逢魔之時(中)
「ふむ、なるほど……」一通りの報告を受けた華佗は、呑み下すように宙を見上げた。荀彧の肩を解す指先は休めずに。
特に凝り固まった部分に指圧がかかると、さすがに荀彧も眉を顰めた。
「っつ……」
「おっと、やはりここが痛いですか。しばしの我慢ですよ」
「はい。大丈夫です……どうかそのまま」
「すぐ楽になりますから。ああそうだ、またよい茶が入りましてな、終わり次第お淹れしましょう」
「いつも申し訳ありません。ありがとうございます」
今朝の集議が終わって後、荀彧は午前中の暇を申請してから華佗の許を訪れていた。
表向きは肩の治療ということにしてあるが、実際のところは帝の変異について意見を伺うためである。
幸いにして他に患者はいなかったため、荀彧も気兼ねなく華佗に昨日の件を話すことができた。
「……直接ご覧にならない限り、何も仰りようがないことを承知の上でお伺いします。陛下のご病状、 先生はどう思われますか」
施術終わりに、華佗が用意した茶で一服する。それが救護室における、荀彧の常。
本来ならば、他愛ない世間話をゆるりとして終わるところだが、今日に限ってはここからが本題だ。
紅く煮出した茶を優雅に飲む華佗を、荀彧は真剣な眼差しで見つめた。
「そうですねぇ……」
耳杯を卓に置くと、華佗はどこか遠くを見つめながら顎を撫でる。何度か首を傾げてから、ようやく口を開いた。
「お話の限り、お体の方は軽い夏負けとしか。何かしら、医官が見落としている点はあるやもしれませんけど」
「はい……そう、ですよね」
名医と持て囃されど、眼前にいない患者を口伝えの症状だけで診ろというのは無理な話である。
やはり、直接診察してもらうための手筈を整えなくては――そう荀彧が考え始めた矢先、華佗は言葉を続けた。
「ただし。不審な箇所が何ひとつなかろうと、不調を訴える人というのは実際にいます。その場合、たいてい問題は体にないのですよね」
「それは……」
「……最近、街で診た患者の話をしましょうか」
前置きをしてから、華佗はゆっくりと話し始めた。
「ここのところ食欲がない、体が重く感じる、吐き気もある……そう言って駆け込んできた若い女性がいましてね。聞けば、街東の鍛冶屋の男と近頃夫婦になったというので、彼女はてっきり悪阻かと思ったようなんです。しかしどうにも、私はしっくり来ませんでな。それから幾日か診察を重ねると、不思議なことが起きました」
「と、おっしゃいますと」
「急に、やたら元気な姿で診察に来ました。もう大丈夫だ、お世話になりましたと、それはもう溌溂として。ところがです。それから二日もしないうちに、また彼女は調子が悪いとやってきた。調べたところ、やはり明確な妊娠の兆候は見られない。それからしばらくは、良くもならなければ悪くもならない……これは何か違うと思いまして、もっと突っ込んで話を聞いてみたのですよ。そうしましたら彼女、堰を切ったように喋り出して……」
「はい」
「なんと彼女、夫の父君に苛められていたんですと。夫は母を早くに亡くし、父が唯一肉親とのこと。でもその義父、実は私が過去に診た患者でしてな……既に手遅れなほど手足を悪くしていて、しかも職人気質にありがちといいますか、偏屈なんですよ。私も結局、一度診たきりで追い返されましたし」
「あ、もしやその方……私も存じ上げております。東の外れの鍛冶屋、ですよね?」
荀彧の脳裏に、当該の人物の顔が思い浮かんだ。許昌の街並みの東端に一軒ある鍛冶屋、その主人。
あれは徐州遠征の少し前であったか。一度だけ、歩兵隊の剣を工面してもらえぬかと訪ったことがある。
しかし無愛想で会話のやり取りがしづらく、しかも仕事が遅かったため、軍備の依頼はその一度きりとなってしまったのだ。
