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曇天日和

どんてんびより

逢魔之時(上)

帝の体調が思わしくない。
尚書府に内密の急報がもたらされたのは、夏の盛りらしく未だ薄明るい夕刻のことであった。
荀彧は取るものもとりあえず、急いで禁中へと向かった。

「种輯殿っ……陛下のご容態は!」
荀彧が駆けつけた寝所の前では、种輯と宦官が一人、そして帝付きの侍医が神妙な面持ちで顔を突き合わせていた。
常日頃であれば何かと気難しい視線を向けてくる种輯であるが、今日ばかりはその余裕もないらしい。
供手してきたかと思うと、落ち着かない様子で話し始めた。
「昨日から食が細く……今朝よりは、煎じた茶の一杯以外、何もお召しになっていらっしゃらないのです」
「っ……それはいけません」
「ですが、その……どうしたらよいかわからず」
「どういう……ことですか?まさか、っ」
他ならぬ侍医が匙を投げるような発言をしたため、荀彧の顔はさっと青ざめた。
まさか、既に取り返しのつかないほどに事態が逼迫しているのか。医師が早々に諦観の境地にならねばならないほどの。
そう思いかけた直後、侍医の口から飛び出した言は思わぬものであった。
「違うのです、むしろ見た目にはお健やかそのものです!だから私も困っているのです」
「え……?」
想像の範疇外の台詞に、荀彧も呆気に取られてしまう。なおも侍医は、頭を抱えながら話し続けた。
「これが近頃の暑さ故の食あたりや病などであれば、まだ私にもやりようがあります。ですが不思議なことに、陛下の脈も顔色も常とお変わりなく。咳や熱もありません。念のため御身もくまなく拝見しましたが、どこにも変調は見受けられませんでした」
「その言葉は真です!私も立ち会いましたが、陛下御自身には目立っておかしいところがございません」
「私も先ほど拝謁しました。ただ、時折酷くお苦しみなのです。この者らが言う通り、見た目にはご健勝なだけに訳が分からず」
宦官も种輯も、かなり必死な口調で侍医の説明を補強する。嘘をついているとは思えなかった。
「さよう、ですか……」
彼らの証言に納得する節はある。荀彧が最後に帝に拝謁したのは、昨朝の集議。その時は、常と変わらぬ姿であった。
何より、二日前の夜。最後に寝所に侍り、夜を共にした際も、彼の人の心身に異常は見受けられなかった。
近頃の暑気は厳しく身に堪えるが、帝が特別に夏負けしている様子、まして病を抱えている兆しなどは、ここ最近で感じたことはない。
「では私も、陛下にお目通りしてもよろしいでしょうか?」
「……そのためにお呼び立てしたのですよ。貴方であれば少しは、陛下のご心痛も和らぐかもしれませんので」
それまで目を泳がせるばかりだった种輯だが、この時ばかりは声に棘が表出していた。
帝の恩寵の深さを当て擦られているとは容易に察せた。されど、今ここで返すべき言葉はない。
「では、僭越ながら……失礼いたします」
种輯の口惜しげな視線を受け流しつつ、荀彧は静かに寝所へと足を踏み入れた。


「陛下、荀文若が参りました。お加減はいかがですか」
帝は寝台に仰向けとなって横たわっているが、返事はない。荀彧は拝礼しつつ、寝台の真横へと近づいた。
季節が幸いし、夕刻であっても玉貌や寝姿はつぶさに窺える。
(確かに……一見しては)
一通り眺め渡してはみたものの、帝は何事もなく眠っているようにしか見えなかった。
頬は紅潮しておらず、熱はなさそうだ。逆に生白さを感じるほどではあるが、元来の肌色よりかけ離れているわけでもなく。
食事もほとんど取っていないとはいうが、たった一日二日ではやつれたという判断も下せない。
医師ではなくとも、荀彧なりに感じ取るものはある。現状は侍医の申告通りであり、視診だけでは何も読み解けそうになかった。

