menu

曇天日和

どんてんびより

芍薬を手折る(上)

「朕を大事に思うなら、どうかよく補佐してほしい。そうでないなら、情けをかけて今すぐ退位させよ」

玉座の間が、一瞬にして凍りついた。
挨拶の口上を述べようと跪いた曹操も、荀彧も。動きをぴたりと止める。
重苦しい沈黙が辺りに漂った。

「……突然、何を仰せになられますか、陛下」
ひとつ深呼吸してから、曹操は面をゆっくりと上げた。
玉座より見下ろしてくる視線を、しっかりと受け止め、見つめ返す。
「陛下…」
背後に控えていた荀彧も、躊躇いつつ見上げた。
目に飛び込んできたは、唇を真一文字に引き結び、全身を竦ませた若き帝。
体の震えを止めることもできず、しかしそれでも胸を張り、曹操と睨み合っている。
必死で己を奮い立たせんとしているのが伝わり、胸が締めつけられそうになった。
「っ………」
尚書令といえども、ここで不用意に口を挟むことはできない。
自分が審判を受けているような思いで、荀彧はひたすら待った。どちらかが声を発するのを。

「…この曹孟徳、身命を賭して陛下のため、国のために戦い抜いてきた所存……ですが」
先んじて口を開いたのは、曹操だった。
「我が働きは、未だ陛下の信を得るには足りないようですな。己が至らなさを恥じ入るばかりにございます」
あくまで泰然とし、落ち着き払いながら頭を垂れる。
声の調子に棘はなかったが、荀彧の胸の内はざわめいた。裏の意はどうとでも取れる言葉。
「……………」
帝から、震えが抜けていく。直後、はっきりと顔が苦衷に歪んだ。
「陛下。直々に私の力不足をご指摘くださり、御礼申し上げます。これよりは一層、政に力を尽くし、外憂に当たりますゆえ、何卒…」
「わかった、もういい」
淀みなく話す曹操を遮るようにして、上擦った声が投げつけられる。
「……下がれ。急に呼び出して、すまなかった」
力なく告げると、帝は背後の玉座に座り込んだ。
がっくりと項垂れるその様は、負けを悟った敗者のようであった。
「ははっ」
今一度拝礼すると、曹操はすっと起立する。素早く背を向けて、玉座の間を退出していった。

「あ…」
ふいに、目が合った。いや、合ってしまった。
墨で塗りつぶしたかのような瞳が、じっとりと注がれる。
それは覚えのある、何もかもを呑み込んでしまうような眼差し。
「……失礼、いたします」
礼を捧げて、荀彧は立ち上がった。すぐさま踵を返して曹操の後を追う。
背に、いつまでも視線が突き刺さっていることはわかっていた。振り返ることはできなかった。



「…幼少の砌より、ご聡明であるとは伺っていたが」
帰るすがら、曹操は嘆息しつつ視線を宙へ投げた。
「随分と心細やかであらせられる」
忠義か、譲位か。一歩違えれば、己が立場を危うくさせかねない。博打にも等しい脅しだ。
誰も味方をあの場に呼ばず、たった一人で対峙したその決意、そして胆力は讃えるべきだろう。
しかし、賢慮であるが故に。自身で選んだ行動の意味に、最後まで慄いていた。
「陛下にとってわしは、董卓と大して変わらぬか」
「殿っ…」
かつて、この国を極限まで乱した存在の名を出され、思わず荀彧は頭を振った。
刹那、曹操は足を止めた。荀彧に向き直り、憂いに満ちた貌をじっくりと眺め回す。
「あの獣と同列にされないためにも、お主を尚書令とした筈であったが」
「っ……!」
喉を衝かれたような心地がした。
若年である帝が、不意に惑わぬための傅役として。臣下からの意思伝達を執り行う者として。
曹操が王朝の庇護者となる意味、そして掲げる覇道について周知し、理解を得る。それが尚書令を仰せつかった、己が責務。
それを、十分に果たしていないのではないか。そう、言われているのだ。
「……申し訳ございません。私の、不徳の致すところにございます」
荀彧の声は、常と変わらぬ涼やかな調子ではあった。
しかしその額には、玉の汗が滲む。
「ふ……お主に当り散らしてなんとする、か。許せ。志は態度で示さねばならぬというに」
薄く笑みを浮かべたかと思うと、曹操は止めていた歩みを再開した。
背筋を強張らせながら、荀彧も遅れまいとそれに続く。

