皐月の風薫る頃【六】
瞼が開いたとき、既に部屋は明るくなっていた。いつも通りの、朝の気配だ。しかし、妙に体が重くてだるい。
夜更かしはしていないのに、何故だろう。
「ん、っ…?」
ふと、寝る前に焚き染めておいた香の匂いに混じって、微かな汗の臭いを感じた。
まだ季節は春で、むしろ夜は肌寒さも残るというのに、どうして。
そこまで薄ぼんやりと思い至った瞬間、意識が覚醒した。
「……ああっ!」
跳ね起きようとして、腰の辺りで制止される。
横に寄り添う存在から伸ばされた腕が、しっかりと回されていた。
「あ、っ……!?」
あられもない自分の肢体に、荀彧は震え上がった。
寝着を乱され、ほぼ裸同然となった姿。下腹部にべったりと残された睦事の痕跡。
そして、自分の体を包み込む、裸の青年。幸せそうに眠っていた彼の睫毛が、ゆらりと動いた。
「…ご主人様、おはよう」
すっと見開かれた目は、甘く艶やかな色を宿していた。
見慣れているようで、決していつものそれではない。子どものように無邪気な瞳とは違う。
これは、情愛を伴う目つきだ。それが自分へと注がれている。
「わ、私っ……何、を………!」
昨晩の夜の光景が、ありありと思い出される。
起きてしまった事態に、思わず両手で顔を覆った。
「なにって…僕たち、ゆうべはひとつになったじゃない」
慄く荀彧の気持ちなど露知らず、粕毛は微笑んだ。さも当然、と云わんばかりに。
「そん、な……あっ」
困らされることはあれども憎めなくて、可愛いげのあった笑顔が、今は恐ろしい。
いけない、離れなくてはと、頭が警鐘を鳴らす。
「やだよ、ご主人様」
逃げを打とうとする荀彧の動きを悟り、粕毛は素早く抱きすくめてきた。
「い…いけ、ません……やぁっ…!」
肌が触れ合うと同時に、まだ清められていない下半身がちゅく、と濡れた音を立てる。
それだけで羞恥が押し寄せ、頬が赤らんでしまう。
「ご主人様…きれい…ふふっ…」
恥じらう主の、なんと美しく、愛おしいことか。
溢れてくる気持ちを抑えきれず、粕毛は荀彧へと覆い被さった。
薄紅色の潤んだ唇に、自分の唇を押し当てる。
「ん、んっ…」
柔らかく、でも逃げることのできない口づけ。
舌が絡まるたびに、互いの背筋を甘美な刺激が駆け抜けていく。
「ご主人様…大好きだよ……」
余韻たっぷりに離された唇から、愛の言葉が降り注いだ。
それからというもの、粕毛は毎晩のように荀彧を求めた。
馬と人が、一つ寝床で睦み合い、肌を重ねる。絶対にあってはならないこと。
あってはならないことに夜毎、身を委ねているのだ。
その事実が、荀彧の心を震え上がらせる。犯してはならぬ禁忌の只中に、自分がいるという事実に。
「お願い、です……こんなこと…もう……あぁっ!」
「どうして…」
「わ、私と、貴方はっ……あ、んん!」
抗いたいのに、どうしても強く抗えないでいる。
力の違いは歴然だ。ここぞとばかりに本来の獣の力で以て組み敷かれ、身じろぎひとつできなくて。
だが、決してそれだけではない。本当に、どうやっても力が入らない。
彼から口づけを落とされるたび。逞しい手が肌を伝っていくたび。大好きだと見つめられるたび。
途方もないほどの脱力感に襲われ、力が奪われていく。
なんとか腕を振り上げたところで容易く交わされ、また褥へと力なく投げ出すしかなくて。
どうして。どうして、彼を拒めないのか。
この忌まわしい行為から抜け出せないでいるのか。
「あっ、ふぁ……ん、やぁっ…!」
敏感な部分に触れられ、吸いつかれるたび、恐ろしいまでに膨れた快感が身を支配していく。
これまで、自分で慰めにしてきた生理的な行為とは何もかも違っている。
激流の中でもがくように、息をするのも必死だった。
「ごしゅじんさまぁ…」
熱に浮かされた目が、見下ろしてくる。昼間は純粋な輝きを放つ瞳が、愛欲に塗り潰されていた。
「っは、あ、んっ!いやぁ……おねがい、です…!」
抵抗の意志は言葉でしか紡げなくて、そして何の意味も成さない。