「う、うう……っ」
ふいに、帝の眉間が歪んだ。だらりと投げ出していた手を胸元にやり、袷を掴みながら唸り声を上げる。
「っ!陛下、陛下っ!?」
荀彧はすぐさま、帝の手に己が手を重ねた。刹那、帝の目が開かれる。
「あ……荀、彧……う、う……っ」
「陛下……っ」
瞬間的な変容に、荀彧も驚きを隠せなかった。今の今まで平常な様子で眠っていたのに、突然の反応だ。
しかし握った手から感じる脈は、侍医の言うとおりに一定である。それにも驚かされた。
よくよく眺めれば、帝の顔色にも大きな変化はなく、汗もかいていない。にも拘らず、帝は眼前で呻いている。
確かに、これはおかしい。
「ううう……荀彧、っ……すま、ぬ……」
「お気を確かに、陛下。私がお側におります」
荀彧は微かに痙攣する帝の手を取り、自らの掌で包み込みながら撫でさすった。
今この場にて、それくらいしか施せない自分が歯痒い。そしてこの無力感は先刻、种輯たちが味わったものでもあろう。
(どうすれば……)
それなりに年数を積んでいる侍医でもあの調子では、具体的に対策を講じさせるのは難しい。
まして詳しい心得もない侍中や宦官女官たちでは、右往左往するばかりだ。

ならば。取るべき道は、ひとつ。

「种輯殿っ、お願いがございます!」
判断を下すや、荀彧は寝所の入口に向かって声を張り上げた。直ちに种輯が侍医を伴い入室してくる。
「陛下!」
「ああ、どうしてこのようなっ」
种輯も侍医も、帝の異変に慌てふためくばかりだ。荀彧は二人を見つめて、毅然として告げた。
「今すぐ、華佗老師をこの禁中までお呼び願えますか」
「……はぁ!?」
「ご、ご冗談はおやめください!あのような市井の下郎に頼るなどもってのほか!」
「……!」
ある程度覚悟はしたものの、いざ口にしてみれば思った以上の反発である。
特に、侍医の豹変ぶりは凄まじい。今まで縮こまって大人しくしていた姿からは考えられないほど、眉を怒らせている。
太医令に定められし医官である者らにとって、華佗という存在は、荀彧が思っている以上に異端者扱いらしい。
「ですが、事は一刻を争います。医の理を究めんとしていらっしゃる華佗老師であれば、陛下を蝕む何かを突き止めていただけるやも」
「訳もわからぬ草や実を使った薬に、怪しい健康法などを吹聴している外法者ですよ!陛下の尊き御身に触れさせるなど私が許しません!」
「宮中の医官たちを軽んじるにもほどがありましょうぞ!しかもよりによって、曹操殿のお気に入りの町医者とは……」
曲がりなりにも官職を預かる者としての意地から。対立する勢力が重用している存在への忌避感から。
侍医と种輯、それぞれの思惑は半ば怨恨に近い抗弁となり、頑としてその場を動こうとはしてくれない。

「あ、ああ……う、っ……うううっ……!」
ひとたび、帝が激しく苦しみ出した。
「陛下っ……!」
無為に押し問答をしている猶予はない。
意を決すと、荀彧は帝から手を離して立ち上がった。
「では、私が華佗老師をこちらまでお連れします。それまでどうか、陛下をよろしくお願いいたします」
「荀尚書令ともあろうお方が、国に仕えてもおらぬ者を禁中に立ち入らせるおつもりですか!」
発狂寸前になりながら、侍医は食ってかかってきた。しかし荀彧も怯まず、断固たる面差しで見つめ返した。
「それが陛下をお救いする道であれば、私は……」
二人を退かせるべく、荀彧もわずかながら声に鋭さを帯びさせた、その時。

「え……っ!」
突如、荀彧の左手首が掴まれた。
驚いて振り向く間もなかった。咄嗟には反応できないほどの強い力で引き倒される。
受け身も取れず、そのまま荀彧は寝台に眠る帝へと突っ伏す形になった。
「う……うぁ……!?」
掴まれた手首が、ぎりぎりと軋んで痛みを訴える。このまま握り続けられていたら、折れてしまうかと思うほどの。
「っ、陛下……っ、あのっ、申し訳あり、ま……っ」
顔を上げた瞬間、帝と目が合う。
刹那。一筋の悪寒が、荀彧の背を駆け抜けていった。

