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曇天日和

どんてんびより

青鵲の恋【終】

「支度はできたか」
鎧を身に着け終わった夏侯惇は、後ろを振り返った。
「はい、大丈夫です」
寝台の上で、衣服を整えた荀彧が微笑む。
それを見て夏侯惇も微笑みを返しつつ、手を差し伸べた。
「なら、行くぞ」
「はい」
伸ばされた手を取り、荀彧が立ち上がる。
すかさず腰に夏侯惇の腕が回り、足を引きずる体の支えとなる。
朝焼けの空の中、二人はゆっくりと歩き出した。

「っ…」
歩を進めるごとに、どうしても切られた腱がじくりと痛む。
痛みに耐え、時折止まりつつ、しかしそれでも荀彧は歩くことを止めなかった。
「平気か?」
「はい、なんとか」
荀彧は、自分からは絶対に根を上げない。
そんな姿を健気と思うが、頑張り過ぎてはいないかと内心気を揉んだ。
とはいえ、自分には支えることしかできない。

「よーぉ惇兄、荀彧!」
後ろから陽気な声がかかる。振り返ると、夏侯淵がにこやかに駆け寄ってきた。
「早いな、淵」
「夏侯淵殿。おはようございます」
「おはようさん。しっかし華佗先生も甘やかさねぇっつうか。その足で毎日通ってこいなんてよ。大丈夫か?」
夏侯淵もまた、荀彧の足元を心配そうに見やった。
腱を切られた足には今も、包帯が幾重にもきつく巻かれている。
視覚的にはまだ尚、痛々しく見えた。
「いえ、お陰様で歩く練習にはなっています。そこまで考えてくださってのことなので」
「前向きだねぇ!元気になったら、俺とも飯食いに行こうな?」
「ぜひ。よろしくお願いします」
「へへっ、そうこなくちゃな。んじゃ惇兄、また後で」
「ああ、先に行っててくれ」
先に調錬場へと向かう夏侯淵を、二人は見送った。

「っ……あ!」
「荀彧!」
危うく倒れそうになった荀彧を受け止める。今日はここまでが限界のようだ。
「今日もよく頑張った」
労いの言葉をかけ、優しく荀彧を背負った。
最早無理というところまでは歩けるだけ歩かせ、その先は自分が救護室まで連れて行く。
それが、華佗と交わした取決めだった。
日中は調錬や軍議で自宅を空ける。だが、不自由な足を抱える荀彧を独りきりにするわけにはいかない。
それに、彼の腱は完全に戻ること叶わずとも、長期に亘っての治療と経過観察が必要だった。

「おはようございます」
救護室の前で、華佗が二人の到着を待っていた。
「よろしく頼む」
夏侯惇は、救護室入口に置かれた長椅子にゆっくりと荀彧を降ろした。
こうして朝に送り届け、昼間は華佗の元で過ごさせる。そして任務が終わったら迎えに来る。
荀彧を迎え入れてからというもの、それが日課となっていた。
「じゃあな、荀彧」
「はい、夏侯惇殿。お気をつけて」
「あまり荀彧殿を待たせませぬように」
荀彧と華佗に見送られながら、調錬場へと向かう。これもすっかり日常となった。



