皐月の風薫る頃【二】
早朝、いつものように身なりを整えた荀彧は、登城すべく許昌の大通りを歩いていた。「荀彧様!!」
いきなり、背後から焦ったような大声がかかった。
振り返ると、見覚えある兵士が血相を変えて荒い息を吐いていた。
「あの、どうなさいましたか?」
よく見れば、厩舎に詰めている兵士だ。ならば粕毛の身に何かあったのか。
胸騒ぎを覚えながら荀彧は訊ねた。
「た、たっ、大変です!厩舎から荀彧様の粕毛が脱走しました!」
「えっ…ええっ!?」
予想だにしなかった返事に、荀彧は茫然となった。
「も、申し訳ありません、今朝馬房を見たら影も形も無くなってまして…!」
「そん、な…一体どうして」
心を許した愛馬の思わぬ事態に、流石に荀彧も動揺を隠せない。
あの穏やかな粕毛がそんな大それたことをするなど、到底信じられなかった。
不安と心配で鼓動の跳ねが大きくなった、その時だ。
「あっ、見つけたぁ!」
若い男性の、嬉しそうな歓声が上がった。
「えっ?」
振り返ると、声の持ち主と思われる笑顔の青年が駆けてくるのが見えた。
見知らぬ顔だ。なのに、真っ直ぐにこちらまで向かってきた。
青年は荀彧の前で止まると、満面の笑みを浮かべる。
「ご主人様ぁっ!」
「えっ、え?わっ!?」
あっと思う間もなく、荀彧は青年の腕の中へと収められてしまった。
「あはは、やったぁ!本当に僕、ご主人様とおんなじ体になったんだぁ!」
子どものようにはしゃぐ声が、耳元で響く。
「な…何をなさいます!?」
荀彧は慌てて身を捩り、青年から離れようとした。
だが、華奢に見えた青年の腕の力は思いの外強い。どうやっても振り解けなかった。
「離してくださっ…あっ、んんっ」
そうこうしているうちに、青年はいきなり荀彧の首筋に顔を埋めてきた。
柔らかな髪にくすぐられ、つい鼻にかかった声が出てしまう。
青年はといえば、荀彧の香の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、ご満悦の様子だ。
「うーん、ご主人様ほんといつもいいにおいだよね…すき…」
「いつ、も…?」
青年の『いつも』という言葉が引っ掛かる。何故、自分が香を好むことを知っている。
それに、さっきからどうして彼は自分を『ご主人様』と呼ぶのか。
「貴方は、一体…?えっ!?」
戒めが解かれたかと思いきや、今度は勢いよく持ち上げられ、横抱きにされた。
行き交う市井の人々も、荀彧が青年に抱えられている様に気付いてざわつき始めた。
「っ、あ…」
恥ずかしいところを見られていると自覚し、荀彧の頬が赤く染まる。
しかし青年はそんなことなどお構いなしに笑いかけた。
「わぁい!僕、こうやってご主人様抱っこするの、夢だったんだ!」
「降ろしてくださいっ」
必死に抵抗するも、びくともしない。武将にも優るとも劣らない力を秘めているらしい。
純然たる力では抗う術がないと突き付けられ、いよいよ荀彧は焦ってしまう。
この青年は一体何者なのか。自分の身柄を、どうしようというのか。
「あれ?ご主人様、僕のことわからないの?」
「え?」
困惑のまま、荀彧は青年の顔を見上げる。
不思議そうな顔で自分を覗き込んでくる、青年の顔があった。
「あっ…?」
何故だろう。改めて眺めても、やはり見覚えがない、とは思う。
にもかかわらず、吸い込まれそうなほど大きな黒い瞳が荀彧の目を引いた。
悪意の欠片も見えない、純粋な輝きを持つ、穏やかな眼差し。
それまで何の面識もないと思い込んでいた顔に、どうしてか懐かしさと親しみが芽生えた。
「えへへ、そっかあ。僕はね…」
悩む荀彧を見て、青年はにっこり笑いながら口を開こうとした。
「何者だ!」
「えっ、ぐぇっ!?」
突然、青年の首根っこが引っ張られた。
急な息苦しさに耐え切れず、青年は荀彧から手を離してしまう。