その後は病のために隠居し、息子に代替わりしたとは万屋伝に聞いた覚えがある。
「その通りです」
華佗は首肯すると、更に話を進めた。
「それで、身の回りの世話はすべて嫁である彼女がしているのですが、やり方が気に入らないとどやされ、料理の味には必ずケチをつけられ、日々その繰り返しとのこと。しかも、頼みの夫は父の愚痴を一切聞く耳を持たない。おまけに彼女の実家は夫の鍛冶仕事の益を頼りにしているらしく、出戻ることもできない……そこまで吐き出したら、もうわんわん泣いて、半ば暴れながら夫や義父への恨み、苛立ちをありったけ叫び出して。貞淑そのものな見た目からは想像もつかない、別人のようでしたね」
「別人の、よう……」
その表現が、荀彧の心に引っかかりを覚えさせる。
思わず知らず、ある箇所を見てしまう。
「……ちょっと失礼」
視線の先に気づいた華佗は、荀彧の左手を取って袖を捲り上げた。視診するなり、卓の引き出しから包帯を取り出す。
「困りますよ。怪我をしているなら、正直に申し上げてくださらないと」
「あ……申し訳、ありません」
華佗の素早い手つきによって、たちまち包帯の下に隠されていく痣。それは否が応にも、昨日の帝を思い起こさせた。
そう、あれはまるで、別人。
彼の人自身も、意識が途切れていたと話している。
あの瞬間だけは、帝であって、帝ではなかった。
「心を、病まれている……そういう、ことでしょうか」
特筆すべき異常はないのに、体調は思わしくない。そして、我を失うほどに惑乱する。
華佗が語った鍛冶屋の妻――内心に大きな鬱屈を抱える患者――の話は、荀彧の腑に落ちた。
「噂に聞く限り、今の天子様は道理に明るいそうですからな」
「はい……ご聡明でいらっしゃいます」
荀彧は小さく頷いた。伏した目が憂いに翳るのを見た華佗は、溜め息をつく。
「聡いことが、必ずしも良い方向に働くとも限らない……人の難しさですねぇ。賢くあればあるほど、見なくてよいもの、聞かなくてよいものに触れる機会は圧倒的に多くなりますから」
「……はい」
華佗の語る真理は、帝が直面している現状そのものを表しているといってよかった。
愚かな方がよいとは露ほども思わない。しかし、彼の人にあとわずか、鷹揚な心があれば。どれほど息苦しくなかったであろう。
英明であるが故に、己が帝としての在り方や曹操の影響、力関係を痛感しては、苛立ちと虚しさを覚え。頭では冷静に理を解しながらも、心ではままならぬ自身の立場と周囲とに、やり場のない思いを膨れ上がらせてしまう。
そうした精神的なせめぎ合いを自らいなしつつ、臣下と渡り合うような老獪さを、二十にも満たぬ若さに求めるのは酷だ。
「立場が立場ですしなぁ……しかもお若い。悩み苦しみも、凡百の者には計り知れないものがありましょう」
頂の孤独で震える若人の苦しみを思いやりつつ、華佗は突如として不遜な笑顔を荀彧に向けた。
「まあ少しでも腹立つことがあれば、曹操殿に直接ぶちまけるのが一番の薬……のような気がしますが?」
「っ、華佗先生」
一瞬にして青ざめた荀彧は、周囲を見渡して気配を探った。
いくら今ここに他の患者がいないといえど、救護室の周囲に誰かがいたらと思うと気が気ではない。
「これは失礼、貴方に言っても困らせるだけですな。したらば、私が次の診察で曹操殿に」
「ですから」
「冗談ですよ」
喉の奥をくつくつと響かせつつ、華佗は嗤った。
「あの、もしも陛下を説得できましたなら……どうか禁中までお越しいただけませんか?」
「貴方様の望みとあらば……ですが、無位無官の下郎が帝の御許に参じるなど、医官どもが気狂いを起こしやしませんか」
荀彧の要請に対し、首を縦に振り切る直前で華佗は問い返した。己が存在が宮中の医官にどう受け止められているかは把握しているらしい。
