皐月の風薫る頃【八】
「ん……っ」首筋を、柔らかな何かに擽られる。
その間から、熱く滑った何かが這いずってくる。
「ぅっ……あ、んっ…?」
首への愛撫から逃れようとしたところで、太腿の間に大きな掌が割って入ってきた。
「や、ああっ!?」
激しい刺激を受け、意識が覚醒する。飛び起きようとしたものの、のしかかられていては叶わなかった。
「すきだよ、ごしゅじんさま…」
粕毛の甘い囁きが耳朶を嬲り、荀彧の背筋を震わせた。
幾度も身を堕としてきた禁忌の行いが、またも進められようとしているのだと悟る。
「やっ……ま、待ってくださ、ぁんっ……あ、あぁっ…!」
必死で引き剥がそうとしても敵わず、せめて抗いの声をと開いた口からは、喘ぎが零れ落ちてしまう。
「えへへ……ごしゅじんさま、すべすべだね…」
粕毛の手は、愛おしそうに荀彧の太腿を撫で回す。そして躊躇いなく、急所に触れてきた。
「ひあ…っ!?やっ!やめ、て、っあ…!お願い、ですっ……やめ、てぇ……!」
目を固く瞑り、どうにかして逃れようと首を振った。
しかしその手に愛されることを覚えた体は、荀彧の思いに反して、与えられる刺激に容易く従っていく。
決して、許されてはいけない行為なのに。
「あ、あっ、あ……だ、めっ…もう……や、あ、あぁあっ…!!」
追い立てられる感覚に流されるまま、荀彧はあっという間に昂りを手放した。
「あぁ……う……はぁ………」
情けなさと生理的な火照りが、荀彧の眦に涙を滲ませる。
最早彼も、そして自分も。この爛れた欲望からは抜け出せないのだろうか。
「…っ?」
ぽた、ぽたと、頬に何かが落ちてきた。
生温いそれは一体、どこから来るのか。荀彧はうっすらと目を開ける。
「うう、うっ……」
見上げたそこに、自分を組み敷く粕毛の顔があった。
苦悶の表情が浮かんでいる。血を流さんばかりに唇を噛み締め、瞳を潤ませている。
「ご、め、ん……ご、しゅ、人、様」
絞り出すような声と共に、大粒の涙が零れ落ちては、荀彧の頬を濡らした。
「いや、だっ…いやだ、よぉ…!もう、泣かせたくなんか、ないのにぃっ…!」
今までに聞いたこともない、切々たる叫び。
「う、うあ、ああああっ……!」
喉から血が出そうな唸り声を上げながら、粕毛は己の頭を掻き毟った。
内なる衝動を抑え込まんと、必死で身を捩らせる。
「あ……待っ、て……」
茫然と眺めていた荀彧だったが、どうにかして身を起こした。
今の今まで、欲望に任せて貪らんとしてきたのも粕毛だ。しかし今、眼前で苦しみ悶える彼もまた、粕毛であり。
「しっかり……しっかり、して、ください…!」
咄嗟に、荀彧は粕毛を抱きしめた。
自分の胸元に顔を押し当てさせ、抱え込むようにして背中に腕を回す。
「っひ、い……!うう…っ、ひぅ…!」
「っ……落ち、着いて…大丈夫、大丈夫ですからっ…」
できるだけ優しい声で囁きながら、しゃくりあげる粕毛の背を撫でた。
「ああ、あ……ご主人、様ぁっ……」
細切れだった呼吸が、次第に整っていく。聞こえる心音が、少しずつ凪いでくる。
「ご主人様っ…ごめんなさい、ごめんなさいっ…」
やがて荀彧の背にも、粕毛の腕が回された。
カタカタと震える手で、強く抱きしめられる。悪夢に魘された子どもが縋りつく様にも似ていた。
「……落ち着き、ましたか?」
ややあって、荀彧は声をかけた。
「う……うん」
粕毛はこくりと頷いて、腕の力を緩めた。顔が上がり、ようやく目が合う。
「ごめん、なさい……汚しちゃった……」
濡れてしまった荀彧の下半身を見やり、粕毛は項垂れた。
またも無体を働いてしまった自分が、恥ずかしかった。二度としないと誓ったのに、これでは。
「いいのです…」
荀彧はそっと手を伸ばし、泣き濡れる粕毛の頬へと添えた。
無理に果てさせられてしまったのは確かだが、そこから先へは行かずに済んだ。
必死で情欲を抑え込み、耐え抜いてくれた粕毛を、優しく見つめ返す。