「わっ…!」
放り出される形になった荀彧の体は、厩舎詰めの兵士がしっかりと受け止めた。
「荀彧様、大丈夫ですかっ」
「は、はい。ありがとうございます」
兵士に礼を言い、荀彧は現れた人物へと向き直る。
「于禁殿…!」
峻厳な面構えを更に厳しくさせた于禁が、青年の身柄を確保していた。
「わーん、ご主人様ぁ!」
青年は振り払おうとするが、于禁はそれを許さずがっちりと抑え込む。
泣き喚く青年の顔を覗きこんだ後、于禁の視線は荀彧へと向いた。
「荀彧殿、この不審者に見覚えはございますか」
「それが…」
何とも説明しようがない心地をどう伝えればよいか、と逡巡し始めた時だ。
「朝からなんの騒ぎだ」
背後から、よく通る低音の声がかけられる。
振り返ると、調錬に向かうところと思しき夏侯惇がいた。
「この男が突然、荀彧殿に襲いかかっていたので」
「なっ!?大丈夫か!」
于禁の説明に、夏侯惇はさっと顔色を変えた。
「襲ってなんかないもんっ」
『襲いかかった』という表現が気に食わなかったらしく、青年は口を尖らせた。
「僕はただ、ご主人様に抱きついただけだもん」
「ご主人様…だと?」
夏侯惇は眉を顰めた。
仮に荀彧の小間使い等だったとして、この馴れ馴れしさは何なのか。
「それは、随分と聞き捨てならないね」
今度は反対側より、涼やかな声が横槍を入れてくる。
郭嘉と荀攸が、普段よりも渋い顔をしながら荀彧に近づいてきた。
二人は荀彧を挟むようにして、青年の前に立ち塞がった。
「文若殿、一体この者は」
鋭い視線二人分が、于禁の手で拘束された青年に向けられる。
「私も、何が何だか…」
戸惑っているうちに、既に于禁の配下が数名集まってきていた。
于禁に代わってがっちりと青年を確保し、そのまま引きずっていく。
「詳しい話は城で聞こう」
「ああっ、待って、待ってよぉ!わぁん、ご主人様ぁ~!」
連行される青年の、悲しい叫びが大通り中に響き渡った。
「…まるで餓鬼のような男だったな、図体の割に」
夏侯惇は呆れたような口調で言った。
荀彧以上、それどころか自分と同程度の背丈と思しき青年なのに、言動は子どもそのものだ。
「朝から変な輩に絡まれて、大変だったね」
さり気なく郭嘉が荀彧の腰に手を回そうとしたが、荀攸にやんわり止められる。
その荀攸も珍しく強い口調で、荀彧に釘を刺した。
「どこに危険な輩が潜んでいるともわかりません。お気を付けください」
「は、はい…」
頷いたものの、どうしても青年の瞳や人懐こい様子が頭から離れない。
初対面でいきなり触れてくる正体不明の男など、警戒すべきなのに。
何なのだろう、この感覚は。何故こんなに、青年の面影が引っかかるのか。
「さあ、軍議に参りましょう…ん?」
荀攸が促すのと同時に、何やら地響きのような音が聞こえた。
その音はどんどん、4人へと近づいてくる。
「一体…何かな?」
郭嘉が音のする方へと目を凝らした時だ。
「ご主人さまぁ~~~~~~~~~っ!!」
土煙を上げて、凄まじい勢いで大通りを駆けてくる姿が見えた。
それはついさっきまで、ここで騒動を起こしていた張本人。
「な…っ!?」
ほんの、一瞬だ。妙な錯覚が起きた。
目の前に迫り来たる、青年の姿。
その柔らかい髪の色が、たてがみに。自分を射抜く目が、見慣れた瞳に。
これはまるで―――――。
「わ、うわぁっ!?」
はっと我に返った瞬間、荀彧はまたも抱きつかれていた。
「ご主人様、あの人こわいよう~!」
青年は半泣きで荀彧の胸元に縋り、いやいやと首を振ってくる。
まさか、鍛え上げられた于禁の部隊を振り払って戻ってくるとは思わなかった。
何よりあの一瞬見せた脚力、とても人のものとは思えない。
「っ…!?」
抱きすくめられた瞬間、微かだが、獣の臭いが荀彧の鼻を掠めた。
この臭いを、自分は知っている?
