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曇天日和

どんてんびより

皐月の風薫る頃【四】

廊下の突き当たりまで来たところで、ようやく粕毛は止まった。
「急にどうしたのです、こんなに慌てて…」
腕から降りた荀彧は、一段と突飛な行動に出た愛馬を心配そうに見上げた。
自分だけに注がれる眼差し。それは本来とても嬉しいはずなのに、今の粕毛には少しばかり痛く感じる。
「だ、だって。あの満寵ってひと、なんか僕、苦手だなぁ…」
粕毛は咄嗟に目を逸らし、ぼそぼそと言葉を濁した。
「満寵殿が、ですか?」
「うん……あーゆー人を、『好奇心旺盛』って言うのかなぁ?」
ふと漏らされた言葉に、荀彧は困ったような微笑みを浮かべつつ頷いた。
「ええ、そうですね…確かに満寵殿に相応しい言葉かと」
「そ、そっかぁ…」
粕毛は笑おうとするが、口の端が引きつったのが自分でもわかった。



『よーし、これでお前も立派な人間だな。いいぞ』
その声に恐る恐る目を開ける。まず飛び込んできたのは、主と同じ形をした手だった。
自分の意思で細かに動く五本の指。そして二本の足で立つ我が身。
『わ…凄い。僕、本当に…?』
その手で自分の頬に触れる。馬では絶対にできない行為だ。
『あー、そうだ。一つ約束してくれるか?』
やや畏まった様子で、仙狸は粕毛に詰め寄った。
一体何を言われるのかと、一応粕毛も口を引き結ぶ。
『お前が変身できたのはこの仙狸様のおかげー…ってことは絶対に誰にも言うなよ』
『え、なんで?』
予想通りにきょとんとした顔になる粕毛を見て、仙狸は深くため息を吐いた。
しかしすぐに顔を上げ、にやりと笑う。
『お前を化かした存在がいるってことを…俺の存在を下手に知れ渡らせて、混乱させたくねぇのさ。好奇心旺盛な人もこの世には結構いるしな、珍しい存在だって俺を探しに来られても困る』
『そうなの?』
『ああ。俺はあくまでひっそり生きていたい。でも、お前があんまりにもご主人様が好きでたまらないって様子見せるから、ちょいと手助けしてやりたくなったんだよ』
そこまで言うなり、仙狸は今まで浮かべていた笑顔を消した。
『言っておくが、もし喋ったら即座にお前の変身解いちまうからな』
『ええーっ!やだぁ、僕、しばらく人でいたいよう…』
わかりやすくしゅんとなった粕毛を、また仙狸は愉快そうに笑い飛ばした。
『そりゃそうだ。だからこそ、頼むな?』
『…うん。約束する!』



「…あんまり、あの人には会いたくないなぁ~」
満寵という男の底知れなさを、粕毛は動物らしい直感で理解した。
真っ直ぐに見つめてこられたとき、妙な寒気が走ったのだ。
何もかもを見通されてしまうような。気づかれてはいけないものを暴かれそうな。そんな不安。
「満寵殿は何しろ、興味を持った物事に関してはまっすぐ情熱を注がれる方ですから…急に色々聞かれて、戸惑ったんですね」
荀彧は優しく微笑みながら、粕毛の頭を撫でる。
「満寵殿には私からも言っておきますから、どうか嫌わないであげてください。決してお人の悪い方ではありません」
「う、うん…ごめんね、ご主人様」
少しだけ罪悪感を覚えたが、粕毛もようやくにっこりと笑うことができた。

「ふー、眠い…ふわぁあ」
間の抜けた声と共に、カツカツという人の足音が聞こえてきた。
振り返ると、丁度階段から兵士が二人、ゆったりと降りてくる姿が目に入る。
前を歩く兵士は、豪快な欠伸をしていた。
「あっ馬鹿、荀彧様の前だぞ!」
後ろにいた兵士が荀彧の存在に気づき、慌てて怒鳴り散らした。
「うわっ!?し、失礼いたしましたっ!」
「申し訳ありません!」
二人の兵士は揃って、縮こまりながら頭を下げる。
日頃より、万事の言動が整った荀彧の前でみっともない姿を見せるなど、恥ずかしさの極みだ。
そんな二人の恐れ畏まる様子に苦笑しつつ、荀彧は穏やかに接した。
「いえ、そんな…どうぞお気になさらず。交代のお時間でしたか」
「は、はい。そうなんです…」
「お役目、御苦労様です。帰宅されたらしっかり休んでくださいね」
「ひいい…すみません…」
「失礼します…」
怒られるどころか却って気を遣われてしまい、ますますばつが悪い。
兵士たちはそそくさとした足取りで、その場を離れていった。