「あっ、ご主人様……着替えないと」
粕毛は慌てて、寝台横の籠から、替えの寝着と晒し布を引っ張り出した。
荀彧も小さく頷き、汗に濡れた寝着を脱ぐ。その裸体に下腹部が反応を示すも、粕毛は我慢して布越しに荀彧に触れた。
精を放った直後故の、火照りが残る体を優しく包み、丁寧に汚れを拭い去る。
「…ありがとうございます」
真新しい寝着に袖を通し終えたところで、荀彧はほうと一息つく。
「ごめん、ご主人様……今度こそ、ゆっくり……」
寝かしつけようと、粕毛は荀彧の肩を支えた。その時だ。
「っち、仕方ねぇな。まあここまで弱らせたなら及第点だけどよ」
舌打ちと、虫の居所の悪そうな声。
「な」
「えっ」
粕毛も荀彧も動揺し、声が響いてきた方へと顔を向けた。
薄い月明かりが頼りの中でも、その銀色は鋭く瞬きながら、二人をじっと見据えてくる。
「誰、ですっ…」
見知らぬ怪しい気配に、荀彧は体を強張らせた。
その荀彧を守るようにして粕毛も身構える。しかしその表情は、茫然としていた。
聞こえた声は、彼にとっては知らぬものではなかった。
「仙狸……さん……?」
恐る恐る出した問いに、答えは返ってこない。だが。
「おら、どけよ役立たず!」
遠くにあった筈の銀の双眸が、突如目の前に出現する。
瞬時に間合いを詰められたと気づく間も与えられず、粕毛の首元がきつく締め上げられた。
「っが!?わ、あっ!?」
そのまま、粕毛の体は勢いよく宙を舞った。
「あ…っ!私の従者に、何を……っ」
はっと気づいた時には、その不遜な輩は荀彧の眼前まで迫っていた。
「改めて見ると…いやぁ、仙界の女共が嫉妬しそうだね」
「なっ…!?」
想像とはまるで違う、華奢で整った顔立ちの青年。このような男が、粕毛を吹っ飛ばしたのか。
背筋が戦慄する。どう考えても並大抵の悪漢ではない。危険過ぎる。
しかしそれがわかったところで、鏢ひとつ持たぬ今の荀彧では対処する術がなかった。
「さぁ、来てもらうぜ」
銀の双眸が怪しく煌めいた。その光をまともに見た瞬間、ぐにゃりと景色が歪む。
「あ……うっ……?」
直後、頭に霞がかかったようにぼうっとした心地になった。意識が、遠のく。
まもなくがくりと項垂れた荀彧を、仙狸は素早く抱え込んだ。
「何の騒ぎですか!?」
鋭い叫びが救護室に響き渡った。
夜の市から戻ってきた華佗の、鬼の形相が仙狸に注がれる。
しかし、仙狸は華佗に目もくれず、無様に倒れ込んでいる粕毛にせせら笑った。
「…じゃあな」
刹那、荀彧を横抱きにした仙狸は、窓より勢いよく飛び去った。
「っく……あ、ご主人様っ!!」
「荀彧殿!」
どうにか起き上がった粕毛と、華佗は揃って窓枠に駆け寄ったが、時既に遅し。
薄闇の中、木々の合間を駆け抜けていく影を、ひたすら目で追うしかできなかった。
「今の男、何者です!?」
「ご主人様っ…!」
問いに答えるよりも先に、粕毛は入口へと駆け出す。
「お待ちなさい、どこへ!」
「追いかけますっ!」
「独りで行く気ですか!」
背後から、華佗の怒号が響いた。それすら、今の粕毛を止める圧にはならなかった。
自宅までの道のりを、調錬を共に終えた夏侯惇と曹休が歩いていた。
「っく…まだ手が痺れているな…」
眉を顰めながら、曹休は右手首を何度も撫で擦った。
調錬で夏侯惇と手合わせした際、渾身の一撃を寸でのところで受け止めた。しかし思いの外負担がかかったようだ。
切れ味もさることながら、麒麟牙は刀身の重さでも知られた朴刀。そこに夏侯惇自身の力と技量が加わるのだから、半端な力では押し返せない。
「あの程度の一発でへこたれているようでは、お前もまだまだといったところか」
隣を歩く夏侯惇は、淡々とした調子で言い捨てた。その言葉に奮起したらしく、曹休の表情が引き締まる。
「申し訳ありません、俺の練度不足です!次は必ず、ご満足いただけるよう努めますので……っ?」
