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曇天日和

どんてんびより

青鵲の恋【八】

晴れた空が好きだ。
昼間の抜けるような高く青き空も。
月が微笑み数多の星が瞬く夜空も。

落日と共に燃え落ちゆく黄昏の空も。
星月を消し去り明けゆく白霞の空も。

空の移り変わる姿を見届ける時、また自分達も姿を移ろわせる。
昼から夕へ、夜から朝へ。

どこまでも穢れなき蒼天を飛び、銀月に見守られ地に降り立つ。
自分達に赦された、特別な時間。
己の存在が空と共にあることを感じられる、そのひとときを。
ただ静かに眺めて過ごす。それが至福だった。
あの日まで。

いつものように、空がよく見える平原に出た。
月は姿を消し、濃紺の空に散らされた星もまた少しずついなくなる。
東から、真っ白な光が差し込んでくる。
その光が、人の輪郭を朧にしていく。
ああ、新しい日が始まるのだと。昨日に別れを告げながら、青い羽を宿す。
いつものように。ただ、いつものように。

「見つけたぞ」

酷く濁った声に『いつも』は破られた。
自分を真っ直ぐに見据えてくる、獣の視線。
何も遮るものがない中で、その醜い化け物と遭ってしまった。

「ひっ…!」
翼の生え揃わぬ人の姿で、ひたすら逃げ惑った。
もう少し、もう少しでで空へと行ける。
その僅な希望は、右手を捕らえられた瞬間消え去った。
「離してください!」
「誰が離すか、やっと、やっと!」
「いやです、やめっ……ヒゥゥ!」
完全に抱きすくめられた瞬間、無情にも人の姿が終わりを告げる。
絡めとられた鳥は無力に等しかった。
「大人しくしな」
「ヒュイ、ヒイイイイイッ!!」
風切羽を全て切り裂かれ、歪な翼にさせられる。
それに飽きたらず、おぞましい手は細い脚を無造作に捻った。
理不尽な暴力に晒され、気を失いかけた。
「ヒュウ、ヒイイ…!」
目の前に、真っ黒な格子の鳥籠が迫る。
絶望に続く牢獄。入ったが最後と本能が告げた。
死に物狂いで暴れ、嘴で穢れた手を突き刺した。
「いでぇ!?」
手が離れた瞬間、地に落ちることが許される。
飛べない翼と折られた脚の痛みを引きずりながら、それでも逃げた。
草むらに押し入り、ひたすら暗がりを進む。

必死で逃げた先の視界が開けた瞬間、またも人の姿があった。
刀と弓とを携えた、屈強な男二人。
嗚呼、今度こそ終わるのだと、絶望した。

「衰弱しているな」
抱き上げる力の穏やかさに驚く。
見つめてくる目が下卑たものでないことに驚く。
それでも、絶対に抗いようもないと分かる人間二人の存在が恐ろしかった。ただ、震えて鳴いた。
「ここで会ったのも何かの縁だ、無碍にすることもあるまい。治れば野生に帰す」
「はいよ。へへっ、お前よかったなぁ会ったのが俺達で」
改めて抱えられたその手に、傷つけまいとする優しさがあった。
もう一人が笑って頭を撫でてきたその手が、温かかった。

追いすがってきた男に引き渡されることなく、連れ帰られた。
処置をしてくれた医師の手つきは、鳥のことを知っていた。
嗚呼、助かったのだと。初めて安堵した。
目の前に置かれた白い鳥籠が、牢獄に見えることはなかった。

「大丈夫か」
助けてくれたその人は、餌も水も、穏やかに過ごす時間をも与えてくれた。
時折、遠慮がちに伸ばされる武骨な指先。
それに頬を寄せると、どこか戸惑った様子を見せながら笑ってくれる。
恐ろしいとさえ思ったその厳格な顔立ちは、思いの外優しさに満ちていた。
人の温もりを、知った。

