青鵲の恋【七】
「華佗ぁ!!」勢いよく救護室に乗り込んだ夏侯惇を出迎えたのは、曹操と華佗の呆気に取られた眼差しだった。
「……いかがした?」
曹操はたまたま、華佗の鍼治療を受けていた所だった。
いきなり現れた上に激しい剣幕の夏侯惇に、流石に驚きを隠せない。
だが、華佗の方は夏侯惇が抱いている人影を見た瞬間顔つきが変わった。
「曹操殿、邪魔です」
「ぬぅ」
今の今まで患者だった曹操を、即座に寝台から退却させる。
空いた寝台に、夏侯惇が荀彧を寝かせた。
「頼む、こいつをなんとかしてくれ!」
「…わかりました」
華佗は荀彧の様子を一睨みし、触診を始めた。
額に手を当てると、じとりとした熱さが伝わってくる。
「あ……うぅ…」
苦しげに吐かれる息に混ざった、酒の匂い。
きつく戒められた痣が残り、擦り切れた手首。
乱された下半身を見るまでもなく、彼が無体を働かれたことはすぐにわかった。
「こやつ…荀彧、か?」
寝台に横たえられた人の顔を見て、曹操は首を傾げた。
顔の造作は見覚えがある。一昨日の夜、夏侯惇と一緒にいた青年。
しかし、髪の色はあの時と違って鮮やかな瑠璃色だ。
「ああ…」
夏侯惇が苦々しく肯定する。
「何突っ立ってるんです」
華佗がじろりと二人を睨んだ。早く出ていけとその目が言っている。
「彼にこれ以上恥辱を味わわせるおつもりですか」
有無を言わさぬ、医師としての圧。
戦場で相対する者たちと異質な迫力であるが故に、夏侯惇はこの男が苦手だ。
しかし間違いなく有能である彼に、今は託すしかなかった。
「…わかった」
側についていたい気持ちはあったが、何ができるわけでもない。
夏侯惇は一礼して、救護室の外へ向かう。曹操も後に続いた。
救護室の前で佇む二人を、重苦しい沈黙が包む。
「…夏侯惇」
先に口を開いたのは曹操だった。
「あの色に見覚えがある」
「…は?」
「髪の色だ」
予想だにしなかった言に、夏侯惇は目を見開いた。
「かつて董卓の側女に、あのような青い髪の者がいた」
曹操の脳裏に、今は亡き暴虐の徒の姿が思い浮かぶ。
舞姫の貂蝉を始め、数多くの女性が傍らに控えていた様はある意味壮観だった。
その中に、人とは思えぬ姿形をした美人がいた。
「青い髪だけではない。瞳の色は赤かった」
どこから連れてこられたかはわからない。だが燃え盛る様な色をした瞳に、深く憂いを宿した面差しは、曹操の記憶の片隅に残っていた。
「赤…」
助けた鳥は、深く青い羽と共に真っ赤な嘴と脚だったことが思い出される。
瞳の色はまだ見ていない。だが多分荀彧もそうなのではないか。
「同胞、だろうな」
荀彧を捕らえた行商の男が言っていた。父親の代から追いかけ回していたと。
「孟徳、笑わずに聞いてくれるか」
「うむ」
自分が今から、突拍子もないことを言おうとしている自覚はあった。
しかし真実を話すしかないと思った。適当にごまかせるような内容ではない。
「半月前、俺が鳥を世話していたことは知っているだろう」
「ああ。森で見つけたと言っていたな」
「荀彧は、その鳥だ」
「…そうか」
曹操は眉一つ動かさず、笑いもしなかった。
「信じるのか」
「このような状況で冗談を言うような性格でなかろう。なるほど、鳥か」
もちろん、にわかに信じられる話ではない。
かといって、夏候惇が真顔で馬鹿げた話を語る人間ではないことは、曹操が一番知っている。
荀彧の鮮やかな瑠璃色の髪。そしていつか見た女の、同じような髪と朱色の瞳。
人ではない存在だと言われる方が余程信憑性があった。
『いやぁあーっ』
弱々しい叫びが部屋の中から聞こえた。
「っ…!?」
「落ち着け」
思わず立ち上がった夏候惇を、曹操が引き止める。
『あぁ…たすけ、てぇ…いやぁ…』
『ごめんなさい、少しの辛抱ですよ』
『やめ、て、ゆるしてぇ…ごしゅじんさまぁ、ああっ』
『大丈夫、ここにそんな酷い主などおりません』
『あ、ああっ、ああ…』
「く……っ」
握りしめた拳に爪が喰い込む。
呂律の回っていない声からするに、恐らくは無意識だと察した。
華佗の触診と処置に、体が反応してしまっているのだろう。
「誰の仕業かはわかっているのか?」