「屯田の成果はいかほどであろう」
「先頃まで続いた雨で、ここに来て麦に影響ありと報告が…ですが、昨年より収穫は増える見込です」
「うむ…初年であれば上々だろうな。戸籍の検めの方は進んでいるか?」
「はい。お陰様でこちらは…」
事務的なやり取りは、執務室に辿り着くまで続いた。
両者の微妙な緊張を和らげるには、それが最善の会話でもあった。





「随分と辛そうですね?」
「うわあっ」
突然至近距離に現れた満寵の顔に、荀攸は面食らった。
上げた叫び声は、既に混雑の峠を過ぎてまばらになっていた食堂にはよく響いた。
残っていた人々から、何事かという視線を集めてしまう。
「相変わらず面白いね、荀攸殿は」
数多の女人が向けてほしいと願いたくなるであろう笑顔を湛え、郭嘉は横に座った。
満寵は向かいの席に座り、じっと荀攸を眺める。
やや真面目な表情へ切り替えると、自らの眉間をとんとんと叩いた。
「ここ。そんなに皺を刻んだりして、どうしたんだい」
「…そこまで、酷いですか」
指摘され、思わず荀攸は己が眉間を摘まんだ。聞き返された二人は、軽く首肯する。
「表情が乏しいところを、そんなに顰めていたら……貴方をよく知らない人なら、どれだけ不機嫌かと思うかな」
「明日の調練に関わることですか?でも、それにしては深刻そうかな」
満寵が口にしたのは、明日の午後、曹仁主導の下で行われる調練のことである。
考案中の陣形戦術について、知恵者の立場からも意見を聞きつつ煮詰めたい、と曹仁本人からの申し出があった。
快諾した満寵は、この話を郭嘉と荀攸にも持ち込み、とりあえず三人が行くことは決まっていた。
「いえ、大したことではないのです。明日の調練、文若殿もお誘いした方がよろしいやもと」
気取られないよう、尤もらしい訳で取り繕う。一応、沈思している間に考えていたことではある。
満寵は納得したように頷いた。
「そうだね。忙しいからとは思ったけど、声をかけるだけはかけようか」
「……お願いします」

数日前の異様な光景が、ことあるごとにちらつく。
慌てた様子で執務室を出ていったまま、戻らぬ荀彧を不審に思って後を追った。
そこで見たものは、体を濡らし茫然とする彼と。牡丹を無惨にも散らされた花壇だった。
牡丹を荒らした上荀彧を襲うなど、許し難い。それ以上に、嫌悪とおぞましさが今以て腹の内に渦巻く。

花壇がある東の庭園は、執務室の真下にある。
恐らく彼は、執務室の窓から、花壇を踏み躙る誰かを見てしまったのだろう。
それを止めるべく一人で向かい、そして―――。

「………」
せり上がりそうになる感情は、口内の肉を噛み締めることで押し戻した。
何故こうも憤怒が収まらぬかは、わかり切っている。乱された首許。頬と腰に残された、あの手の跡。
ただの悪趣味な花壇荒らしであれば、荀彧と鉢合わせた時点で逃げるか、破れかぶれに襲うのが関の山だろう。そして荀彧であれば、その程度の愉快犯に怯む訳がない。
しかし彼はなすがまま、抱きすくめられてしまったのだ。この事実が示す意味は重い。
荀彧に対して偏執的な情を抱え、尚且つ彼に反撃の隙を与えさせぬ相手が、この許昌内にいる。

更に恐ろしいのは、荀彧が言葉を濁したまま、語ろうとしないこと。
正面から頬を取られているのだから、目隠しでもされていない限り、相手の顔は見ている筈。なのに彼は、はっきりとは見ていないと言うに留まった。
そこから導き出されるのは、荀彧が名を口にすることを躊躇うような存在、であるという推測。
少なくとも雑兵程度ではなく。名の知れた、そして彼を容易く抑え込めてしまう力のある者。

誰だ。一体、誰があのような。
冷静な思考に努めようとすればするほど、焦燥に駆られる。
もしも、この軍にとって重要な人物だとしたら。
もしも、陣営のため、曹操のためにと、荀彧が己を殺しているとしたら。