「そん、な」
いくらなんでも、夢物語が過ぎる話だ。
しかし、もし今頭に浮かんだ仮定が、真実だとしたら。何もかも辻褄が合う。
「荀彧から離れろ」
夏侯惇が麒麟牙を構えた。郭嘉と荀攸も素早く得物を向ける。
「おっ、お待ちください!」
声を上げたのは、他ならぬ荀彧だった。
そのことに、三人とも一瞬虚を突かれた顔をする。
「荀彧殿、だけど…」
「すみません。少しだけ、この青年と話す時間をください。どうかお願いします」
荀彧は必死に頭を下げた。
三人は困惑しつつも、いったん構えを緩める。
それを見て一度胸をなで下ろしてから、荀彧は青年を見上げた。
「お願いです、まずは離していただけますか?」
「う…ん。わかったよ」
青年も流石に荀彧の真剣な面持ちを前に、素直に言うことを聞いた。
そっと荀彧から手を離し、改めて向かい合う。
「申し訳ござらぬ、なんたる不覚っ」
やや焦りの色を滲ませながら、于禁が引き返してきた。
流石の于禁も、この細い青年に自分の配下を全員投げ飛ばす力があるとは想像がつかなかったらしい。
加えて、とても常人の足ではない速さで一瞬にして逃げ出され、成す術がなかった。
「…皆様方、何故遠巻きにしておられますか」
目の前で荀彧と向い合せの青年を前にしても動こうとしない三人を見て、于禁は訝しがる。
「文若殿がどうしてもあの者と話したいと」
「むう…」
荀攸の説明を受け、于禁の眉間に皺が寄った。
自分を狙った不審者と話し合うなど、危険極まりない行為でしかない。
納得は行かなかったが、于禁も仕方なく見守る体制に入る。
「あの…貴方は何故私を、ご主人様と呼ぶのですか?」
念のため、まずは一番気になっていた疑問を、素直にぶつけてみる。
「だってご主人様だもん」
きょとんとした顔で青年は返してきた。これでは埒が明かない。
意を決して、荀彧は核心へと迫る問いをする。
「…では、お聞きします。貴方は昨日、私がどちらにいたかご存知ですか?」
「知ってるも何も、一緒にお出かけしたじゃない」
青年は目を輝かせた。どくん、と荀彧の鼓動が跳ねる。
「一緒、に…?どちらまでか、言えますか?」
昨日、暇を貰った上で何処に向かったかは誰にも伝えていない。何をしたかも話していない。
知っているとしたら、それは。
「うん。一緒に淮河ってところをずーっと西に行って、滝を見に行ったでしょ!僕もついつい川の水が気持ちよくってはしゃいじゃってさ。それとご主人様ったら、帽子流しちゃって僕が取ってあげたじゃない」
「っ…!!」
屈託なく笑いながら返ってきた答えに、いよいよ荀彧は声を詰まらせた。
そう。昨日は淮河を遡った先にあるという、滝まで遠乗りをした。
休憩中、川の奥深くへ行こうとする愛馬を止めようとして、窪みに脚を取られて。
川に流してしまった帽子を、果敢に取りに行ってくれたのは―――。
「気づいた?僕だよ、ご主人様っ」
目を見開き、言葉を失う荀彧を見て、青年も感じ取ったらしい。
満面の笑みを見せながら、改めて荀彧を優しく抱きしめた。
「ほ、本当に、貴方なのですか…?」
「そうだよ、ご主人様っ。ほら、この髪の色、ちゃぁんと粕毛でしょ?」
青年は、耳元の髪を指でくるりと動かした。
茶色と白い毛が入り混じり、灰色に見えるそれは紛れもなく、愛馬の粕毛と同じ。
「荀彧、結局そいつは何なんだ」
痺れを切らした夏侯惇が声をかけてきた。
はっとして振り返ると、四人とも幾分険しい顔つきで荀彧と青年を見据えている。
「は、はい。あの…」
説明しようとするが、あまりにも非現実的過ぎてどうしたものかと思う。
それでも、こう言うほかなかった。
「実は私の愛馬である粕毛が、今朝より行方知れずで。それで、どうやらこの青年が…粕毛のようなのです」
「「「「…………」」」」
四人の間に、なんとも言えない沈黙が流れた。至極当然とも言えたが。
「う~ん…荀彧殿、それはなかなか夢のある話だけれど、ね?」
気まずい空気を、最初に破ったのは郭嘉だった。
それに呼応して残りの三人も口を開く。
「文若殿、あと一日暇をいただきましょう。ご自身で思う以上にお疲れかと」