「それについては、私が断固として応じますのでご心配には及びません。それに……」
懸念をきっぱりとした口調で制し、その上で荀彧はもう一言添えた。
「陛下も、華佗先生にはぜひ一度お会いしたいと仰っていました」
「ほほ。それはそれは、もったいない……」
さすがの華佗も目を丸くする。そしてどことなく感慨深げに頷きながら、顎髭を撫でた。
「では先生。その時は何卒、よろしくお願いいたします」
「私なんぞ出る幕なく収束するのが一番ではありますが……荀彧殿のお頼み、しかと承りましたよ」
「はい……ありがとうございます」
安堵の表情を浮かべると、荀彧は恭しく拱手をした。
「ところで。午後はまた、政務……ですかな?」
退出の支度を始めた荀彧に、華佗はややしかめっ面になりながら尋ねた。
「はい。この後は宮中にて陛下への講義が控えておりますゆえ……それが、いかがしましたか?」
「あの……できれば、午後も休まれた方がよろしいかと。講義など他の文官に任せておけばよいのでは?」
「っ」
荀彧の目が一瞬だけ見開く。しかしすぐに首を振って笑顔を見せた。
「……お気遣い、心より感謝いたします。ですが、講義中に不測の事態が起きないとは限りませんので。では……」
「背負い過ぎではありませんかね……」
救護室を去っていく背を見送りながら、華佗は深い深い溜め息をついた。
凛と背筋を伸ばし歩くその様は、まさしく令君と謳われるに相応しい。しかし今日に限っては、どこか重い印象が拭えないまま終わった。
あれほど揉み解したにも関わらず、肩の凝り固まりを完全には除いてやれず。白磁の如くな肌も、むしろ今日は白過ぎて健やかには見えなかった。
何より、あの左手首の大痣。かなり新しく、しかも本人が思うよりも相当の深手だ。骨ごと砕く勢いで握り込まれたとしか思えない。
あんな怪我を負いながら秘匿しようとしていたこと。そして、患者の話を沈痛な面持ちで聞いていたこと。そこから導き出されるのは――――
『陛下は、しばらく胸を押さえてお苦しみでしたが、急に…………それが止まって。すぐに意識も取り戻されまして……』
彼の詳細な説明の途中で、たった一瞬、言葉に詰まった箇所。それが、華佗の推測をより明瞭にしてしまう。
我を失った人とは、時として信じられないほどの迫力を伴うものだ。そういう患者とは何度も対峙してきたし、危ない目にも遭った。
帝がまこと、心の病であるならば。病によってもたらされた煽りを直接喰らうことになるのは、傍らの者たちだ。
(……荀彧殿も大概、難儀なお立場にいらっしゃる)
乱心の果てに重大な失態へと発展したら、次第によっては帝の威徳にも関わってこよう。その危惧がある故の、黙秘だろうか。
臣下としてのその忠節は涙を禁じ得ぬ。されど、火の粉を降りかかるままにしておく姿は医師として見過ごせぬ。
「さて、と……」
華佗は救護室の奥へと引っ込み、棚を開けた。ずらりと並んだ籠から、鎮静作用のある生薬を片っ端から引き出していく。
(いつでも参内できるようにしておかなくては)
「あっ、これは幸い。まだ明るいですね」
司空府執務室から出た満寵は、嬉しそうに声を上げた。午後の軍議がかなり長引いた割にまだ陽は落ちていない。
満寵の背後に続いてきた郭嘉も、欄干向こうの天藍を眺め、微笑みを浮かべる。
「うん、夏らしくてよい色の空だ……疲労した心に染み入るよ」
「あははあ、これならひとまずは松明なしで帰宅できそうだ。こいつは僥倖!」
「……そうですね」
感傷も何もない賈詡の言い分に生返事しつつ、最後に荀攸が執務室の扉を閉め、鍵をかける。
本日の務めを終えたことを示す金属音が、薄暮の廊下に響いた。
「では、後ほど」
「はーい、了解です」
「今夜はよろしく、荀攸殿」
「はい」