午前中の調錬に勤しみ、あっという間に昼を迎えた。
兵士たちに休憩を指示し、夏侯惇もまた、疲労した体を調錬場の片隅で休めようとする。
楽進の声がかかったのは、ちょうどその時だった。
「夏侯惇殿、お忙しい所恐縮です。よろしいですか?」
「…なんだお前たち」
楽進だけでなく、傍らには曹休、後ろには于禁まで控えていた。珍しい取り合わせだ。
曹休は、やや心配そうな表情になりながら口を開く。
「妙な噂を耳にしたのです。最近、夏侯惇殿が物凄い美人を夜な夜な自宅に連れ込んでいると。それは本当でしょうか?」
「…は?」
直球過ぎる問いかけ、それも意味のよく呑み込めない内容に唖然となった。
「は?ではございますまい」
于禁の眉間に、一段と皺が寄った。
日頃から険しい顔つきとその見た目に違わぬ厳格さで有名だが、本日は殊更だ。
夏侯惇を見据えると、于禁もまた直球で告げる。
「くだらん噂を流すような兵は厳罰に値します。しかし、万が一。夏侯惇殿自ら風紀が乱れるような真似をしているなら、兵に示しがつかぬゆえお止めいただきたく思いました」
「ああ……」
夏侯惇は頭を抱えた。
朝と夜、荀彧と連れ立って歩く時は、決して往来の激しい時間帯ではない。
とはいえ、何人もが目撃しているであろうことは承知していた。
「悪いがその噂は全て真実ではない。連れ込んでいるわけではなく、つい最近同居人が増えただけだ」
「なんと、既に一緒に暮らしているとは!?」
思いもよらない返答過ぎて、曹休は零れ落ちそうなほどに目を見開いた。
「だから、断じて側女の類いではない。それに男だ」
「そ、そうだったのですね。大変、失礼いたしました!」
楽進は平身低頭謝った。于禁もまた、その顔に僅かに申し訳なさそうな色を滲ませる。
「…下衆のごとき勘繰りをしてしまい、面目次第もございませぬ」
「気にするな。しかし面倒なことだ…気になるなら、お前たちのように面と向かって聞きに来ればよいものを」
「いやぁ惇兄、それができたら苦労しねぇだろ」
待ってましたとばかりに、横から夏侯淵が割り込んできた。
「お前らもびっくりしたか。噂じゃなくてこれがマジなんだなぁ。元は行商の兄ちゃんで、縁あって惇兄と暮らすことになったんだよ。けど足に大怪我負っちまって、今はその治療で毎日華佗先生んとこに通ってんだ」
夏侯淵は簡潔かつ、一息に荀彧のことを説明した。
それは、あまり面倒な追及は避けさせようという、彼なりの気遣いでもある。
「華佗先生のところ、ですか?」
「そ、それは大変だな…」
華佗の名前を聞いた途端、楽進と曹休の顔が共に歪む。
二人とも、愚直なまでに前線で戦い、軍の一翼を担う猛将だ。故に生傷は多く、何度も華佗の世話にはなっている。
しかし例によって二人も、華佗の性格には付き合い切れずにいた。
「言っとくがお前ら、うっかり見かけて惚れちまわないようにな。なんたって惇兄のコレだぜ、消されんぞ?」
「も、もちろんだ!」
「そのような畏れ多いこと、断じて!」
「淵!!」
露骨な言い草に怒鳴るが、夏侯淵はどこ吹く風だ。
「なんだよ、惇兄だって隠す気ねえんだろ?」
「言い方がいちいち腹が立つ」
「惇兄~、これからはこーいう揶揄だの噂だのとも付き合っていかなきゃなんねぇんだぜ?いちいち青筋立てねぇのっ!」
「なんで俺が説教されねばならんのだ」
とはいえ、夏侯淵の言うことも尤もだと思う。
この先、自分も荀彧も、人々の好奇の視線や偏見は免れないだろう。
その時は、自分が矢面に立ってでも受け止める覚悟は、常に持っていなければならない。
「…まったく」
何時如何なるときも必ず荀彧に付き添えと命を下した、医師の憎たらしい顔が浮かぶ。
逃げ隠れするのではなく、堂々と街中を歩くことで耐性をつけろという意味もあるのだろう。
荀彧の存在を隠す方向で動くことは出来たかもしれない。
しかしそれでは、人として生きると決めた荀彧に、もっと多くの無理を強いることになるのだ。
「事情は分かり申した。この先そうした類いの噂を口にした者は即刻処罰いたします」
「そうだな…」
流石に物々しい于禁の剣幕を制そうとして、以前の夜を思い出す。
果物を売っていた荀彧に絡もうとしていたのは、恥ずかしながら我が軍の兵士だ。
考えを改めた夏侯惇は、于禁の肩に手を置いた。
「…もし、余計な真似をする輩を見かけたら遠慮なく処していい」
「承知」
「「「………」」」
夏侯惇の殺気を帯びた笑顔と于禁の鉄面皮に、三人が凍りついたのは言うまでもない。