―――それでも。誰か、だけでも。

軍全体に損害を生じさせるような真似はできない。それは荀彧の望むところではないだろう。
かといって、彼一人に苦しみを背負わせたくなかった。誰かの影に怯えながら、日々を過ごすなど。
せめて正体さえ判明すれば、処し方はいくらでも講じれる。先んじて釘は刺せるのに。
そう考えていた矢先、ふと調練の誘いを受けていたことを思い出した。
彼をその場に連れていくのは酷かもしれない。しかし、武将や部隊長格の者たちが集う中に参じれば、一度に大勢の反応を伺える。
今は何かひとつでもいいから、糸口を掴みたかった。

「…荀攸殿」
普段の甘い響きを含んだ声ではなく、幾分落ち着いた声に名を呼ばれる。
はたと横を見れば、郭嘉の引き締まった視線がこちらに向いていた。
「貴方が、無闇に思惑を語りたくない人であることは承知だけれどね」
ため息交じりに呟かれた言葉を受けて、満寵もやはりか、という表情を見せた。
「なるほど……よほど、重大な案件かな」
「……申し訳ありません」
機知に富んだ者相手に、迂闊な隠し立てはできないと思い知る。
かといって、この場ですべてを打ち明ける気はなかった。せめて、確証を得てからだ。
その上でなら。そして郭嘉と満寵、この二人ならば。今後について協力を求める意味もあるだろう。
「まだ俺の中で、確信に至っていない点が多々ありまして。それまでは…」
正直に今の思いを伝えれば、二人はあっさりと頷いてくれた。
「ええ、もちろん。思慮深いのは貴方の長所だよ」
「しかし荀攸殿がそこまで頭を悩ますなんて……いつかきちんと、お伺いしたいものです」
「…ありがとうございます」
荀攸は深々と頭を下げた。
安易に慣れ合うまいと決めていた筈だが、やはり持つべきは仲間、か。



文字が、歪んだ。
「えっ?」
驚いた瞬間、勢い余って筆を取り落としてしまう。
床から筆を拾い上げ、気を取り直そうと竹簡に向かい合った矢先、ようやく荀彧は異変に気づいた。
「これは…」
今の今まで、いつも通りに。何事もなく書き進めていたと思っていたのに。
竹簡には、情けなくなるほどに力なく、走り書きされた文字ばかりが並んでいる。
そのことを自覚した瞬間、目眩が荀彧を襲った。
「うう……っ」
このような状態で筆を執り続けても、最早意味がない。
思い返せば、執務室に戻ってからは籠りきりでいる。腹に何も入れずにいたのがまずかったのだろう。
気分を変えるためにも食堂に行こうと、荀彧は席を立った。


執務室を出て、一階へと降りる。
廊下を少しばかり歩けば、東の庭園が見えてくる。その光景はすぐに目に入った。
午後の晴天の下、青々と花壇に生い茂るは牡丹の葉。
しかし、数日前まで存在した筈の花は、もうどこにも見当たらない。
盛りの季節に雨に打たれ、花首をもがれ。後に残されてしまった葉は、心寂しく見えた。

―――否。誰しもがそう解釈する訳ではない。
自分がそう見えるのは、こうなってしまった瞬間を知っているから。

「陛下……」
否応なしに、玉座の間でのやり取りが蘇る。
あそこまで無謀な言動に打って出る姿を初めて見た。けれど振り返ってみれば、兆候は十分にあった。
星に寂しく見入っていた冬の夜。そして、牡丹を残らず散らした雨の日。
長雨で艶麗な形を崩された花を、ひたすらに脆く醜い、と罵っては、屠るように毟っていった。
「……っ」
いずれ起こり得た摩擦であり、予見できた衝突。だが、あまりにも早く訪れてしまった。
曹操の指摘する通り、彼の人は英明にして神経が細い。胸の内のせめぎ合いは、こちらの想像などより遥かに激しいのだろう。
洛陽から付き従ってくれた馴染の家臣をほとんど遠ざけられ、政に口を出すことも儘ならぬ。当然、そこに忸怩たる思いが生じる。
そして、それを露わにしてしまうことが。国にも、自身にも、何も返らぬことまで悟っている。
この乱れた世を平定するには、曹操の果断さや革新的な思考は必要不可欠だ。董卓の如く恐怖政治を敷いている訳でもない。
それを十二分に理解しているからこそ。煩悶はより深く、内に潜り込んでしまう。

抑え込み続け、行き場を失くした感情は、いずれ弾け飛ぶ。
それがあの、数日前の雨の時であって。
物言わぬ牡丹に当たることで内なる感情を露にする姿が、あまりにも痛ましくて。そして。