外へと繋がる廊下の突き当たりで、四人は短く挨拶をして解散した。本日の任はこれにて終了だが、夜はまだ長い。
軍議の場にてこれと結論が出なかった案件については、たいてい誰かの別宅に上がり込んで夜通し語り合うのが常となっている。
そして今宵、別宅を提供するのは荀攸の番だった。
(さて……)
退去する道すがら、荀攸は眉を顰めつつ真剣に考える。今夜のお題目、下邳遠征に向けての準備――ではなく、酒と肴について。
無論のこと主たる目的は軍議の続きであり、自身の意見を纏め上げておくのは当然。しかし別宅の主には、そこに「もてなし」を考える役目が加わる。
なにぶん美酒には目がない郭嘉に、ひたすらに量を呑み下す満寵、そして絶対に限界を悟らせず嗜む賈詡という、揃いも揃って曲者の組み合わせ。そして荀攸自身も、己が酒好きの部類という自覚がある。
この四人が集って夜を明かす以上、相応の用意は毎回必要だった。適度な酒とそれに見合う肴は、頭と舌を滑らかにしてくれる格好の材料でもある。
直近では、賈詡の別宅が論議の場となった。あの時用意されたのは、巷では物珍しい葡萄酒。郭嘉がたいへん気に入っていたのが思い出された。
さすがにあれほどの珍品は用意できないが、それならせめて肴にはこだわるべきか。確か、一昨日の狩りで使用人が仕留めてきた鹿肉が――――
「……え」
その姿は突如として、荀攸の視界に入り込んだ。
既に司空府の殿を背にし、南宮の前殿を横に見ながら門をくぐろうかというところである。前殿の階に、彼の人がいる。
(何故、ここに)
いくらまだ薄明るいとはいえ、さすがに日没が近い時刻。これより喫緊の集議があるとも知らされていない。
何より、董承や侍中の誰か、供回りの気配が見当たらない。御身ただひとりで、何故ここまで。
「…………」
浮かない顔になっていくのが自分でもわかる。されど、その場を素通りするという道を荀攸は選び取れなかった。
「畏れながら陛下、荀公達が進言いたします」
前殿の階まで近づくと、荀攸は跪いて拱手した。常日頃抑揚がないと評されがちな声で、しかしはっきりと問いかける。
「おひとりで、何故こちらにいらっしゃいますか」
付き合いの長い郭嘉や満寵、あるいは荀彧がこの場にいたら。その声に、微かな怒気が混じっていると気づいたかもしれない。
荀攸としては律しているつもりだが、奥底の澱んだ感情を完全にかき消すことは至難の業だった。まして、その感情を抱かせた張本人を目の前にしては。
「そろそろ陽が落ちる頃です。足許がまだ確かなうちに、速やかに禁中にお戻りになられるべきかと存じます」
荀攸は階の上を見上げた。
黒い天子の衣に、真紅の帯。黄金の冠から垂れ下がる旒の下の顔は、明後日を向いたままで表情は伺えない。
そして、今以て微動だにしない。こちらに気づいていないか、はたまた声も聞こえていないか。毛ほども相手にされていないような空気感がまた、荀攸の心を波立たせる。
「陛下、畏れながら。尊き御身なればこそ、軽はずみな行動はいかがなものかと――」
ついに荀攸の言葉に小さな棘が生えた、その時だった。
「そなたも人が悪いな、荀攸」
「――――――――――」
自分宛てに放たれた言葉に、息が詰まった。唖然とした。耳を疑った。
今のは確かに、公の場において耳にしている帝の声。なのに、何故だ。この背筋に走った違和感は。
「まったく、想像もつかなんだ。せめて教えてくれればよいものを……くくっ」
「……!?」
違う。帝の声ではあるが、言い回しが明らかに普段とは異質だ。
内実はどうあれ、日頃は碌な自己主張もできぬ柔弱な青年。これほどまでに人を堂々と嘲笑する肝は持ち合わせていない筈。そして。
この明確な嘲りの色を、荀攸は知っていた。来る日も来る日も鬱屈と諦観に塗れた、若く苦い記憶の数々。その中に埋もれていた、この声は。