「こちらに動かすとどうです?」
「痛い、です」
「こちらは?」
「先程よりは…」
「ふむ。よろしいでしょう」
一通り足首を動かし終わると、華佗は新しい包帯を巻き始めた。
「…すみません、今日はあまり歩けなくて」
「なんの、そんな日もあります。焦らないことです」
謝る荀彧に、華佗は優しく笑いかける。
曹操軍の誰かが見たら、逆に薄気味悪く見えるかもしれない。
本来町医者としての華佗は穏やかな性格で、民に信頼されていた。
ただし素直に言うことを聞かない者や、体を大事にしない者は話が別というだけで。

「おお、荀彧か」
「曹操殿…!」
救護室に入ってきたその人に、荀彧は身を固くした。
「ああよい、そう畏まるな」
「また日の高いうちからのこのこと…そんなに政務が嫌ですか?」
曹操の顔を見た瞬間、華佗が露骨に嫌な顔をする。
当たりが強いのは日常茶飯事なので、曹操も気にする素振りは一切ない。
眉間の辺りを押さえながら、華佗に言った。
「それもあるが、どうにも頭の調子がな。頼む」
「ここ最近許昌に引きこもってばかりだからでは?いっそ適当なところで戦でも仕掛けてみればよろしいのに」
「医師の癖に血生臭くてかなわんな、お主は。今は内側を固める時期よ」
「はいはい。荀彧殿、申し訳ないがこちらの椅子でお待ちください」
「はい」
荀彧は寝台から降りて、華佗が用意してくれた椅子に腰かける。
空いた寝台に、今度は曹操が座った。
「すまんな……ふむ」
久々に会った荀彧の姿を見て、曹操は満足そうに頷いた。
「なかなか似合っているではないか」
「あ…ありがとうございます。このような上等なもの、恐縮です」
荀彧は頭を下げた。
今着ている平服は、曹操が誂えてくれたものだ。
青い着物に黒の羽織。派手な見た目ではいが、一目見て布地の良質さがわかる。
「こうして明るい場で見ると、美丈夫が際立つな。夏侯惇め、朴念仁かと思いきや」
曹操はくつくつと笑う。
荀彧はどう反応してよいかわからず、あいまいな微笑みを浮かべた。
「曹操殿、お喋りはそこまで。顔が動かなくなってもよろしいか」
鍼の大量に入った箱を抱えた華佗は、仁王立ちのまま曹操を睨んだ。
しかし曹操も動じることなく、負けじと睨み返す。
「お主は何故そう可愛げがないのだ」
「貴方がもう少し、医師という存在を人扱いしてくだされば話は別ですがね?」
「生活に支障なき俸禄は与えているつもりだがな」
「ああはいはいそうですかわかりましたとも。さっさと目を瞑ってください」
「うっ」
丁々発止のやりとりの後、華佗が問答無用で眉間に鍼を突き立てる。
曹操も、顔に鍼が刺される間は静かにしていた。
顔や肩に、細い鍼が次々と刺されていく。その光景は、傍で見ていた荀彧には異様なものに映った。
「大丈夫なのですか?そのような針を顔に突き立てるなど…」
心配そうな表情を見せた荀彧に、華佗は笑って答える。
「これはきちんとした医術なのですよ。人の体の経絡に打って、気脈の流れを整えるのです」
「気脈…ですか」
「曹操殿は酷い頭痛持ちでしてな。気脈が滞り易い眉間や肩に打つことで、凝り固まった気脈を正し、痛みを和らげるのです」
「なるほど…あっ、すみません、まじまじと見てしまって」
初めて見た鍼治療の物珍しさに、つい荀彧は見入ってしまう。
「いいのですよ。これから生きる上で、人のものに興味を持つことは大事ですからな」
内心、華佗は荀彧の様子に安心していた。
心身に大きな傷を抱え、自暴自棄になろうともおかしくはない。そんな患者はいくらでも見てきた。
少なくとも、周囲に対して好奇心を持つのはいい傾向である。



「荀彧、帰るぞ」
夏侯惇が荀彧を迎えに来たときは、とっぷりと日が暮れていた。
「お帰りなさいませ」
「どこで油を売ってたんですか」
早速、華佗のお小言が飛んでくる。夕方を過ぎて迎えに来るといつもこうだ。
「…すまなかった。行くぞ」
「はい…」
差し伸べられた手を取り、荀彧はゆっくり立ち上がる。
朝と同じように、夏侯惇は腰に手を回して体をがっちりと支えた。
「華佗殿、今日もありがとうございました」
「……世話になった」
「では、また明日」
救護室を出て行く二人を、華佗は静かに見送った。