「最近許昌に来ていた行商だ。さっき始末した」
「そうか。人買い目的だろうな」
「もとはといえば、鳥の状態であいつを捕らえようと躍起になっていた…ちぃっ」
無垢な体に男を教え込んでから、権力者に売り飛ばす。
手際の良さからするに、荀彧だけでなく普通の人間の奴隷商売も心得ていたのだろう。
「惇兄!」
慌ただしい足音と共に、夏侯淵がやってくるのが見えた。
「とりあえず姉ちゃんたちにいったん話は…ってあれ、殿ぉ!?」
曹操がいるとは想定していなかった夏侯淵はぎょっとした。
しかも今の曹操は、顔や首、肩に鍼が刺さったままの状態だ。夜の暗がりで会うには多少心臓に悪い。
「この通りだ。華佗に鍼を打ってもらっていたら追い出されてな」
「ああ、そりゃあ災難でしたね」
「気にするな」
曹操が軽く笑った直後、入口から華佗が出てきた。
「終わりましたよ」
「そうか…!」
夏候惇は我先にと救護室の中へ入る。
「荀彧!」
寝台で眠る荀彧に駆け寄った。
清められた体は、清潔な寝着に包まれている。
縛り上げられていた手首、そして斬られた腱の部分には包帯が巻かれていた。
「やっと静かに寝られたところです。起こさぬように」
「…ああ」
顔はまだ火照って赤いものの、静かで安定した寝息が聞こえた。
「酔い覚ましを飲ませました。腹に流し込まれたものも全て掻き出してあります」
「…恩に着る」
「そんな暇があったら、目覚めたときの謝罪の仕方でも考えておくんですな。こんな傷物にして」
華佗は、深く一礼した夏侯惇の頭に容赦なく言い放った。
明らかに怒りを含んだ声で、真剣に責められている。
流石の夏侯惇も、体が固まった。
「いくら私でも腱はどうしようもありません。歩くことはできても痛みは残るでしょうな」
「っ」
最早、取り返しのつかない傷が刻まれたのだ。
事の重さに夏侯惇は奥歯を軋ませる。
「彼は何者です?」
「鳥だ……こないだの」
「…そうですか」
「よく、信じられるな」
曹操も華佗も、あまりにもあっさりと受け入れるのが不思議でならなかった。
夏候惇自身、未だに信じ切れていない部分もあるというのに。
「貴方が酔狂なことを言えるほど面白くない人間なのは知ってますからね」
チクリと嫌味を言いつつ、眠る荀彧の髪へと視線を落とした。
「仮に胡人だとして、こんな髪の色は見たことありません。確かに、この間の鳥の色とそっくりだ」
あとは、と華佗は付け加える。
「体を拭いている時、脇のあたりに小さな羽がありました」
初めは、ただついているだけかと思った。
しかし手を伸ばして触れてみれば、その羽は間違いなく荀彧から生えていた。
故に、鳥と言われて華佗は却って納得がいった。
「あと、その……これを見てください」
夏侯淵が、おもむろに懐から何かを取り出す。
差し出された手の中のものを見て、一同は目を見開いた。
「ほう。美しいな」
細かい金属装飾、そして青い羽のついた耳飾りだった。
華やかながら豪奢ではなく、上品さを持つ逸品に曹操も感嘆する。
しかし、夏侯惇と華佗には別の驚きがあった。
「こいつは!」
「…なるほど、あの鳥のものですな」
ぶら下がる青い羽に、見覚えがあり過ぎた。
間違いなく華佗が治療し、夏侯惇が世話をした鳥の風切羽だ。
「鍛冶屋の兄ちゃんに頼んで、ひとつだけ拝借してきたんですよ。見せた方が早いって思って」
夏侯淵は頭を抱えながら言った。
「いや流石に俺だって、鳥が人間になるなんて頭っから信じられませんよ?でも、あいつが持ってた袋から出てきた飾りには全部この羽が付いてました。こんなん見ちまったら」
そして鳥の姿はどこにもなく、男が運ぼうとしていたのは荀彧一人。
状況証拠としては十分だった。
「…だから言ったんですよ。一度人の手が加わった鳥が、野生に戻っても幸せとは限らないって」
華佗の口から、半月前の忠告ともう一度同じ台詞が出る。
「恐らく、夏侯惇殿のことが忘れられなくて来たんでしょう。恩人ですからな。健気なことです」
「な、何でそこまでわかるんですかい?」
まるで行商とのやりとりを見てきたかのような華佗に、夏侯淵が驚く。
華佗は、そっと目を伏せた。