互いに呑まれ切ったこの状態では、ひたすらに快楽の果てまで突き進むほか道はなかった。
「あっ、あ…ああああっ!」
度重なる行為ですっかり受け入れることを覚えた場所が、容易く雄の侵入を許す。
穿たれることを待ち望んでいたかのように、中がひくりと震えた。
「っ、ごしゅじん、さまっ…あったかぁい…」
荀彧の温もりに包み込まれ、その心地よさが粕毛を満たし、酔わせていく。
粕毛は恍惚の表情を浮かべながら、更なる気持ちよさを求めて腰を振った。
「ああ、んっ、あ、ゃあっ!」
突き動かされるたびに弱い部分を擦られ、喉から金切り声が上がってしまう。
甘く蕩けた叫び、濡れた水音、寝台の軋み。
濃厚な情が匂い立つ闇の中、二人の交わりの熱が何度も響き合った。
「あ……ううっ」
ずきり、と頭の奥が軋んだ。思わずその場にしゃがみこむ。
同時に腰からも鈍い痛みが伝わった。
「っ…」
当然、腰の鈍痛の原因はわかっている。毎晩のように求められ、抱かれて。
惑乱する自分の姿が嫌でも思い出され、顔が火照った。
書庫に誰もいなくて助かった。今の自分の顔は、とても人には見せられないだろう。
『ご主人様ぁ、まだ終わらない?』
扉の向こうから、急かすような甘えた声がする。
「は、はい。待ってください、今行きますから…」
慌てて残りの書簡を差し戻し、外へと出た。
「んもう、遅いよ」
入り口に待たせていた粕毛が躊躇なく抱きついてくる。
しなやかで圧の籠った腕が回され、その胸の中に閉じ込められた。
「すみません…」
謝ると、粕毛はにっこり笑って首筋に顔を埋めてきた。
「っあ…ん」
ふわふわとした髪が肌を擽る感覚は、そのまま夜の情事を思い起こさせる。
思わず、鼻にかかった声が漏れてしまった。
「ふふ、ご主人様かわいい…」
その反応を楽しむように、粕毛は荀彧に頬擦りをした。
「何をしておいでですか」
棘を含んだ低い声が飛んできた。
声の主がわかった瞬間、荀彧の顔から血の気が引く。
「こ、公達、殿…」
振り返れば、苦虫を噛み潰したような表情で荀攸が佇んでいた。
「文若殿。甘やかすのも程々にした方がよろしいかと。つけ上がる一方です」
荀攸の厳しい目が、荀彧を捕らえる粕毛へと向けられる。
しかし粕毛は怯むことなく見返して笑った。
「僕、つけ上がってなんかないもん」
聞く耳を持たぬとわかるや否や、荀攸は荀彧に視線を移した。
「誰の目に触れるか知れない場所で、そのように主と従者が接しては、一体何を言われるか」
「っ…仰る通りです。申し訳ありません」
複雑な思いに駆られながら、荀彧は頭を下げた。
指摘は尤もだ。城内の誰もが通る場所で男二人が抱き合う姿など、口さがない者たちの格好の標的だ。
荀攸に見られたことは恥だが、逆に言えば、粕毛の事情を知りつつ忠告してくれる彼でよかったかもしれない。
「…行きましょう。少し話があります」
危ういものを感じ取った荀攸は、半ば強引に荀彧の手を取った。
「あ、公達殿…」
ぐいっと引っ張られた、その直後だった。
「っう…!」
視界がぐらりと揺れて、歪む。
体勢を保っていられなくなり、その場に膝をついた。
「文若殿!?っぐ…!」
目の前で座り込んでしまった荀彧に驚く間もなく、荀攸は突き飛ばされた。
「触るなっ!僕のご主人様だ!!」
咆哮に近い、激しい怒鳴り声がぶつけられる。
体を起こした荀攸の目に飛び込んだのは、荀彧を抱きしめ、こちらを睨みつけてくる粕毛。
「な…!?」
一度も見たことのない剣幕に、思わず荀攸も声を詰まらせた。
「…ご主人様、大丈夫?ちょっと休もうよ」
荀彧に向き直ったとき、粕毛の表情は一瞬にして穏やかなものに戻っていた。
そのまま荀彧を横抱きにし、荀攸には目もくれずに走り出す。
「っ、文若殿…!」
粕毛の腕に抱かれた、青ざめている荀彧にせめても声をかける。
荀彧も、悲痛な表情をした荀攸が見えていた。ただ悲しいかな、今の粕毛を制止する力はなかった。
「公達殿…申し訳、ありません…」