「いくらなんでも、馬が人になれる訳なかろう」
「貴殿の馬が脱走したは厩舎詰めの兵士たちの責務。即刻捜索に当たらせます故、暫し御辛抱を」
散々な言われようだが、反論の余地がないほどもっともな意見だ。
荀彧とて、自分が突拍子もないことを口にしている自覚はある。
「私もこのようなこと、信じ難いです。ですが…」
改めて、自分を抱きしめてくる青年を見上げた。
不思議なもので、見れば見るほど、粕毛にしか見えなくなってくる。
冷静に振り返れば、首や胸元に頬を寄せたり、顔を埋めてくる仕草も、粕毛そっくりだ。
何より、昨日の遠乗りで同じ景色を見たのは、自分と粕毛だけ。
「この青年、私が昨日、淮河の滝まで遠乗りに行ったことなど、私と…粕毛しか知り得ない事実を知っています」
「ならば、貴殿をつけ狙う間者の類と見るべきでは」
于禁の目がぎらりと光った。その意見に、他の三人も大きく頷く。
言い返せない正論に、荀彧は俯いた。
「はい…于禁殿の言はごもっともです。私も妄言を吐いていることは承知しております」
頭では理解しているのだ。馬鹿げたことを言っていると。
なのに、青年が粕毛だと確信してしまった今、つい必死になってしまう。
「ですが、彼は間者というには言動が幼いですし、殺気が微塵もありません。演技で出来るものではないかと」
「確かに、そいつが餓鬼のようなのは認めるが…しかし荀彧」
お伽噺のようなことに拘るなど、らしくもないと夏侯惇は困惑する。
「よいではないか、皆」
背後から、突然聞き覚えのある声がかかった。
全員が一斉に振り返ると、想像した通りの人物がそこにいた。
「殿…!」
「軍議に満寵しか来ないなど、非常事態だなと思ったら…なかなか複雑怪奇な話になっているな」
曹操は一同を見回しながら、愉快そうに笑う。
「も、申し訳ございません」
荀彧は咄嗟に頭を下げた。郭嘉と荀攸も、ややばつの悪い顔を浮かべる。
「あー!絶影君のご主人様だ!」
青年は曹操の顔を見た途端、嬉しそうな声を上げた。
その馴れ馴れしいこと極まりない口調に、すかさず夏侯惇が睨みを利かせる。
「貴様、孟徳にまでそのような口を利くか…」
「よいよい。確かに、わしが絶影の主だ」
于禁の間を抜け、曹操は荀彧と青年の前に立った。
ひと通り青年を見回した後、真剣な顔になって問い質す。
「お主はまこと、荀彧の粕毛と申すか?」
「そうだよ!」
青年は迷いなく即答した。
「荀彧も、そう思うのだな?」
「…はい」
少しだけ躊躇いを見せたが、荀彧もはっきりと答えた。
「どうしても私には、彼が粕毛に見えるのです」
人にしか見えぬ男を、愛馬だと肯定する。傍から見れば気でも触れたかと思うだろう。
だがそれを、日頃より清廉潔白と名高い荀彧が、真面目に言っている。
冗談などを言える性格をしていないことは、曹操が一番知っていた。
「ならばよし、お主を荀彧の従者と認めよう」
至極あっさりと、曹操は言ってのけた。
「…孟徳!!」
一瞬呆気にとられるも、その意味を理解した夏侯惇が食って掛かった。
曹操は気にせず笑い飛ばしながら、于禁の肩に手をかける。
「怪しい動きを見せれば処断すればよいだけのこと。于禁、その時は頼むぞ」
「…承知いたしました」
主君の命であれば、と于禁は静かに頭を下げた。
「やったぁ!ご主人様、これでいつも一緒だよぉ!」
お墨付きをもらった青年は、嬉しさにはしゃぎながら荀彧を抱き寄せた。
「わっ、やめてくださいっ。あっ、もう…」
こんな笑顔で頬擦りをされては、無下に引き剥がすのも可哀想に思えてしまう。
それに、触れられても肌が粟立つような嫌悪感も出てこない。
姿形は大きく変わっても、やはり彼は慣れ親しんだ存在―――粕毛なのだ、と思い知る。
「仕方のない子ですね…」
荀彧は苦笑しつつ、その頭を撫でた。
指に絡む柔らかなその感触は、愛馬のたてがみとまったく一緒だった。
「これは、厄介なことになったね…」
郭嘉はひとつため息をつきながら、横の様子を窺う。
目の前のじゃれ合いを、仏頂面で眺める荀攸が目に入った。
2018/09/21