ふいに、曹休の足取りが止まる。
立ち止まって頭上を仰いだ曹休を、夏侯惇は訝しげに見つめた。
「おい、どうした」
「いえ…」
今一瞬、曹休の耳に、頭上の木々がざわめくような音が届いたのだ。風もないのに何故、と。
しかし見上げても、そこには細い三日月の輝く、澄んだ夜空しかない。木々もまったく揺れていない。
やはり、気のせいだろうかと首を傾げた時だった。
「んん……?」
誰かが全速力で駆けてくる音がする。夏侯惇も曹休も、背後を振り返った。
「おい待て!そこのお前!」
「っひ!」
足音の主は、怯えた声を出しながら二人の前で止まった。
その顔をまじまじと眺め、誰だかを認識できた曹休が驚きの声を上げる。
「お前は……荀彧殿の粕毛!?これから夜更けというのにどこへ行くんだ?」
「ご主人様を助けにっ…!」
「なっ!?」
粕毛の一言に、曹休と夏侯惇は互いを見合わせた。
「おい、荀彧に何かあったのか!」
「っ、ごめんなさい、僕行きますっ!追いかけないと、ご主人様がっ…!」
夏侯惇の制止をすり抜け、再び粕毛は全速力で走り抜ける。
流石の二人にも、それを追いかける脚力はなかった。咄嗟に走り去っていく姿を目で追い、方角を覚える。
「俺は、華佗に何が起こったか問い質してくる!お前はあいつを馬で追え!」
「はいっ!」
二人はそれぞれに分かれて走り出した。
「おや?これは…」
「何かありましたか?」
荀攸が振り返ると、郭嘉の我が意を得たり、という笑顔がそこにあった。
読み進めていた文人の手記を広げ、該当箇所を指差す。
「ようやく、面白い記述を見つけたんだよ。ここを見てくれるかな」
「どれどれ?これは…」
反対側から、満寵も覗き込む。暫し黙って手記の文字を目で追った。
三日月の夜。村に突如、同じ顔をした男が現れ、鉢合わせた。
一方が叫ぶと、一方は逃げてしまった。
男の逃げた方角を追いかけども、そこにはただ、黒い猫がいたのみ。
「…で、その次」
今宵、望月。妻より話を聞く。
隣人の男が妻に逃げられ、しばらく憔悴していた。
その彼の家の前で、見たことのない美女が行き倒れていた。
美女は男に取り縋り、男はたちまちのぼせた。
ところが夜が明けると、部屋にいたのは美女ではなく、黒い猫がいた、と。
「へぇ……猫が二回も……」
「人に化けられる力を持つ猫……」
荀攸と満寵は、真顔で顔を向き合わせた。なんとも荒唐無稽な話である。
しかし、今の自分たちは、人に化けた馬について真剣に考えているのだから、最早この程度で戸惑っていられない。
「寿命を越えて何百年も生きた猫は、不思議な力を持つ…なんて話。そういえば寝物語に聞いたっけなぁ」
「ですが、これは猫が人に化けられる力を持つことを示唆した内容です。自身以外の対象物にも有効なのでしょうか」
「荀攸殿の言葉も尤もだ。それでもやっと、それらしき話に辿り着けたんじゃないかな」
「ちなみに、この話はいつの頃のものです」
「ここの日付は掠れているから、次の日記を、と…」
郭嘉はその先をぱらぱらと捲っていき、日付が明確に記されている箇所を見つけ出した。
「永初五年五月…淮水の落流速し、猛き水音を肴に夜を明かす……」
「永初というならかなり遡るな。今の帝から遡って……八代くらい前の御世じゃないですか?」
「淮水……つまり淮河のことか」
「っ、郭嘉殿!」
荀攸の顔色が変わった。郭嘉も、たった今自身が口にした言について、思い当たる記憶を掘り返す。
「そうだ、荀彧殿……あの粕毛と、淮河まで遠乗りに行ったと言っていたよね」
「え、それっていつの話だい?私は何も聞いていませんが…」
「あの場に満寵殿はいなかったからね。粕毛が人として現れた日に、そのことを聞いたんだよ。確か、あの日の前日に行ったらしいね」
「俺たちも詳しい内容は聞いていませんが、粕毛と共に淮河にいたのは確かな筈」
「淮河か……うん、淮河……!」