届かぬ謝罪を口にするのが、精一杯だった。
「ここなら、ゆっくり休めるね」
粕毛が連れてきたのは、いつも軍議の際に留守番させられている休憩室だ。
まだ残る目眩の感覚に苛まされながら、荀彧は寝台に体を委ね、大きく息をついた。
「すみません……でも、流石に公達殿を突き飛ばしたのは…」
荀彧が咎めると、粕毛は口を尖らせながら言い返した。
「だって、あいつがご主人様を引っ張ったから」
「あの時急に、目眩が起きただけで…ですから、決して公達殿のせいではありません…」
急に引っ張られたことがきっかけになったのは確かだ。
だが既に頭痛の兆候もあり、疲労も重なっている今、眩暈が起きてもおかしくはない。
荀攸に怒りの矛先を向けるのはお門違いだと、どうにかして諭したかった。
「…ご主人様。もういいよ、あんな人のこと」
急に、粕毛が頬を寄せてきた。熱を帯びた吐息が吹きかけられる。
「っ、あ……!?」
背筋がぞわりと逆立った。
間髪入れず、粕毛の手が荀彧の下半身へと伸ばされる。
「僕だけ、見てよ。ね?」
袴の上から、股の間がつっとなぞられた。
「あ、やっ…!」
「ふふ…気持ちいい?」
短い喘ぎに気をよくした粕毛の指先が、袴の留め具を解き始めた。
「まっ、て。何を考えてっ…あ…あっ!」
抵抗しようと腕を伸ばしたが、いっこうに力が入ってくれない。
そのうち、緩められた留め具から袴が滑り落ちた。露になったそこに手が伸ばされ、触れられてしまう。
「気持ちよくなったら…きっと楽になるよ…」
粕毛の熱い舌が耳朶を舐り、指先は中心を強く握り込んだ。
与えられる刺激に、荀彧の頬はみるみる紅潮していく。
「あ、んっ…いけませんっ……人がっ……いやぁ…」
己の恥態から逃れたくて、荀彧は固く目を瞑った。その刹那。
粕毛の目が怪しい輝きを放つ。欲に満ちた銀色の中に、惑う荀彧が映った。
「っは…ご主人様…ごしゅじんさま、いいにおい…」
「んっ、んう……っ!」
粕毛の唇が、快楽に必死で耐える荀彧の唇を捕らえる。
「んぅー…っ……ううっ!」
激しい口づけが、声を、息すらも奪う。
下半身を弄ぶ手はより性急な動きになっていき、荀彧は震えながら呻いた。
翻弄され、意識が朦朧となればなるほど、無防備になっていく。
そこへと齎される刺激は、あっという間に荀彧を高みまで追い詰めた。
「ふ……う、んぅ……ん、んんー…っ!」
背筋が硬直し、熱が弾け飛ぶ。
荀彧の切ない叫びは、すべて粕毛に呑み込まれた。
手の内が蜜で濡れる感触を確かめつつ、粕毛はようやく唇を放す。
「っは…ごしゅじんさま、らくに、なった…?」
「っ、あ……はぁ…っ」
粕毛の優しい問いかけに、荀彧はただ喘ぐしかできなかった。
「…っ」
渡り廊下の窓から、荀攸の視線は確かにその姿を捉えた。
ひとくくりにした粕毛色の髪をたなびかせながら、軽快に走る青年の後ろ姿。
その彼に横抱きにされているのは、間違いなく荀彧だ。
「文若殿…!」
思わず窓の欄干を掴む。遠目ではあっても、荀彧の表情が優れないことはわかった。
「おや、荀攸殿」
「郭嘉ど…うわぁ!?」
見知った声に呼ばれた方を向いたはいいが、目に飛び込んだのは予想外の光景だった。
大声を上げて後ずさった荀攸に、声の主は苦笑いを浮かべる。
「驚き過ぎだよ」
荀攸に声をかけたのは、確かに郭嘉だ。いくつかの竹簡を抱え込んだ姿に驚くべき点はない。
問題は、その隣にいる存在だ。
大量の書物が限界に近い高さまで堆く積み上がり、目の前に聳えていた。
その書物の塔を抱え込んだ人物の顔は見えない。辛うじて、手甲が判断材料になった。
「……ま、満寵、殿?」
「やあ荀攸殿。奇遇だね」
書物の横から、思った通りの人物の顔が覗いた。
「一体そこから何を見ていたんだい?……ああ」
郭嘉もまた、窓の向こう、遠ざかっていく人の影を見つける。
納得したように頷くと、やや厳しい顔つきとなって荀攸に向き直った。
「荀彧殿が心配なら、協力する気はないかい?実は化け物の伝聞などについて、空いた時間で調べ回っていてね」