「行くでない」

聴き慣れた筈の、己が名を呼ぶ帝の声。見慣れた筈の、己が瞳に映る帝の貌。
されど。されども。

「……陛、下?」
荀彧が声をかけると同時に、手首にかかる圧力がふっと抜け落ちた。間を置かず、帝が瞬きを繰り返す。
「…………荀彧。ああ、すまぬ」
帝は少し戸惑った様子で、荀彧から手を離した。そのまま、ゆっくりと起き上がる。
「陛下、いけません。ご安静に!」
事の成り行きを茫然と見ていた种輯と侍医も、慌てて寝台に駆け寄る。
見つめてくる三人分の顔を眺め回すと、帝は大きく深呼吸をした。
「うむ……何となく、治まった。もう大丈夫だろう。いらぬ心遣いをさせてしまったな」
「ですが、先ほどの苦しまれようは尋常ではありません。城下に私のよく知る医師がおりますので、こちらにお呼びすることをお許し願えませんか」
「まだそのようなことをっ」
「よせ、种輯」
声を尖らせた种輯に対し、帝は鬱陶しそうな視線を向けた。血色に特段の変化は見られず、汗もない。
今の今まで、あれほど苦痛に苛まされていたとはとても思えない様相だった。
帝はひとつ息をつくと、荀彧の手を取りながら言った。
「今宵は、そなたが側にいてくれぬか。落ち着いたのも、そなたが来てくれたおかげであろうから」
「っ……ですが」
近侍を求められ、荀彧は困惑の表情を浮かべた。しかし帝も、切々たる眼差しで懇願する。
「頼む。朕は、そなたさえいればよい」
最後の言葉が飛び出した瞬間、种輯と侍医は愕然として目を見開いた。絶望にも近い表情だった。
次いで、苦虫を噛み潰した顔となりながら、荀彧を睨みつける。
「……では、私どもはこれにて下がらせていただきます」
何か言いたげな目ではあったが、种輯は拱手すると踵を返した。侍医も歯軋りをしながら、黙ってそれに続く。
さながら敗北者のように退出していく二人の背を、荀彧はいたたまれない心地で見送った。


「お二人も、心より陛下の御身を案じておられました。さすがに、あの仰りようは……」
向き直った荀彧に対して、帝は苦笑いを浮かべて頷いた。
「わかっている。だが、あ奴らは騒いでまごつくのがせいぜいだ。そなたのように、静かに寄り添ってはくれぬ」
帝の顔色は、やはり常と変わらない。しかし、横顔はどことなく寂しげに映った。
いつまた、あのように謎の苦痛に苛まされるとも限らないのだ。傍で見ている者たち以上に、帝自身が不安に揺れていることを感じ取る。
「……やはり、今からでも医師を」
「ああ、華佗とかいう者であろう?なんでも、鍼を用いて曹操の頭痛を治しているとか」
「華佗先生をご存じでいらっしゃいましたか」
帝も名を知っていることに、荀彧もいささか驚かされる。
どれほど医官たちが忌み嫌おうとも、真の高名とは市井の雑踏の中に覆い隠せないものだ。
「私の知る限りですが……人というものを知り尽くした、当代随一の名医です」
「そなたがそこまで申すのであれば、間違いないだろうな。朕もぜひ会うてみたい」
「では……」
この好意的な反応であれば、事を進められる。そのように荀彧が期待したのも束の間、帝は軽く首を振った。
「診てもらうとなれば、朕が華佗とやらの許まで行こう。今日はそこまでの元気がないから、よいと言っているのだ」
「ですが、あの発作の仕方は……何かの変異としか考えられません。今一度、御身に何かありましたら」
「だからそなたにいてほしいのではないか」
なおも説得しようとした荀彧を、帝はきっぱりとした物言いで制した。
「自分の体は、自分が一番よくわかる。食が捗らぬのはただの夏負けであろう。しかし、なんともいえぬ気持ちで……」
帝は宙を見上げながら、眉を顰めて逡巡した。懸命に、自ら納得し得る言葉を探しているようで。
暫しの沈黙の後、帝は何度か頷くとゆっくり口を開いた。
「そう、だな。自分がいずこへ放り出されてしまうような、と言えばよいか。我を失う、とはこういうことか……?」
「え……っ」
その言葉に、荀彧は目を見開いた。先ほど味わった強烈な違和感が蘇る。
帝は心細げに俯きながら、さらに続けた。
「朕はそなたを引き留めたであろう。しかしあれも、気づいたらそうなっていたのだ。気づいたら、無闇に力を込めてそなたの手首を掴んでいた」
「……っ」
荀彧の視線は自ずと、掴まれた自身の左手首へ向かう。
異様なほどの力で以て握り締められたそこには、まだ赤く痣が残っていた。