「私も、人並みに医師として認めてもらうまでにはいろいろと動物の面倒も見ましたよ。牛馬、犬、猫…………鳥もね」
「…!」
夏候惇たちはその時、初めて華佗の顔から寂寥の二文字を見て取った。
常に泰然自若、心の内が読めない顔、口を開けば耳に痛い毒舌が飛んでくる。
この扱いづらい医師が感傷に浸る表情など、見たことがなかった。
「随分若い頃です。大ケガした鳥を保護して、しばらく飼ってました。動物の治療行為は勉強にもなると思いましたしね。でも、一度抜いた風切羽が生え揃って、じたばたする姿を見て哀れに思いまして。いつまでも鳥籠にいてもしょうがない、鳥は空を飛んでこそ鳥だと思って、逃がしました」
視線の先の窓際に、空っぽの鳥籠が置かれていた。
夏侯惇が鳥の世話に使い、そして鳥を放した後に返却した華佗の私物。
「いつでもどこでも安全な籠にいる生活、人の優しさと温もり。そんなものを覚えてしまった後に、全方位に神経を研ぎ澄まさなくてはならない野生へ戻ることが、どれだけ難しいことか。あの時の私には想像できなかったんです」
「では、鳥は…」
「数日後に、家の裏手で死んでいるのが見つかりました。戻ってきたところを近所の野良猫にでもやられたんでしょう」
遠き日の浅はかな己を思い、華佗は押し黙った。
今ならわかる。
やたら鳥を扱う手際がよかったことも、野生に帰す選択を選ぶことに念を押してきたことも。
人が半端な親切心で手を出した先に待つ悲劇を、身を以て知っていたからだ。
「っ…荀彧、すまん」
夏侯惇もまた、己の浅はかさに恥じ入っていた。
人の情を覚えた動物が野生に戻ることの難しさなど、及びもつかず。
ただ空にあるべきと、その思いだけで手放した。
しかし彼は敢えて人の身となってまで、自分の下へ来た。いや、来てしまった。
そして結果的に、耐え難い屈辱を受ける隙を生じさせてしまったのだ。
「一度、人の手にかかった時点で彼の運命は決まっていました。そのまま、人に弄ばれるか、人の助けを受けて生きるか」
やっと穏やかな眠りを許された荀彧の頭を、華佗は静かに撫でる。
患者にだけ時折見せる、慈愛の眼差しが注がれた。
「今回のことは私にも非がある。たかだか十日程度なら致し方なし、と見積を軽くし過ぎました。貴方を鍼で全身動かなくしてでも、鳥を逃がさせなければ」
さらりと物騒な台詞を織り混ぜつつ、華佗は夏侯惇に向き直る。
いつもの食えない顔をした老人ではなく、峻厳で誇り高い医師の顔をしていた。
「もう一度言いましょう。人の手の入った動物は、野生に帰っても幸せとは限らないのです。ならば、拾った貴方が責任を以て野生から切り離しなさい。そうすることでしか、最早この鳥は幸せにはなれません」
「……ああ」
「翼を奪うことを罪と思いますな。契りの証と心得なさい。よろしいですな」
華佗の言葉に、夏侯惇は頷く。
覚悟を持った眼差しで睨み返した。
「こいつは、俺が守る。俺の責任だ」
「…わかったらさっさと連れ帰りなさい。あと暫くはこちらに通わせるように」
途端にいつもの表情に戻った華佗は、素早く懐から真っ黒な布を取り出した。
そのまま荀彧の頭に被せ、髪の毛を多い隠すようにしてやる。
夏侯惇は起こさないよう、そっと荀彧を抱き抱えた。
「はぁ…」
後ろではらはらしながらやり取りを見守っていた夏侯淵が、安堵のため息をついた。
曹操も、口元に薄く笑みを浮かべる。
「淵…世話になった」
「いいってことよ。大事にしてやんな」
「後で、そやつに合う服を持ってこさせよう。お主の代えではその身に合わぬだろうしな」
「すまん、孟徳」
夏侯惇は二人に深く頭を下げ、救護室を出ていった。
「曹操殿、何をぼさっと突っ立っておいでですか。その鍼抜かないとただの幽鬼ですぞ」
「くくっ、お主が勝手にわしを追い払ったのだろうが」
曹操は動じることなく笑い飛ばして、寝台に座った。
何事もなかったかのように、華佗も鍼の治療を再開する。
「まったくお二人は、よくわかんねぇや……」
傍若無人な医師と泰然自若な主君。
何故か不思議と噛み合う二人に、 夏侯淵は苦笑するほかなかった。
2018/04/27