「え……っ。ではまさか、この書物は全部…!?」
絶句しながら、荀攸は満寵が抱える書物を見上げた。
古書の一式や戦が終わった後の報告であれば、多い時はそれなりの量になる。
それに比べても遜色ないほどの書物が、すべて伝承の類にまつわるものだとは思わなかった。
「いやはや、掘り起こせばあるものだろう?」
満寵は少年のように得意げな笑みを浮かべた。しかしすぐ口元を引き結ぶ。
「あの青年が粕毛の馬…というのは、荀彧殿と曹休殿が断言する以上、信じるべきかなと私は思った。でも、元から粕毛が物の怪だったならばともかく、あくまで元々はただの馬だろう?化ける力があるなんて思えなくてね」
至極真面目な調子で満寵が語れば、郭嘉も同調して台詞を引き継ぐ。
「つまり、粕毛自身の力ではない…なら、彼を化かした存在がいるのではないか、ってね。それに…」
郭嘉はちらりと窓の外を見やった。既にいないが、目先に捉えた姿を思い返す。
「今の荀彧殿は、あの粕毛に主導権を握られてしまっているように見える」
「…はい。決して普通の主従関係とは言えません」
強い調子で、荀攸は首肯した。
このところ輪をかけて、粕毛は荀彧の近くに寄り過ぎている。そして荀彧は成すがままで、どこか虚ろだ。
どう見ても、主と従者の適切な距離感とは思えなかった。
「それを物申したかったのですが、逃げられまして」
無念の表情を浮かべる荀攸の肩に、そっと郭嘉の手が添えられる。
「ならばもう、本人たちにあれこれ言うより、粕毛を元に戻す術を突き止めた方が早いかもしれない。そうは思わないかい?」
「っ…!」
傍から聞けば、曹操軍の軍師たちが雁首揃えて何を語るや、ではある。
しかしここ数日に亘って不可思議な事象は続き、そして確実に荀彧は疲弊しているのだ。放ってはおけない。
打てる手がどこかにあるなら、打たなくては。
「俺にも手伝わせてください。満寵殿、半分持ちます」
「ははっ、よかった。人手が増えて助かるよ」
荀攸の言葉を受けて、満寵は嬉しそうに書物の塔を降ろした。
「っは…あ……あぁ…いやぁ…!」
毎晩のように、そして一夜で何度も果てさせられて。
その上今日は、城内でも淫らな行為に及んでしまった。身も心も、とうに疲れ切っているのに。
「あ、ああ……や、んん…あっ!」
口づけを受けるだけで、体の奥が火照る。抱かれることに悦びを見出だしてしまう。
そんな主をすべて見通すかのように、粕毛は執拗に弱い部分を攻め抜いた。
「はぁ、はぁ……ごしゅじんさま…すきっ…」
「ん、あっ…あぁーっ!」
囁きと共に、胸も、秘所も、すべてをねっとりと解されていく。
何もかも奪い取られていく心地の中、最早抗う言葉のひとつ荀彧は紡げなかった。
「ああっ…ごしゅじんさま、ごしゅじんさまぁ…!」
何度抱いても、飽きる気がしない。とても甘くて、深い沼。
もっと、もっと。ほしい。すべてを味わいたい。
今宵も粕毛は、荀彧を貪り尽くした。愛する気持ちを抑えられぬまま。
「ん……?」
傍らがぼうっと熱くなる感覚が、粕毛を夢心地から呼び覚ます。
ふと、隣に横たわっている存在を見やった。
「おは、よう…ござい…ます…」
「…えっ?ご主人、様…?」
いつも聞く優しい声からは程遠い、掠れた声だった。
涼しげな目許は赤く充血し、疲れに落ち窪んだ印象を受ける。
頬は赤く染まり、汗ばんでいるのがわかったが、どう見ても情に濡れているわけではない。
「だ、大丈夫?なんか、声ひどくない…?」
「だい、じょうぶ…です…けほっ…」
起き上がった荀彧の口から、苦しそうな吐息が零れる。
力なく首を振る姿は病人そのものだ。何一つ、大丈夫な要素が見当たらない。
この状態で外に出してはまずい。そう直感した直後だった。
「っ……」
小さな呻きを上げたかと思うと、がっくりと荀彧の体が崩れ落ちた。
「ご主人様!?」
寝台から落ちそうになった荀彧を、咄嗟に抱き止める。
完全に力の抜けた体に、嫌な熱が籠っていた。
2018/12/09