「陛、下…………うわっ!?」
前触れなき激しい突風が吹き荒れた。砂煙が濛々と巻き起こり、荀攸に襲いかかる。
咄嗟に荀攸は腕で顔を庇い、身を屈めた。幸いすぐに風の音は止んだが、薄目を開ければまだ砂埃が入り込もうとしてくる。
「っぐ……」
舞い散った砂が落ち着く頃まで、ひとまずはと待ち続けた。
ようやく、辺りがまたしんと静まり返る。さすがに頃合いだろう。
「陛下、大丈夫で――――」
瞼を開けて最初に目にした光景に、荀攸は絶句した。
誰もいなかった。
ただ、影を一段と濃くした前殿の階と、夏とは思えぬ冷えた静寂があった。
「な…………」
動揺を抑え切れぬまま、荀攸はふらふらとした足取りで階を登った。
最上段を踏み締め、辺りを見回す。巻き上げられた砂の汚れしか目に入らない。人の足跡など、ひとつとしてない。
「……馬鹿、な」
顔から血の気が引いていくのがわかる。まだ頭の中で整理がつかない。果たして自分は今まで誰を見て、誰と話をしていたというのか。
しかし何故か一方で、確信していたことはあった。少なくともあの姿は、今まさに王朝を背負いし若き帝、ではなく――――
「ああいたいた、荀攸殿!」
急いた足音を伴う聞き覚えある声が、荀攸を現実へと引き戻す。
「っ、はい!」
慌てて荀攸は踵を返し、素早く階を駆け降りた。そこに、軽く息を切らしながら満寵が駆けつける。
「今日の軍議で小刀を借りたままでした。後でお邪魔する時にお持ちしてもよかったのですが、今追いかければ間に合うかと思って……」
「あ、ああ……わざわざすみません。俺こそ貸したことを忘れていました」
「いやあ本当に今日は助かり……って、どうしたんです!?」
満寵は荀攸をきちんと見るなり、目を丸くした。思わず手を伸ばして荀攸の肩を払うや、赤茶の砂がぶわりと舞い散る。
「っ、あ、申し訳ありません……」
荀攸もそこでようやく、自分の身体が砂塵に塗れていることに気づいた。
「砂地でも抜けてきたみたいに汚れていますが……何か作業でも?」
「い、いえ。たった今、突風に巻かれまして」
「えっ、今?今日は朝から風なんて全然なかったのに……自然の為すことだけはわからないものです」
首を傾げつつ、ひとまず災難でしたねと満寵は気遣った。
「…………」
黙って頷いてみせるも、満寵の言葉はあまり荀攸の耳には届いていなかった。
代わりに頭の奥で木霊するは、かつて 仰ぎ見ていた天子の諡。
(孝霊、皇帝)
何故。何故に、今。
何を以て、貴方様は俺の前に現れたのだ。
「いや、今日はまこと充実した講義になりましたな!陛下も目を輝かせていらっしゃって」
「あ……はい」
足取り軽く上機嫌な孔融とは対照的に、荀彧は曖昧な笑みを浮かべた。
目聡く白黒決めつけたがる日頃の孔融であれば、そうした微妙な態度をすぐ見咎め、一言突っかかってきてもおかしくはないところ。
しかし自作の詩に帝直々の誉を受けた上、満足に論を展開できたという高揚感は、彼の敏に過ぎる神経を鈍らせていた。
「さすが、今世の陛下は英明であらせられます。陛下の尊き仁徳ある限り、曹操殿に余計な真似など……」
「…………」
興奮冷めやらぬままに語る孔融から一歩引きつつ、荀彧は黙して俯いた。
頭の内に浮かぶは、彼の人の笑顔――の、奇妙なまでの清々しさ。
『そういえば荀彧。近頃は肉刑の復活をいかがせん、との論が盛んらしいな』
『は、はい。さようですが……』
思ってもみなかった事柄を問われて、さすがの荀彧も戸惑いを隠せなかった。
帝の言う通り、刑の見直しは昨今取り沙汰されている題目である。死刑とその他の刑との差が過ぎる現状を憂いた曹操が、肉刑を復活させてはどうかと提案したのが発端だ。
荀彧は曹操の求めで、武官文官問わず意見を募り纏める役目を担っている。しかし論を上奏するには未だ混沌とした段階であり、なればこそ帝の口から先んじて訊ねられたことは予想外だった。