「ご主人様。あの人たち、階段から降りてきたけど…今までどこにいたの?」
遠ざかっていく兵士たちの背中を見送りながら、粕毛は訊ねた。
「あの二人は、早朝から昼までの見張りを務めている兵士なのです。今まで屋上に…」
「屋上!?」
その言葉に、粕毛の目がぱっと輝きを放つ。
「ねえご主人様!僕、屋上に行ってみたい!」





「わぁっ!こんな景色、初めて見たぁ!」
雲一つない青空の中、眼下に広がる栄えた街並み。
粕毛は城壁から身を乗り出さんばかりの勢いで、許昌の全容を見渡した。
目に映るものすべてに興味津々な粕毛を、荀彧は穏やかな眼差しで見つめる。
「ここからは許昌のすべてを見通せますよ」
「すっごぉい…広いところなんだね、ご主人様や僕たちが住んでるところって…」
「ええ。これも陛下…帝の威徳と、曹操殿のお力の賜物です」
荀彧も粕毛の傍らに立つと、すっと手を伸ばして西の方角を指した。
「あちら、見えますか。あの柵で囲われた場所」
「うん…?あ、もしかしていつも僕たちが遊びに連れてってもらってるところ!?」
馴染み深い放牧地であることに気づくと、粕毛は目を丸くした。
「ええ。上から見ると放牧地も広いでしょう。それで、貴方たちが普段過ごしている厩はあちらに…」
荀彧の視線は、今度は反対側の、やや南東に構えられた大きな建物へと移された。
「うわ~、あれがそうなの!?僕たちが住んでるところって、あんなに大きいんだ!?」
粕毛はますます驚いて感嘆の声を上げる。
許昌の中でも、厩舎の占める割合は広範囲に亘っている。想像以上の広さだった。
馬としてでは決して見られず、知ることもなかったであろう光景。粕毛は食い入るように眺めた。
「体の大きい馬が休む場所ですから…そこを窮屈にしてはならぬと、殿が設えられたのです」
「ふうん…絶影君のご主人様、ふとっぱらだね…」
「おや。どこでそんな言葉を覚えたのです」
急に人間らしい単語を口にしたのが面白くて、荀彧はつい笑みを零した。

「随分と楽しそうだな」
ふいに、背後から朗々と響く声が掛けられた。
その声の持ち主をよく知る荀彧は、慌てて振り向く。粕毛も一緒に後ろを振り返った。
「あ、絶影君のご主人様~。こんにちは」
視界に入った人物の姿を見るなり、粕毛は笑って手を振る。
「あっ…殿、申し訳ございません」
流石に、曹操への軽い態度は荀彧にとっても冷や汗ものの案件だ。
畏まる荀彧だったが、曹操はそれを笑いながら制する。
「そう気にすることはない。面白いものが見られて何よりだ」
荀彧よりも頭一つ高い青年の姿を、曹操は改めて見上げた。
きらきらと光る目が宿るその表情には、成長し切った図体には見合わぬ幼さがある。
傍目にはどこから見ても人でしかない彼を、荀彧が自分の粕毛だと主張するのは不可思議だ。
しかしそれを納得させるだけの、現実離れした危うさがこの青年には潜んでいる。曹操も何とはなしに感じ取っていた。