翼が生え揃った後、彼は迷いなく外の世界に帰してくれた。
空がある場所こそが相応しいと言って。

また戻ることを赦された蒼天の中で。
再び見上げることの叶った星空の下で。
一度も感じたことのない寂しさばかりが募る日々。

助けられて、与えられてばかりだった。
ただ一目だけでも。一言だけでも。

『あんた、抱かれるに値しなかったんだな』

違う。そんな望みを持った訳じゃない。

『惚れてんだろ?旦那に』

違う。そんなおこがましい想いなど、ある筈が。

『せめて旦那に抱かれてたら、いい思い出になったかな』

やめて。
やめて。お願い。
見ないで。触らないで。
穢れていく。壊れていく。
助けて、いやだ。いやだ、助けて。





「っ……」
荀彧の瞼が、静かに開かれた。
太陽の如く燃える眼が覗く。曹操が話していた通りの、赤い瞳。
「荀彧、俺が分かるか…?」
「かこう、とん……どの…」
焔が揺らめくように、焦点の合わない目が宙を彷徨う。
しかしその目が夏侯惇をしっかりと捉えたとき 、瞳孔がカッと開いた。
「いやぁああっ!」
「荀彧!?」
「私、私っ…!」
「っ!待て!」
取り乱す荀彧を、夏侯惇はその腕にかき抱く。
「離してっ!いやだ、だめですっ!私、汚っ…」
必死に夏侯惇の腕から逃れようともがく荀彧の目から、涙が溢れる。
夏侯惇の胸をしとどに濡らした。
「汚くなどあるか」
それでも、夏侯惇は言葉を振り絞る。
ありったけの優しさを込めて、耳許に届けた。
「…もう、大丈夫だ」
「っ……あ…ああっ」
夏侯惇の腕を拒む体から、少しずつ力が抜ける。
やがて小刻みに震え始めて、嗚咽が漏れた。
「かこう、とん、どのっ…わたし、わたしっ」
「……」
夏侯惇は黙って、荀彧の背中を撫でた。

「っ…あ」
ひとしきり泣き濡れた荀彧は、自分に当たる日差しの強さに気づく。
夏侯惇の胸元から顔を上げると、窓の外の空は青々としている。既に日は高い。
常であれば、とうの昔に鳥の姿に戻っている時間帯だ。
「そんなっ」
思わず自分の髪を手に取る。瑠璃色のままだった。
「…戻れないのか、鳥に」
夏侯惇の問いに、荀彧の体がびくりと震える。
「なぜ、それを…」
「全て、聞いた」
誰に、とは言わない。
だがその一言で、荀彧には全て伝わった。
あの男によって自分の秘密は、残らず暴かれていると。
あれだけ痛め付けられ辱しめられながら、今こうして夏侯惇の保護下にいるのだ。
男と夏侯惇の何らかの接触があり、そして救われたことに他ならない。
「すまなかった」
「夏侯惇殿!?」
夏侯惇が、突然頭を下げた。荀彧は言い様のない衝撃を受ける。
「お前のためを思って俺は逃がしたが……それが結果的にこんな事態を招いた。お前に必要のない傷ばかり負わせてしまった。守り切れず、すまん」
苦しげに謝罪の言葉を紡ぐ夏侯惇を前に、荀彧の心は引き裂かれそうだった。
自分を何度も救ってくれた上、自分が受けた屈辱を己の責任と受け止めている。
全ては、自分の浅はかさが招いたことだ。ただ一言の礼をしたい、それ以上を求めたが故。
「そん、な、違いますっ。私がいけないのです!私が、私が愚かだったばかりにっ」
心底から情けなくなり、胸が詰まる。
上手く言葉にならないのに自身を断罪しようとする荀彧の姿は、あまりにも痛々しく映った。
「荀彧。自分を責めるな。頼む」
何も気の利いたことなど言えない。
何の気休めにもならないかもしれない。
それでも、夏侯惇は荀彧を抱きしめ続けた。
「っあ、あぁっ…」
夏候惇から与えられる優しさと温もり。
傷つき疲弊した体と心が、無償に与えられるそれに抗うことはできなかった。
逞しい腕の中で、涙が枯れるまで荀彧は泣き続けた。