大通りを歩くと、夜だというのに一角が賑わっていた。
鍛冶屋の客層とは言い難い女性が何人もたむろし、何かを熱心に眺めている。
「随分、賑やかですね?」
「…そう、だな」
夏侯惇はやや渋い顔をする。
それ以上は何も言わず、鍛冶屋の前を通り過ぎようとした。
「ああ、夏侯惇の旦那ー!先程はどうも!」
ところが、夏侯惇の姿を見かけた鍛冶屋の方から声がかかる。
夏侯惇の顔に、明らかな気まずさが見えた。荀彧は首をかしげる。
「夏侯惇殿…どうなさいました?」
「っち…気にするな。ああ、世話になったな」
夏侯惇は舌打ちをしつつ、それでも鍛冶屋に向き直って礼を言った。
そんな不自然な様子に荀彧が訝しんでいると、今度は前から声がかけられる。
「あら夏侯惇様、お連れ様。こんばんは」
「あ…こんばんは」
万屋の女主人だった。
荀彧も一度、彼女から茶を購入しているので互いに顔見知りである。
夏侯惇も黙って会釈をした。
「足のお怪我、酷そうですね…大丈夫ですか?」
「はい、なんとか」
「どうぞお大事に。そうだ、また茉莉花の茶が入ったのですよ。何かと塞ぎ込むことも多いでしょうし、よかったらいかがです?」
女主人はそう言って、棚から茉莉花茶の入った袋を取り出した。
「ほう……あれはいい気分転換になる。貰おう」
夏侯惇は二つ返事で購入を決め、銅銭を取り出した。
以前荀彧が持ってきた茉莉花茶は、夏侯惇も気に入っている。機会があればまた飲みたいと思っていた。

「…あ」
その時荀彧は初めて、女主人が首飾りをしていることに気付いた。
青い羽がついた、美しい首飾り。
「これですか?これはそこの鍛冶屋が作ったものなんですよ。まあちょっと一悶着ありましたけど、綺麗でしょう?」
女主人は嬉しそうに、自分の胸元の飾りを見せる。
荀彧はそれを茫然と見つめた。
夏侯惇はしまったと思ったが、もう遅かった。
「ちょっと前までいた行商がこの羽を持ってきて、彼に作らせたんですけどね。工費も払わず逃げようとしたところを、夏侯惇殿たちが取り返してくださったんです。それで、今ああやって自分で売ってるんですよ」
女主人の視線の先には、鍛冶屋の前に形成された女性の人だかりがある。
荀彧もつられてそちらの方を見た。
女性たちは皆、とても楽しそうな笑顔を浮かべながら、装飾品を手に取って見ていた。
そこに青い羽がついているのが、僅かな隙間からも見えた。
「では、こちらをどうぞ」
「ああ。帰るぞ」
「えっ。あ」
夏侯惇は茶を受け取ると、有無を言わさず荀彧を背負った。
「夏侯惇殿、大丈夫です。まだ歩けますのに」
「いい。ではまた来る」
「はい。今後とも、御贔屓に」
遠ざかっていく二人に、女主人は穏やかな笑顔で頭を下げた。



「すまんな」
家に着いて荀彧を寝台に座らせるなり、夏侯惇は謝った。
「気分の良くないものを見せた」
「夏侯惇殿…」
自らの羽が使われた飾りが売られている。その現実を見せてしまったことを、気に病んでいる。
自分のことを気遣ってくれていることを嬉しく思い、また申し訳ないと感じた。
「どうか、お気になさらないでください。もう私は鳥ではございませんし、一度身から離れた羽は自分の物ではありません」
「だが抜け落ちたものならともかく、あれは…」
言い募る夏侯惇の手を取り、優しく撫でる。
「確かに、寂しさは感じました。ついこの間まで、自分の身体の一部だったものですし」
夏侯惇の心配は、荀彧にも痛いほど伝わっていた。
自然に抜けた羽ならばまだいい。それは荀彧の与り知るところではない。
しかし、あの飾りに使われているのは全て、無理矢理切り取られたものだ。
見るたびに、その事実と向き合わなくてはならない。
「ですが、いいのです。あのまま男の手によって売り捌かれるより、ずっとよかった」
荀彧の脳裏に、女主人の笑顔や女性たちの華やいだ様子が蘇る。
「ああして手に取ってもらえて…喜んでいただけるなら、これほど嬉しいことはありません」
それは強がりではなく、本心からの言葉だった。
自分の羽が、一部の富豪の権力欲を満たすものではなく。
市井の女性たちにささやかな喜びを与えられるのであれば、決してそれは苦痛ではない。
「っ、お前は…」
夏侯惇はたまらず、健気に微笑む荀彧を抱き寄せた。