「っ……あ」

首筋を這う、生温い舌。
頬を撫でる、黄色く染まった掌。
唇を奪って、乱暴に啄んできた唇。

振り払うことも、逃げ出すことも許されず。
熱情に絡め取られゆく恐怖が、背筋を駆け抜けていく。

「あ、あ…………っ」
咄嗟に、荀彧は走り出した。



「…おや。やっとお越しになったね」
郭嘉が目ざとく、視界に存在を捉えた。
それに釣られる形で、満寵と荀攸も食堂の入口へと視線を送る。
「荀彧殿、こちらです」
満寵は立ち上がって、大きく手を振りながら呼んだ。
それに気づいて、近づいてくる荀彧を目にした瞬間、違和感が荀攸を襲った。
「文若殿…?」
足取りが、重い。常日頃身に纏う、毅然とした佇まいが薄れている、ような気がした。
郭嘉もまた、同じように察して眉を顰める。

「お待ちしてましたよ。実は明日の午後なんですが……え?」
待ちきれず、満寵は歩いて荀彧へと近づいた。そして彼もまた異変に気づく。
「あの、どこか調子でも…っ!」
満寵が声を掛け終わるよりも先に、荀彧の体が頽れた。
「文若殿!?」
その場にがくりと膝をつく姿を見た瞬間、荀攸は椅子を蹴倒さん勢いで席を立った。
「だ、大丈夫かい!?」
慌てて満寵もしゃがみこみ、荀彧の肩を取った。そこに荀攸と郭嘉も駆け寄る。
周囲にいた人々も、突然の事態にざわつき始めた。

「申し訳…ありません……急に、目眩が…」
ややあって、荀彧のか細い声がした。
恐る恐る上げられた面を覗き込み、三人は一様に眉を曇らせる。
「これは……っ」
郭嘉は二、三度、瞬きをした。見間違いではないことを悟り、嘆息する。
「相当、お疲れのようだね」
目の前の荀彧の顔に、色がない。それどころか、青ざめているといっていい。
明らかに、本調子でないことが伝わってくる。
「お見苦しいところを…お見せしました」
荀彧はなんとか自力で立ち上がったものの、顔色は変わらず蒼白だ。足下もどことなく覚束ない。
不安定に揺れる体を支えようと、荀攸は背中に手を回した。
「今日はもう、帰宅された方がよろしいかと。俺が付き添いますので」
荀攸がそう声を掛ければ、郭嘉と満寵も真剣な顔で頷き合った。
「うん。それがいいと思うな……曹操殿には私から言っておくよ」
「荀攸殿、よろしく」
「はい…では文若殿、行きましょう」
「……すみません。本当に、すみません」
言葉少なに、荀彧は三人に向かって頭を下げた。

荀攸と共に歩く中、周囲で見守っていた人たちが次々声をかけていく。
それに対し、一人一人に騒がせて申し訳ないと詫びる荀彧の背に、郭嘉は案じる視線を送った。
「こんな時まで、生真面目なのだから」
「いやはや本当に。誘わないままでよかったかもしれないな…」
遠ざかっていく背を見送りつつ、満寵も頭をガリガリと掻く。
もしも事前に調錬の話を持ちかけていたとしたら、あの様子では無理を押してでも来たかもしれない。
貴重な意見を聞けないのは残念だが、負担を強いるのは満寵としても本意ではなかった。


二人が退出すると、食堂は何事もなかったように閑散とした空気に包まれる。
「はぁ……ご多忙な方だし、さぞお疲れなんだろうなぁ」
その一角にて、一部始終を目にしていた中年の警備兵は心配そうな声を上げた。
「さっきの見たかよ、董承殿。あの綺麗な顔が真っ青だったぜ……可哀想になぁ」
「…ええ。そうですね。おいたわしいことです」
向かいに座っていた男の視線が、俄かに鋭くなる。
それはたった一瞬であり、警備兵が気づくことはなかった。