満寵の眉がぴくりと動いた。二、三度頷き、急に体を翻て駆け出す。
向かった先は、既に目を通し終わり、堆く積み上げられた書簡の山だ。そこに突撃したかと思うと、無心に漁り始めた。
「満寵殿、ですから資料は大切に扱えと…」
荀攸が何度目になるかわからぬ苦言を呈そうとした、その時。
「お前たち!」
「うわああっ!?」
勢いよく前方の扉が開き、夏侯惇が怒鳴り込んできた。突然の事態に荀攸は飛び退く。
郭嘉も急な夏侯惇の登場に目を瞬かせ、尚且つその背後にいる存在に驚きの声を上げた。
「おや、華佗先生まで……まさか貴方から出向いてきてくださるとは、荀彧殿にお会いしてもよろしいと?」
「その荀彧殿が一大事です。何者かに連れ去られました!」
「っな……!?」
真っ先に荀攸が固まる。郭嘉の表情からも、余裕の笑みが消えた。
一拍置いて、冷静に問い質す。
「どういうことです、一体」
「先ほど救護室にいきなり現れた怪しい男が、荀彧殿を…」
「文若殿はどちらへ!」
華佗が言い終わるより先に、荀攸が食って掛かる。華佗は鬱陶しげに振り払った。
「わかりませんよ!目視できたのはせいぜい南西へと逃げたぐらいで…今、粕毛が追いかけていますが」
華佗の説明を肯定するように、夏侯惇も頷いた。
「南西に行ったのは間違いない。俺も奴とすれ違ったからな。今は、曹休が馬で後を追っている」
「とにかく、こんな汚い書物ひっくり返している場合では」
「あったぁーーーーーーっ!!」
緊張感を吹き飛ばす叫びが部屋中に轟いた。
「…………」
言葉を遮られた華佗の表情が、あからさまに不機嫌を呈す。
書簡の山から嬉々として這い出てきた姿を見て、夏侯惇も呆れた表情を浮かべた。
「満寵…お前という奴は……」
白装束故、埃を体中に纏っているのが丸わかりだ。それを一切気にすることなく、満寵は声を上げた。
「やはり見間違いじゃなかった!先ほど見た地理書の中に、和帝安帝の御世の頃の記述があったんですよ」
手にしていた書を、満寵は卓へと広げた。簡易な絵図も描かれた当該箇所を指差し、早口で説明する。
「ほら見てください淮河の滝の近辺を!今でこそあの辺りは飢饉や過疎によって人家はありませんが、当時はそこそこの集落があったそうです!なので、手記の筆者が淮河付近に住んでいたのは間違いないでしょうし、あの手記の通り化け猫のような何かがいるやも…」
「化け猫って、いつにも増してふざけた話をしていますね貴方は」
「あれ華佗先生、いつの間にそこに!?えっ夏侯惇殿も!?」
ここに来てようやく、華佗と夏侯惇の存在を認めた満寵は素っ頓狂な声を上げた。
まったく気づかれていなかったという事実に堪忍袋の緒が切れ、夏侯惇は満寵の襟を引っ掴んだ。
「いいから!お前たちも!支度しろっ!」
「うわっ!?何、どうしたんです一体?ええっ!?」
咄嗟に満寵は郭嘉と荀攸に救いの視線を投げた。しかしそれも空しく、荀攸は満寵に向かって射刃槍を投げつける。
「ちょっと荀攸殿、酷くないかい!?」
「話は後です、行きましょう」
「ああ、そうだね」
郭嘉は素早く、壁に立てかけていた棍を掴む。荀攸も、棚から硬鞭剣を引っ張り出した。
「夏侯惇殿、とりあえず淮河の滝までご先導願えますか。少々、私たちに心当たりがありまして」
「淮河……?確かに南西だな。いいだろう」
夏侯惇は承知し、満寵の首根っこを押さえたまま部屋を出ようとした。
しかし、そうはさせじと満寵が必死でじたばたし始める。
「す、すみません、いったん離してください!後生ですから!」
「ええい、なんなんだまったく」
仕方なく夏侯惇は襟を離した。やっと自由になった満寵は、弾かれたようにして華佗に駆け寄る。
「華佗先生、橘皮を拝借したいのですが、よろしいですか!?」
「は?何故橘皮を…?」
訝しむ華佗の視線に負けじと、満寵はとびきりの笑顔で答えた。
「ははっ、化け猫対策の一環ですよ」
2019/09/08