「…自分たちが、通常より珍しい羽を持つことも、人へと成り代われる種であることも。故に狙われることも自覚していました」
やっと落ち着いたところで、荀彧は少しずつ語り始めた。
夏候惇はそれを黙って聞いてやる。
「過去に、同胞が被害に遭った例も伝え聞いています。故になるべく人気のない場所や、人にとっては害獣となる動物がいる場所の近くを選び住むようになりました。だから油断していたのです。私が住処としていたのは、狼がよく出る場所でしたから。あんな所まで人が来るなど…」
自分を見つけた瞬間の、下卑た男の視線は未だに焼き付いて離れない。
どんな獣よりも恐ろしくおぞましい、欲に満ちたそれ。
「あいつは知っていたんだな。人であるお前を」
「逃げましたが、捕らえられた上に間が悪く鳥に戻ってしまい。どちらの姿も晒したのです」
一昨日の夜、男は荀彧の顔を一目見ただけで顔色を変えた。
逃げられた鳥が変化した姿であることを、初めから知っていた故に。
「なんとか逃げ出したところを、夏侯惇殿と夏侯淵殿に助けていただきました。お二人はもちろん、華佗殿にも、なんとお礼を申し上げてよいか……皆様のお陰で命を繋ぎ、空に戻ることができたのです。なのに私は、それで終わりとできなかった」
人の恐ろしさも十分思い知った。
それでも、自分が身に受けた人の温かさは、何物にも代えがたかった。
想いは膨れ上がる一方で。どうしても会いたかった。
自分を救い、守ってくれた人に。
「お会いできるだけで…一言お礼を申し上げるだけでよかったのです。でも、あの時の鳥などと話しても受け入れてもらえるとも思えず」
「……ああ」
夏候惇は昔から神仙やお伽噺に耳を傾ける人間ではない。
だからこそ、荀彧の懸念は尤もだった。
「それに…一度お会いしたら、何も言えなくなってしまったのです。夏侯惇殿と、人として共に過ごす時間があまりにも…幸せで。人ならざる身であると言って、狂人扱いされるのも、拒絶されるのも、怖くなりました」
いきなり訪ねて、家の中に上がることを許されるなど、思ってもいなかった。
突然現れた素性の知れない自分を受け入れ、親身に接してくれた。そのことに戸惑い、そして喜びを抑えられなかった。
何度も助けられるたびに、想いは育ってゆく。
そして怯える最中に力強く抱きしめられた時、ついに自覚してしまった。
私はこの人を、お慕いしている。
これ以上、傍にいたら自分はおかしくなってしまう。
そう直感して、別れも告げずに離れようとしたのだ。焦っていた。
だから、男が待ち伏せしていた気配にも気付けず。

「っく………あ、あぁあ!」
男に、蹂躙の限りを尽くされた感覚が蘇る。
何も抵抗できないまま、無理矢理身も心も暴かれた。
あられもない姿に乱され、何度もはしたない声を上げて達して。
自分の痴態が、生々しく思い出される。
「嫌だ、いやぁっ…」
「っ、荀彧」
夏侯惇は再び取り乱した荀彧を抱き寄せた。
この先、彼は幾度となく犯された苦しみ、痛みに喘がねばならない。
きっとこの嘆きを全て取り払うなど、無理に近いのだろう。
だからこそ。
今度こそ、傍にいて守る存在が必要だ。