「公達殿……本当に、ご迷惑をおかけしました…お恥ずかしい限りです」
寝台に横たわった荀彧は、心底申し訳なさそうに謝罪を口にした。
「この程度、迷惑の内には入りません……むしろ不幸中の幸いです」
荀攸は静かに告げた。自分の目の前でああいう事態になって、却ってよかったのだ。
誰も気づかぬ場所で倒れていたかもしれないことを思えば、遥かに。
「……今はただ、ゆっくり休むことをお考えください。せめて二、三日は安静に」
尚書令となって政務が増えたとはいえ、日頃己を律している荀彧が簡単に病むとは思えず。
だからこそ、急に倒れかけた事実は重く捉える必要がある。
やはり頭に浮かんでしまうのは、数日前に起きた忌々しい出来事だ。
余計な心労が、確実に彼を蝕んでいる。そう察するだけで、腹の内がざわついた。
「はい……ありがとうございます」
荀彧は小さく笑った。
美しいが、どこか儚さを覚えてしまうような微笑み。
「さあ、公達殿は午後の任務がありますでしょう……お手間を取らせて、申し訳ありません」
「文若殿、俺のことは別に…」
あくまでも自身ではなく他者を気遣おうとする姿に、荀攸は臍を噛む思いで見下ろした。
本音を言えば、心身共に参っている彼を放っておきたくはない。
かといってこのまま付き添うのも、それはそれで荀彧にとっては落ち着かないだろう。
「目眩を起こしただけですから……安静にしていれば大丈夫です」
「……承知しました。では、俺はこれで」
暗澹たる思いを抱きつつ、荀攸は頭を下げるしかなかった。
今の荀彧には、誰の目も気にせずにいられる時こそ必要なのだと。そう思い直して。



「………は、ぁ」
荀攸の去った自室は静寂そのもので。自らの規則正しい呼吸だけが聞こえる。
考えることを放棄して、荀彧はぼんやりと天井を眺めた。幸い、視界の歪みは落ち着き始めていた。
眠れそうなら、このまま眠ってしまいたい。そう思って、目を閉じた。

『旦那様、お休みのところ申し訳ありません』
扉の向こうから、年老いた使用人の声がした。微睡みかけた意識が、ふっと戻る。
「はい……何でしょう?」
少しばかり気怠い心地のまま、荀彧は返事をした。
『実はその、お見舞いにお越しになった方がいらっしゃいますが…董承様とおっしゃって』
「董承…殿……?」
思いがけない名前だった。どうして、このようなところまで。
疑問に思いながらも、荀彧は身を起こした。
寝台の足下に置いてあった上掛けを羽織り、扉の向こうに向かって声をかける。
「わかりました、お通しください」
『はい、ただいま』
返事と共に、使用人の足音が遠ざかっていった。

ややもしないうちにまた足音と、改まった声が聞こえてきた。
『荀彧殿。突然の訪問、失礼いたします』
言い終わると同時に、扉が開かれる。一礼して上げられた顔は、確かに董承だった。
「お加減の優れないところ、押しかける形になり申し訳ありません」
言葉こそ遠慮がちだが、董承は迷いなく部屋へと入り込んできた。寝台まで近づいてきた彼から、ふわりと甘い香りが広がる。
これはどうしたことかと、荀彧は香りの出どころを見やった。
「董承殿……それは…?」
視線が自分の手元に向けられているとわかった董承は、早速手にしているものを突き出す。
「こちらをどうぞ」
薄紅色に咲き誇った、芍薬の花束だった。
目の前に差し出された花の中心から、瑞々しく優しい芳香が漂ってくる。
「あの……これは一体どういう…」
「それと、こちらも」
荀彧が戸惑っているのをよそに、董承は抱えていた籠を寝台横の卓へと置いた。
籠の中には、色づいた枇杷がこんもりと盛られている。
ますます、荀彧は困惑を隠せなくなった。何故董承が自分宛に、ここまで手厚い見舞いを。

「陛下からのお見舞いのお品物にございます」

「な……っ」
突きつけられた本当の送り主の存在に、愕然とする。
言葉を失くした荀彧を前に、董承は淡々とした口調で話し始めた。
「先ほど、食堂でお倒れになった荀彧殿の話をお伝えしたところ、たいそうご心配なさって。私に、花と果物を持っていくようにお命じになられました。貴方のお気持ちが少しでも紛れるように、今が盛りの芍薬と…そして少しでも滋養がつくよう、収穫されたばかりの枇杷を、と」
「陛下、が………」
ようやく出した声が、震えてしまう。
この芍薬の花も、そして枇杷も。すべては、帝からの下賜品ということに。