あの瞬間の帝は、何かが違った。
痛みを伴うほどの強引さで留め置かれた上、言葉に詰まるほどの眼力で射抜かれて。
目の前にいるのは、紛う方なき帝である筈なのに。まるで、見知らぬ者と相対しているかのように思えて。
そればかりではない。感じたのは、怖れ。
一切の弁舌も通じない、理解にも及ばないと、直感した。つまるところ、未知なるものへの慄き。
今、帝が語った言葉は、荀彧が体感した違和と恐怖を十分に裏付けるものであった。
やはりあの時、帝は自らの意志を発していたのではない。苦しみの内に意識を失ったまま、突き動かされたのだ。

「……すまぬ。こんなに、痕をつけてしまって」
帝は心底、後悔した様子で荀彧の手を取った。自らつけてしまった痣をやんわりと撫で擦る。
「い、いえ……どうかお気になさらず。それよりも、やはり正確な診察を……っ」
「嫌だ」
荀彧の進言を聞くなり、帝が必死の形相で抱きしめてくる。
「お願いだ、荀彧……今宵ばかりは、朕の側にいてくれ。朕は……怖くてならぬ……」
背に回された手が、震えている。悪夢を見た幼子が、母に縋りつく様にも似ていた。
「ただの病であるよりも……また我を失いそうになる方が、よほど怖い。頼む……そなたが、繋ぎ止めてほしい」
「陛下……」
間違いなく、帝は何らかの変異を玉体に宿している。そう確信できた以上、このままにしておくわけにはいかない。
されど、これほどに暗澹たる心地を抱える彼の人から、一時でも離れてしまうことも酷に思えた。
せめて他の者を頼って華佗を召喚することが叶えばよいが、种輯たちがあの様子では、恐らく誰一人とて望みは受け入れてくれないだろう。
優先すべきは、正確な病状の把握。されど、今ここで帝が最も欲するのは、誰かが側にいるという安心感。
「……かしこまりました。ただし、また御身に異変がありましたら、その時こそ華佗先生をお呼びします。そのことを、お許し願えるのでしたら」
観念した荀彧は、そう条件を呈した。帝はやっと安堵の笑顔を浮かべると、深く頷いた。
「ああ……それでよい。だから……」
「はい、陛下……」
荀彧も頷き返すと、未だに怯える帝の背を優しく擦った。

「荀彧……」
ふいに、帝の手が荀彧の被る帽へと伸びてきた。
「っ、陛下……あっ」
帽が外されるや、次に帝の手は上着を掴む。脱がされた上着が、ばさりと音を立てて床に落ちた。
身軽にさせられた荀彧は、そのまま手を取られて寝台へと引き込まれた。
「帽と上着を纏ったままでは、そなたも寝にくいであろう」
「ですが、これでは……」
夜毎ここで抱かれている記憶が、否が応でも思い起こされる。羞恥に縛り上げられるような心持ちだ。
居心地悪く戸惑う荀彧の肩を、離すまいとして帝がぐっと掴む。
「無体は働かぬ……そなたの温もりを感じさせてくれれば、よい」
「…………っ」
耳元で静かに囁かれても、荀彧の緊張は解けなかった。
このまま、事に及ばれてしまうことだけは避けたい。ただそれのみを願い、息を潜める。