「荀彧、聞いてくれ」
腕の中で、涙に濡れる彼に語りかける。
荀彧はこくりと頷いた。
「お前を、空へと帰してやることはできん。翼を奪い、地に堕としてしまった。だから…」
消えない傷を負った彼を、守り通す。
それが今の自分に出来る、全て。
「もう二度と、お前に惨めな思いはさせんと誓う。荀彧、ここにいろ」
「っ…!?」
その言葉に、荀彧は息を詰まらせた。
「こんな、私を……?人でもなければ、穢れた私をっ」
「穢れてなどいない」
頭を振って、悲壮な声で紡がれる言葉を夏侯惇は遮る。
「お前は、綺麗だ」
今思えば。
素性もわからぬ男を家に上がり込ませるなど、今からすれば随分馬鹿な真似をした。
単に、危険な男ではないと判断を下したつもりだった。
しかしどれほど整った容姿の男を見たところで、感慨など持ったことがない。なのに、目の前の彼は初めから美しいと思った。
初めて見た時から、自分も惹かれるものはあったのだ。この青年に。
「お前だから、望むんだ」
別れの挨拶もなくいなくなったとき、自分でもよくわからぬほど気落ちした。
傷つけられ、無体を働かれた彼を見て、心底から怒りが沸いた。
「ここにいてくれ」
気づかぬままに、彼の存在は大きくなっていたのだ。



「…お願いが、ございます」
暫しの沈黙の後、か細い声が聞こえた。
「なんだ」
「私を、人にしてください」
そう言うと、荀彧は自分の右脇を押さえた。
「ここに…まだ鳥の証が残っています。それを、抜いてください」
華佗の言っていたことが思い出される。脇に小さな羽が生えていたと。
「いいのか?」
「このような髪と瞳でいるわけには、いきませんから…」
伏し目がちになりつつ、荀彧は己の瑠璃色の髪の毛を撫でた。
どんなに美しくても、人として生きていくにはあまりに不必要で。
それ以上に、荀彧にとっては忌まわしい色でしかない。
美しいが情欲に溺れた証の色であり、人を欲望に惑わせる色。
「半端に、鳥であった証を残したくないのです」
朱に染まった眼差しが、切なく夏侯惇を射抜く。
人であることを受け入れるという、荀彧からの答えだった。

「そう、か…」
夏侯惇は頷き、荀彧が纏う寝着に手をかける。
合わせ目をずらし、ゆっくりとはだけさせる。上半身が露になった。
そういえば、こうして日の光の中で彼を見るのは初めてだった。
暗がりでも白く、武人と比べれば細く見えた荀彧の体が、初めて日光を浴びている。
肌艶のよい、白く繊細なつくりの体は、途方もなく美しかった。
「っ……」
裸を見られている恥ずかしさに、荀彧は俯く。
そんな彼を、愛おしいと思うことを。ようやく夏侯惇は自覚できるようになっていた。
「…いいんだな?」
右脇に手を這わせると、確かに小さな羽があった。
「…はい」
「……」
脳裏に、華佗の声が蘇る。

『翼を奪うことを罪と思いますな』

これは、契りの証。
翼を毟ることと引き換えに、生涯その身を守るという誓いの行為。
躊躇いを振り切り、その羽を引き抜いた。

「っあぁ!」
体を駆け巡る痛みに、荀彧の美貌が歪んだ。
ただでさえ多くの傷を受けたその体に、尚も痛みを強いた申し訳なさが募る。
「…すまんな」
「大丈夫、です…」
「っ、おぉ…」
夏侯惇は驚きに目を見開いた。
瑠璃色だった髪の色が、音もなく変化していく。
赤々とした瞳の揺らぎは消え、見慣れた雁色の目が覗いた。

「ありがとう、ございます」
涙を浮かべながら微笑む荀彧は、初めて会った時と同じ見目になっていた。

「ああ…」
手の中に収まった風切羽に視線を落とす。
柔らかく、小さく。
そして真っ白な、穢れなき色。
荀彧を人の世界に呼んでしまったのは、自分だ。その事を心に刻む。
「荀彧」
夏侯惇は改めて、荀彧を抱きしめる。
荀彧もまた、その身を委ねた。

ずっと、この腕の中にいられればと願っていた。
鳥の身には過ぎたる願いを、持たずにはいられなかった。
自分に、優しさと温もりを与えてくれた人。
この穢れた身で、それでもと赦して、望んでくれるならば。



「…お慕い、しています。夏候惇殿」

嘘偽りのない想いを、ようやく口にした。






2018/05/02

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