる視線の圧が強い。
今までこんな目で見られたことがあっただろうか。

「あれに乗せよ」
「ですが、あ奴は」
「わしが乗りたいと言っている」
主が渋るのも構わず、その人は俺を顎でしゃくった。
ため息をついた主が埒を越えて、俺へと近づいてくる。それに男も続いてきた。
明らかに気乗りしていないという体で、鞍と手綱を取り付けているのはよくわかった。
「申し上げておきますが、過度な期待はご遠慮くださいませ」
「ああ、構わぬ」
男は不敵に笑うと、俺に乗り上げてきた。

跨られた瞬間、背中に言いようのない重みが走った。
小さい人だと思ったのに。肥え太っているわけでもないのに、何故だろう。
「……いい馬だ」
男はまた笑った。刹那、強かに腹を蹴られた。
その瞬間、全身の毛が逆立つような、不思議な感覚に襲われた。
俺はすぐさま駆け出した。

「ほう、よいぞ、そのままそのまま」
頭の後ろから、男の嬉しそうな声がしてくる。
腹を蹴られるたび、手綱を叩かれるたび、全身に血が巡っていくのがわかる。
体が火照り、その熱が俺の脚を突き動かしてくれる。
「行けっ!」
男が鋭く命令をした。その声が更に鼓動を高め、脚を唸らせる。
ひえっという悲鳴が聞こえた気がしたが、止まらない。止められない。
目の前に埒が迫り来る。
全身を撓らせて、俺は大地を蹴った。

嗚呼。やっとわかった。
夜な夜な俺を突き動かす衝動が何だったのかを。

ずっと、走りたかったのだ。俺は。

馬肉として身を捧ぐのでもなければ、安く使われる家畜としてでもなく。
主となる誰かの、ただ一頭の馬として認められたかった。
そして、共にどこまでも駆けたかった。ただ、それだけのことだった。

「気に入った」
至極愉快そうに笑った男は、腰を抜かしている主に向かって叫んだ。
「この馬を貰おう。金は弾む」
そのやりとりを黙って見守っていた、残りの二人も口を開いた。
「おいおいおい、こいつらのどこが駄馬なんだよ!?よっしゃ決めたぜ、俺はあの元気な奴に乗せてくれや!」
「この馬と共に走っていたというなら、あいつも気骨があろう。あの面構え、戦場で遭ったら相手は恐ろしいだろうな」
二人の男の視線は、牧草地の中にいる乳兄弟の方に向けられていた。
弟は俺の走りにはしゃぎ回り、物凄い勢いで牧草地を駆けずっている。
それを呆れた眼差しで見守りつつ、兄がこちらを見た。実に上機嫌な顔つきで。

その日、俺たちは今年最も高い値のついた馬となった。




連れてこられたのは、大きな邸だった。
しかしその扉は全て開け放され、がらんどうになっていた。
周囲では、人々が何やら慌ただしく走り回っている様子が窺える。
「お主は母を死なせて産まれてきたそうだな」
突然、新しい主が語りかけてきた。
視線は空っぽの邸に向けられたままだ。その表情はわからない。
ただ、蔑みもなければ憐みもない、静かな声だけが俺に向けられている。
「生まれが後ろ暗いのはわしも同じ。だが、そこに囚われていては前へ進めぬ」
邸をひと通り見回した後、主はやっと俺を見上げた。
「見事な走りであった。これよりお主は、わしと共に戦場を駆けよ」
主はきっぱりと言い切り、やや節くれ立ったその手を伸ばしてくる。
鼻先を撫でる手つきはその厳しそうな顔つきに似合わず、穏やかなもので。
今一度、主はあの不敵な笑みを見せてきた。
「お主を絶影と呼ぼう。己が走りで以て、その身に纏わりつく影すら振り払ってみせい」
主は素早く俺に跨り、邸の外へ行くよう促した。

向かった平原には、何人もの男たちが集結していた。
その中には主と共にいた男二人の姿もある。二人はそれぞれ、乳兄弟に跨っていた。
あれだけ人の手に負えなかった二頭が、誇らしげに轡を並べている。変われば変わるものだ。
いや、今ならわかる。二頭もずっと待ち焦がれていたと。
馬として生まれた誇りを胸に。主と共に、持てる全てを懸けて走り抜く。
この時を、俺たちはずっと待っていた。

「袁紹の許へ向かう。目指すは洛陽、董卓の首よ」
目の前に集った男たちに向かい、主は高らかに告げた。
男たちもそれに呼応し、力強く叫ぶ。
その様に主は満足そうに頷き、俺に合図を出してきた。さあ存分に走ってみせろ、と。

風よりも速く強く、どこまでも遙か遠く。
母の命を奪い取ったこの脚で、その影をも絶やす走りで以て。


俺の名は、絶影。
いざ、この大地を駆け行かん。





2018/09/19

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