「…荀彧。その、これを」
夏侯惇は少し迷った様子を見せながらも、懐から小さな袋を取り出した。
荀彧の手を取り、その手の平にそっと置く。
「これは?」
「お前に、返す」
「返す?」
夏侯惇が自分から借りたものなどあったろうか。
荀彧は不思議に思いながら、袋の縛り口の紐をほどいた。
「あ……」
中から出てきたものに、荀彧は息を呑む。
綺麗な彫金が施された耳飾りだった。
「これ、は」
耳飾りには、小さく白い羽がついていた。
見間違えるはずもない。自分に残された、最後の風切羽。
夏侯惇に抜いてもらった、あの羽だ。
「頼んで作らせた」
「では、鍛冶屋の御主人が言っていたのは」
突然、先程はと声をかけてきた鍛冶屋の姿が思い出された。
それに、今日は確かにいつも以上に迎えが遅かった。その事象が、線となって繋がる。
「鳥だった証を残すことを、お前がどう思うかはわからない。だがせめてこれだけは…お前に返したいと思ってな」
そう言うと、夏侯惇は耳飾りを手に取り、荀彧の耳に付けてやった。
「挟み込む形にしてもらった。お前の体に、余計な傷は増やしたくないからな」
「夏侯惇、殿…」
荀彧の視界が、涙で滲む。
抜かれた風切羽のことなど、とうに忘れていた。
こんなにも、大切に扱われている。こんなにも、自分の身を案じてくれている。
その過ぎたる幸せにただ、胸の内が震えた。
「ありがとう、ございます」
涙で声を詰まらせながら、荀彧は感謝の想いを言葉にした。
夏侯惇は黙って、荀彧を抱きしめる。
「俺は……お前を泣かせてばかりだな」
濡れた頬に手を添わせ、親指で拭き取ってやる。
「申し訳ありません…嬉しくて」
涙混じりの荀彧の笑顔が、目の前にある。
その美しさに、夏侯惇の胸は否応なしに高鳴った。

「…荀彧」
優しくその名を呼び、顔を近づける。
情を伴う交わりを、今の彼に強いるつもりは無かった。
それでも、赦されるなら。少しだけ近く、触れたいと願った。
「っ…」
わずかな戸惑いが覗いたが、荀彧は恥ずかしげに目を閉じる。
そのいじらしさが、何よりも愛おしい。
形の整った唇に、夏侯惇はそっと自分の唇を押し当てる。
静かで、軽い口付け。
「夏侯惇、殿…」
初めての接吻を終えた荀彧の顔は、月明かりでも赤く染まっているのがわかった。
唇に受けた温かさと尊さが、じんわりと心に広がっていく。
それは夏侯惇もまた同じ。
荀彧を抱く腕の力に、一段と力が籠った。
「か、夏侯惇殿……私っ」
荀彧の背が、びくりと震えた。
「すまん、驚かせたな」
「違っ、すみませんっ…」
「ああ。気にしなくていい」
どんなに互いの心が近くなっても、その心身には、深過ぎる傷痕が残されたまま。
その現実から目を背けるつもりなど、毛頭なかった。



翼をもがれたこの鳥を守り、慈しんでいくと心に誓う。
寄り添い、支えていくことで、少しでも彼が癒えればと願う。
互いに触れ合い、満ち足りることの幸せを享受できるその日が、いつか訪れると信じて。

腕の中の愛しい存在を、夏侯惇は今一度優しく抱きしめた。





2018/05/05

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