「確かにお渡しいたしました。では荀彧殿、どうぞお大事に…」
「お待ちくださいっ」
悲鳴のような声を上げて、去ろうとする董承を引き止める。
「己が不養生の招いた事態で……陛下からこのような品を賜るなど、畏れ多いことにございます」
荀彧は、卓に手を伸ばして枇杷の籠を取った。
新鮮な果物は、滅多に出回らない高級品だ。献上物であったに違いない。
「こちらはお持ち帰りください。そして陛下に、私などにお気遣いいただき申し訳ないと…」
「何か勘違いされていらっしゃいませんか?」
黙って言葉を聞いていた董承が、俄かに険しい顔つきになった。
「帝から尚書令への下賜とでもお考えですか。これはあくまで、貴方への個人的なお見舞いでしかありません。だからこそ、私が一人で参じたのではないですか」
「そういう、わけには……」
私的な贈与であると言われたところで、帝からの品である事実は曲げようもない。
何より、帝個人の意向と強調されることの方が、今の荀彧には辛い。
「…そうであれば、尚のこと。受け取るわけにはいかないのです」
せめて、多くの目に触れる形で行使された、公的な下賜である方がまだ救いがあった。
帝が私心で内密に動く。それこそが、危険な行為なのだから。
「陛下の御心は、遍く平らかでなければなりません。このような形で臣下に心配りをすること、そして臣下がそれを容れることは……真の慈悲に拠るやり取りであろうと、いずれは災いを招きます」
いくら個を語ろうと、周囲は彼の人を、帝として仰ぎ見る。そうである限り、唯人には成り得ない。
故に、すべての言葉と行動は、帝であるという認識を通した上で受け取られてしまう。
私の感情のまま動き、それが衆目に晒されれば。たとえ心は潔白だったとしても、決して好意的には見なされないだろう。
「こちらは……受け取れません。どうかこのまま、お引き取りくださいませ」
沈痛な面持ちで、しかし頑として。荀彧は花束と枇杷の籠を突き返した。

「貴方はどこまで、陛下の想いを踏み躙るおつもりなのです」
己が手の内に戻った品を抱え込み、董承は体を戦慄かせた。
「ただこれを、見舞いの品とありがたく受け取ればそれで済む話であるのに…理屈ばかりを盾にして」
語気はどんどん強まり、声が上擦る。
噛みつかんばかりの勢いで、董承は荀彧へと迫った。
「陛下は、貴方への想いを胸に踏みとどまっていらっしゃる。どうにもならぬと己が境遇を嘆きながら、それでも貴方が傍に侍る姿をよすがに……それを知りながら、貴方はっ!」
「董承殿…っ」
激しい怒りに身を焦がす忠臣を、荀彧はやるせない思いで見つめた。
長安から今日までの長らくを付き従ってきたからこそ、この者は肌で感じている。帝の孤独と、哀切を。
だからせめてもと、心を安らげんと必死なのだ。その献身は確かなものではあった。
彼の目には、帝の想いを無碍にする冷酷な尚書令としか映っていないのだろう。
「私は……私はただ」
「所詮は貴方も、曹操殿の駒でしかないのですね」
荀彧の言葉は、強い口調によって遮られる。その表情は、悔しさと虚しさに溢れていた。
「そんな貴方に心奪われてしまった陛下が、私は……哀れでなりません」
形ばかりの礼をしたかと思うと、董承は踵を返して退出していった。



今ひとたびの静寂に包まれた部屋で、荀彧は顔を覆った。
手に残る芍薬の香りが、侘しく匂い立つ。

「……お許し、ください。陛下…」

もしも受け取っていたら、彼の人の心は満ち足りたのかもしれない。しかし、それは一時。
一時、私心が満たされたとしても、長続きすることはない。そしてまた、満たすために動いてしまう。
それが繰り返され、どこかで露見したら。帝の立場はいっそう、薄氷を踏むがごとき危ういものとなる。

残酷だとしても。今ここで、はっきりと伝えなくてはならない。
自分が為すべきはただ、臣下として。尚書令として、誠心誠意を尽くすこと以外にないのだと。





「…戻りました」
後宮の入り口に立つ姿を見つけた瞬間、董承は恭しく跪いた。
「ご苦労であったな」
光のない眼が、董承の傍らを見つめる。
出立の際に持たせた枇杷の籠、そして芍薬の花束を見て、悟ったように天を仰いだ。
「申し訳、ありません。私めの力不足にございます」
「……………」
帝は何も言わず、足音も立てず董承へと近づいた。
花束をそっと拾い上げたかと思うと、中から一本だけ芍薬を抜き取る。

―――それが、そなたの答えか。

花首が、指で押し潰された。




2019/05/23

top