嘉徳殿に集った文官一同も同様の思いでざわつく中、ただ一人、目を爛々とさせて帝の御前に進み出る者がいた。孔融だ。
『おおっ、陛下のお耳にも既に届いていらっしゃったとは』
『よい機会である。ぜひ意見を聞いてみたいのだが。孔融、そなたはどう思うのだ』
『それでは僭越ながら、この孔文挙が……私は、肉刑には断固として反対でございます。人の身は、親から与えられた無二のもの……削がれた鼻や耳、足は二度と元に戻りません。変わり果て、ままならぬ己が体と向き合わざるを得なくなった罪人は、果たしてそれで罪を省み、心を入れ替えると思えましょうか。私は否、と断じます』
『なるほどな。罪を贖わせることが肝要なのに、刑で何もかも打ちのめしてしまう、ということか』
『その通りにございます、陛下。肉刑に処された者は、その後の生き様や行く末を思い描けず、絶望を深めるのみ。罪人を更生させられず、むしろ新たな悪に染めさせてしまうようなことあれば、何のために刑があるといえましょう』
『うん、確かに……理がある。先ほどの詩といい、そなたの言い回しは明瞭だな』
『陛下……!なんと身に余るお言葉にございましょうか。孔文挙、心より御礼申し上げます』
『…………』
澱みなき孔融の自論に、力強く頷く帝。朝に間近で見た、いつになく血色の良い顔がそこにある。
本来であれば、ごく健全であり歓迎すべき姿だ。臣の言を求め、耳を傾け、即座に解する。帝として堂々たる、理想的な姿といってもよい。されど。
(陛下は決して、あのような……)
荀彧が相対してきた彼の人は、饒舌ではない。丁々発止と臣下と語り合うような雄弁さを持ち合わせていない。
生真面目に思考を潜らせ、しかしそのために深く悩み傷つき、苦しむ。英邁ではあれどまだ若く、たどたどしく、繊細な性格だ。
歳月によって人品が練られ成熟したのであればまだしも、ただの数日であれほどの変身を遂げることなど、あろうか。
第一、昨晩はあれほど発作に苛まれていた身なのに――――
「っあ!」
左手首に鋭い痛みが走る。その瞬間、荀彧は手にしていた書の山をすべて放り出す格好となった。
ガラガラっ、と竹簡が跳ねるけたたましい音が、嘉徳殿の回廊中に響き渡る。
「ああっ!何をなさっておいでですか!?」
孔融が何事かと振り返るや、悲鳴に近い声を上げた。慌てて、方々に散らばった書や竹簡を拾い上げていく。
「なんと情けないことをしてくれますやら!ただでさえ貴重な書の数々を……」
「も、申し訳ありません……っ、あ……」
荀彧も平身低頭しながら拾おうとして、しかし動きを止めた。つい、左手首を握り込む。
「……怪我でもされているのですか?」
微かに震える荀彧の肩と、眉を寄せる表情から、孔融はそれを察した。しかしかえって渋面を呈す。
儒教の経典を粗末に扱われた憤激は、眼前で蹲る者への慈悲を軽く凌駕した。
「だったら、申し出てくださいませ!そんな覚束ない手で今に伝わる貴重な文書を扱うなど、危なっかしいではありませんか」
「は、はい。まこと、不注意でした……面目次第もございません」
「もうよろしい、こちらの書は私がすべて書庫まで運びます。貴方はさっさと、華佗老師の所にでもお行きなさい」
「あっ、孔融殿」
「では私はこれにて、失礼します。まったくもう最近の若人は……」
すべての書を拾い上げた孔融は、がっちりと抱え込むや大股で歩き去っていってしまった。
「……っ、う」
取り残された荀彧は、ひとまず立ち上がろうとした。刹那、くらりと頭が揺れる。
咄嗟に近くの回廊の柱へと身を委ねた。日中気を張ってはいたが、やはりどうにも体が重い。
恥ずかしくも、昨夜は帝の傍らで寝入ってしまったというのに。華佗の施術も受けたというのに、どうして疲れが抜け落ちないのか。