「じゅん……いく……」
やがて、帝の声がまどろみを帯び、遠のいていく。抱きしめる手からも、力が抜ける。このまま穏やかに夜を迎えられるのであれば、それが最善だ。
ほう、と溜息をつくと、荀彧の身からも強張りが抜け落ちる。安心すると同時に、急に荀彧の視界も朧になり始めた。
(え……まだ、夜には……)
帝の腕越しに、窓の外の景色を見る。空は、夜の訪れを告げる深い蒼に染まるも、完全な闇ではない。なのに、どうして。
いつまた、帝が人事不省になるとも限らないというのに。自分まで、本当に寝るわけにはいかないのに。
しかし、そう思えば思うほど、抗い切れないほど強い眠気が、荀彧の意識を呑み込んでいく。
(へい……か…………)

最後に荀彧が見たのは、傍らで満ち足りたように眠る帝の寝顔だった。





喔喔……喔喔……

「う……」
甲高い鶏鳴を聞きながら、重い瞼を開く。部屋は既に暁光が射し込んで薄明るい。朝の気配だ。
しかし起き上がろうとして、何かに遮られる。それが帝の細腕であると気づいた瞬間、ようやく荀彧の頭が覚醒した。
「え、っ!?」
なんということだ。あのまま、帝と共に眠ってしまったのか。あまりの失態に血の気が引く。

「おはよう荀彧」
耳元に、帝の声が届く。妙に優しい響きだった。
「も、申し訳ありません、陛下……!」
荀彧は慌てて謝罪し、帝の腕を丁重に退かしつつ上体を起こした。帝もその後を追うようにして起きる。
「私は……あぅっ」
急に体勢を変えた反動か。頭がくらりと揺れる感覚に襲われ、荀彧は蹲った。
同時に、ひどい怠さを感じる。思わず知らず熟睡した割に、満足に寝たという感覚が湧かないのは何故なのか。
「大丈夫か?」
疲労感をもて余す荀彧の背を、帝は背後から気遣うようにして撫でてきた。
「は、はい…………あの、陛下は……っ」
額を押さえつつ、荀彧は振り返って帝の顔を眺めた。驚いたことに、普段以上に健康そのものの血色だった。
表情にも曇りはなく、辛そうな気配も感じられない。昨日の発作に苦しみ抜いた姿が、嘘であったかと錯覚するほど。
茫然とする荀彧に対し、帝は至極嬉しそうな、屈託のない笑みを浮かべた。
「あの後は、よく眠れたのだ。いつになく早めに寝たせいか、目覚めも不思議とよくてな。これも、そなたが傍らにいてくれたおかげであろう」
「陛下……本当に、お加減は……」
あまりの上機嫌ぶりに、荀彧はつい訝しげな視線を送ってしまう。こちらに心配をかけまいと、無理をしているのではないか。
「ああ、なんだかすっきりとしている。朝餉も食したい気分だな」
「それは……ようございましたが……」
空元気と疑うには、あまりにも帝は溌剌としている。本当に調子はよさそうだ。
しかし、これでもう安心だと判断を下すのは、あまりにも早計である。
种輯たちも、まず言っていたのは『見た目に異常はない』ことだった。そのため、手の尽くしようがわからぬ、と。
見た目には徴候なくとも、明らかなる変調を来したのは事実。今ここで見過ごすわけにはいかない。
「陛下。そうはいってもやはり、私は気がかりでなりません。華佗先生をお連れしますので、今一度」
「それは構わぬ。この通り気力の戻った体で行っても、向こうの手を煩わせるだけだ。曹操と鉢合わせるのも面倒であろうし」
「そのことについては、私が万事手配いたします。ですからどうか……」
「わかった、わかった。次に何かあれば必ず行くから、今日のところは見逃してくれ」
なおも食い下がろうとした荀彧の肩を、帝は笑いながら叩いた。





「陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅう……」
曹操の口上に合わせ、朝堂に集った官人一同が恭しく供手し、頭を垂れる。
その規律正しく厳かな光景を、帝は玉座より見下ろした。
「朝から大儀である。面を上げよ」
ややあって、心なしか弾んだ声色が響く。曹操の背後に控えていた荀彧は、ゆっくりと顔を上げた。

「本日も良き日であるな。皆、己が責務に励んでほしい」

旒の合間より覗く表情は、稀に見るほど年相応な青年のものだった。





2020/08/19

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