「絶影君のご主人様って、ほんとにすっごいんだね!こんなに大きな街作っちゃうんだもの。絶影君もほめてたよ」
粕毛は曹操を見下ろしながら、黒目がちな瞳を更に輝かせた。
「うん?絶影が、わしをな…」
突然粕毛の口から飛び出した絶影の存在に、曹操は俄然興味を持った。
愛馬の絶影が日頃何を思っているかなど、人には理解の及ばぬ話である。
それを、一端でも聞けるとあれば耳を傾けないわけにいかなかった。
「奴とは一体、どんな話をするのだ」
「ええと…絶影君、いつもはずーっと寝てるから、あんまりそんなおしゃべりはしないんだけどね」
「ふ…あやつらしいな」
ひとたび命令を下せば類稀なる走りを見せてくれるが、馬房ではそんな気配は微塵もない。
日々の半分以上を寝て過ごしているとは、厩舎の兵士からよく聞いている。
「でもね、起きてる時はご主人様のことをみんなに話してくれるんだよ!戦ってる時のご主人様はかっこいいんだよー、とか、他の人にはできないことをやってる、強い主なんだーって。あとは、ええと…」
暫し、粕毛は天を見上げて考え込んだ。やがて大事な内容を思い出し、にこやかに話す。
「こないだはね、絶影君がご主人様に買ってもらった時の話をしてたんだ。『俺は主に逢うために産まれてきた気がするんだ』って言ってた」
「ほう、わしに逢うため…」
曹操の脳裏に、いつか牧場で見た光景が思い出される。
広い牧草地の片隅で、立派な馬体を持て余し佇んでいた真っ黒な若馬。
牧場主からは不気味だと忌まれていたその姿は、曹操の目にはこの上なく眩しく映ったものだ。
「…絶影め。言ってくれるではないか」
鷹揚でありながら、機を見るに敏、そして影をも絶やす走りを見せる愛馬。
その真なる忠心を知って、満足そうに頷いた。
曹操の深い喜びを悟った粕毛もまた、満面の笑みを見せる。
「馬はみーんな、自分のご主人様のこと大好きだよ!もちろん、僕もっ」
粕毛は高らかに言うと、傍らの荀彧に思い切り抱きついた。
「わっ、やめてくださいっ。殿の御前ですよ!」
恥ずかしさに頬を染め、荀彧は必死に粕毛を押し返そうとする。
そのやり取りを、曹操は口の端を釣り上げながら見やった。
「そんなに慌てるお主が見られるとは」
「と、殿…お恥ずかしい限りです」
「ふっ…まったく面白い」
日頃、沈着冷静で鳴らした荀彧が、困り果てながら赤面する姿など滅多に見られない。
暫し曹操は笑みを浮かべながら二人を見ていたが、やがてすっと顔が引き締まる。
「粕毛よ」
鋭い視線が、粕毛を射抜いた。
「は、はいっ」
粕毛も、曹操の力強い眼力を感じ取り、背筋を伸ばす。
張り詰めんばかりの威圧感に、思わずごくりと喉を鳴らした。

「お主の主は、我が子房。覇道を成すに欠かせない軍師だ。この先、また危ない目に遭わせるやもしれんが、その時はお主が必ずや守り通せ」

粕毛も荀彧も一瞬、虚を衝かれた心地がした。
しかし曹操の云わんとする所を悟った瞬間、粕毛は力強く返事をして頷いた。
「は…はい!わかりましたっ!」
主を託されたのだという使命感が、粕毛の目に生命力を滾らせる。
「っ、殿…」
それはかつて仕官した際にも贈られた、望外の言葉だ。
荀彧の胸の奥が、じわりと熱を持つ。
「…ではな。水入らずのところ、邪魔した」
再び軽く笑みを浮かべたかと思うと、曹操は外套を翻した。

「すごい…」
颯爽と遠ざかっていく小柄な背を見て、無意識に口から出る。
貫禄が違う。流石は、絶影が心より慕う主。そして、自分の大切な主を従える人。
日頃、荀彧があんなにも直向きに仕事をする理由の一端が、僅かに見えた気がした。