「荀彧様ーっ!!」
「っ……」
突然、背後から名を呼ばれた。振り返れば、誰かが息を切らしてこちらに走ってくる。
まだ寸でのところで残る空の青色が、その人の輪郭を露にした。昨夜、禁中の寝所前に控えていた宦官だ。
「よ、よかった。まだ嘉徳殿におられ、て……っ。あ、あのっ……!」
肉体労働を担わぬ者が走り込んだ時特有の、ぜいぜいとした息。一目で悟った。
「…………陛下!?」
これは、火急の案件だ。
「荀文若、ただいま罷り越しました!」
駆けつけた寝所前では、昨日と同じく种輯と侍医が立ち竦んでいる。表情はかなり疲弊していた。
「あの、陛下は……っ!」
「先ほどまで……たいそう発作に苦しまれておりました」
「……お願い、いたします」
昨夜のいざこざがあっただけに、二人の視線には不満が燻っている。それでもどこか観念したように頭を下げてきた。
「……はい」
荀彧も一瞬気まずさに視線を落としたが、拱手して寝所へ足を踏み入れた。
今は帝の容態を確かめ、明らかにすることこそ肝要。
「陛下、失礼いたします」
「…………荀、彧」
今日は返事があった。酷く弱々しい声だった。
陽が落ちた寝所には、燭台の灯りが薄ぼんやりと広がっている。力なく横たわる帝の、心細げな瞳が見えた。
「陛下……!」
寝台の側まで寄ってますます、荀彧の胸は締めつけられた。
なんという落差か。朝の集儀にも午後の講義にも、あれほど溌溂として臨んでいたというのに。凛々しく爽やかな青年帝の面影が、完全に失せている。
「すまぬ……朝も昼も、あんなに元気だった、のに……戻った途端、目眩がして……息が、詰まりそうで……っ」
「陛下、お気を確かに!本日の講義はいささか長くなりましたし、きっとお疲れが出たのでしょう」
荀彧は震える帝の手を取り、必死の思いで撫でさすった。
手首の脈も取ってみたが、今日も過不足なく刻まれている。眼前で衰弱している姿とまるで釣り合わない、健康的な脈だ。
(やはり、これは)
午前に聞いた、華佗の患者の話が脳裏を駆け巡る。
体に明確な不調なく、一時落ち着けば元気を取り戻し。されど再び不調に苛まれ、別人のように惑乱し。
心を病んだ者が悩まされるという症状。そのすべてが、現状の帝に当てはまる。
(このままでは、陛下は……っ)
荀彧の左手首がしくしくと痛み出した。
容態がこれ以上悪化してしまえば、帝は苦痛に身悶えるだけでなく、制御できない危険な行動を取るやもしれない。
この非常事態を荒立てずに収めるには、今度こそ華佗の存在が必須だ。
「陛下、どうか華佗老師を……!無官の者を、この禁中に参内させることをお許しください!」
荀彧が申し出ると、帝は思い出したように目を瞬かせた。
「あ、ああ……それ、なら……今から、朕が……」
「いけません、ご安静に!」
無理矢理起き上がろうとした帝を、荀彧は血相を変えて寝台へと押し戻した。
「大丈夫です。陛下さえ是と仰ってくだされば、私がここまでお連れいたします」
「…………わか、った。頼む、頼んだ、ぞ」
さすがの帝も、己が変調への危機感を募らせていた。荀彧の手を握り締め、何度も頷く。
ようやく言質を得られた安心感に、荀彧も大きく息を吐いた。
「っ、ありがとうございます……!華佗先生でしたらきっと陛下の辛苦を取り除いてくれましょう。では、私は……」
「行くな」
「痛っ!?」
寝台から離れようとした瞬間、左手首を思い切り掴まれる。
負傷した箇所の上からいきなり無遠慮に握り込まれてしまい、荀彧も悲鳴を上げざるを得なかった。
「せっかく朕の許まで侍りに来てくれたというのに、顔を見ただけで今すぐ出ていく奴があるか?つれないなそなた」
「っ……!?」
一瞬にして、荀彧を覚えのある悪寒が支配する。