「もう花は終わってしまいましたが…あれは桃なんですよ」
ひと通り許昌の城の中を見て回った最後に、粕毛と荀彧は中庭に辿り着いた。
既に花の時期を終え、瑞々しい若葉を垂らした桃の木が二人を出迎える。
「むー…あ、見っけ」
葉の間から僅かに小さな実が覗いている。粕毛の視線は早速そこに注がれた。
「いけませんよ、その実は食べられません」
「えっなんで僕が食べようとしてるのわかったの!?」
荀彧が釘を刺すと、粕毛は面食らいながら慌てた。
「この桃は花こそ美しいですが、実はこれ以上大きくならないんです。それに、まだ青々としていますから…どのみち食用には適していません」
「ううっ…なんだぁつまんない」
粕毛はがっくりと肩を落とした。その素直な反応がおかしくて、荀彧も苦笑するしかなかった。
「もう……お腹が空きましたか?ではそろそろ帰りましょうか。陽も大分傾いてきましたし」
荀彧は頭上を見上げた。空は既に、鮮やかな茜色に染まっている。
「…っくし」
急な寒気を覚えて、荀彧は小さくくしゃみをした。
「ご主人様、大丈夫?」
「ええ、大丈夫ですよ。ただ、まだ夜が近くなると冷えますね」
荀彧は、腕の辺りを緩やかにさすった。
少し寒そうに身を縮こまらせる主に、粕毛は首をかしげる。
「そうかな?僕はあんまり感じないけど…」
粕毛の装束は、荀彧の装束よりずっと薄手だ。
しかし、むき出しになっている二の腕にさして変化は感じなかった。
「貴方は馬ですし、きっと人よりは寒さに強いのでしょうね。体温も私より高いですし…」
「あ、確かにそうかも。じゃあご主人様、早く帰ろうっ」
善は急げとばかりに、粕毛は荀彧の腰に腕を回そうとした。
「い、いいです、抱きあげなくていいですからっ!」
また横抱きにされてはかなわぬと、荀彧は慌てて抵抗する。
「だって早くしないと、ご主人様風邪ひいちゃう!僕に掴まってたらあったかいし!」
「だ、大丈夫です!大丈夫ですから!降ろしてください!」
荀彧の必死の懇願に、粕毛は仕方なく持ち上げかけた体を降ろした。
しかし不満は収まらず、膨れっ面で荀彧に詰め寄る。
「もー!ご主人様のけちんぼ!」
「そんな言葉、どこで覚えたのです…」
先刻、微笑ましく思いながら言った台詞を、今度はため息混じりに呟いた。

「じゃあ…手ぇ繋いで帰ろう、ご主人様」
「えっ…」
戸惑う荀彧の目の前に、大きな左手が差し出された。
「ほら、僕の手あったかいから!ね?」
「…仕方ありませんね」
大の大人の男二人が、手を繋いで横並びに歩く。
恥ずかしい光景ではある。しかし、それでも横抱きにされて帰るよりはましだろう。
荀彧は観念して、右手を差し伸べた。
「手袋はだーめ!」
粕毛は不服そうに口を尖らせると、有無を言わさず荀彧の手袋を剥ぎ取った。
「あっ」
「えへへ」
露になった荀彧の素手を、粕毛の左手が握りこむ。
柔らかな温もりが、じわりと肌越しに伝わった。
「あ…」
手と手を繋ぐ。自分は、当たり前に何度か経験してきたことで。
でも、人の体となった彼には、これもまた、物珍しくて貴重な触れ合いなのだ。
心から嬉しそうな粕毛の表情を見て、ようやくそれに思いが至る。
「…ええ。帰りましょう」
自然と、荀彧も顔が綻んでいく。
幼子に向けるような、柔らかな微笑みが浮かんだ。

どくり。

「っ」
胸の内で、引っくり返るような音がした。
粕毛は慌てて、空いている方の右手で胸を押さえつける。
「どうしました?大丈夫ですか?」
荀彧も驚き、心配そうに粕毛を見やった。
「う、ううん。なんでもない。ごめんね…」
粕毛は謝ると、すぐに元の笑顔を取り戻した。
幸い、あの胸の音は一瞬だけだ。
その瞬間だけ、脈が乱れることなどよくある話。病気などではない。
そう言い聞かせながら、粕毛は今ひとたび荀彧と手を繋ぎ直す。
「さぁ、帰ろう!」
「は、はい…」
幾分引っ張られるような形になりつつ、荀彧は粕毛と共に中庭を出た。



「…頃合いだな」
連れ立って歩く二人の背後で、銀の双眼が煌めいた。




2018/11/07

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