この声は。聴き慣れている筈なのに、まるで得体の知れぬこの声は。
「っ……あ……うぁ…………!?」
ふいに帝が苦しみ出した。途端、帝から漂う違和感も掻き消える。
「っ、陛下!?陛下っ、お気を確かに!」
発作のために、我を失いかけているのだ。それに思い至った荀彧は、必死で呼びかけた。
「だ、めだ……じゅん、いくっ……朕から、はなれ、て…………っ!」
帝は己が左手で額を押さえた。がくがくと痙攣しながら、何度も頭を振る。
しかし口では離れよと懸命に訴えながら、右手は荀彧の左手首を掴んだままだ。既に自らの意志で動かせていないらしい。
「陛下、どうか落ち着……っ!?」
また、背筋に怖気が走る。刹那、帝の震えがぴたりと止んだ。
「何を父に遠慮するのだ、協よ。そなたが愛してやまぬというこの者を、そなたのために上手く躾けてやろうというのに」
「え……っ、ああっ!?」
恐ろしいほどの勢いで、荀彧は寝台へと引き倒された。抗う隙もなかった。
「っ、あ……っ!」
左手首に科せられた痛みに気を取られている間に、体を反転させられ。見上げたそこで、圧し掛かってきた存在と視線が合った。
「あ……陛、下…………っ」
喉すら凍りつくほどの恐怖が、清爽たる令君の声を情けなく掠れたものにしてしまう。
目の前に坐すのは、今この身を組み敷いているのは。確かに仰ぎ見ている天子の輪郭の筈なのに。
灯りに色濃く陰影を彩られた玉貌は、覚えのない不気味な気配を剥き出しにしていた。
「ふふふ……本当にあ奴は人が悪い。これほどに見目麗しき縁の者がいると、何故教えてくれなんだか」
ねっとりとした声で呟くや、眼前の『帝』は荀彧の胸元に手をかけた。
「お、およしくださっ……やめ、て……や、――――――――っ!」
拒否の声は、絹を裂く音にすべてかき消される。
露わとなった荀彧の白い肌に、『帝』は値踏みするような厭らしい眼差しを注いだ。
「ふむ。王栄に比べれば所詮は男の体か。だが……」
「っあ……!」
覆い被さってきた『帝』が、荀彧の首筋へと顔を埋めてきた。
生温い感触が、皮膚の薄い個所を蹂躙していく。それは何度も身に受けてきた行為なのに、これほど悍ましさを感じたことはなかった。
どうにか逃れようと身を捩るが、意志を持った舌は容赦なく荀彧を追い詰めてくる。
「なるほど、香の匂いは上々……味わい深そうだ」
「ひ、あっ……!」
耳朶を嬲るのは、いつも耳にしている筈の、しかし聞き覚えのない底意地悪い声。
「しかし、協は優しい……いや、甘いのだな。本当にすべて手に入れたければ、徹底的に己を刻みつけて、我が物にせねば。そのやり方を、この父が直々に教えてやろうぞ」
「っ……!?」
恐怖に侵食されていく中で、辛うじて荀彧の理性が『帝』の言葉にあった違和を捉える。
口にすること憚られる尊き諱を事もなげに言い放ち、そして自身を『父』と称す。そのことが示す、意味とは。
最早、自分が知る帝は我を失っている。では、この『帝』は――――
「貴方様は、まさ、か……孝、れっ、ぁあっ!」
辿り着いた推論を言いかけたところで、荀彧の口から発せられたのは金切り声だった。『帝』の指先が、前触れなく荀彧の胸の蕾を潰しにかかったのだ。
いきなり与えられた痛み、そして敏感であるがために生じる仄かな感覚に、否応なく体が跳ねてしまう。
「やめっ……やめて、くださ……はな、して……っ、あっ」
正気の帝に抱かれるのとは意味合いがまるで違う。このまま雪崩れ込まれたら、いったい何をされるかわからない。
しかし必死で抗おうとするも、それを為すには今日の荀彧はあまりにも分が悪かった。
痛む左手首は押さえ込まれて使い物にならず、かといって右腕も満足に力を込められない。体に纏わりつく疲労に、意思を阻まれてしまう。
「い、や……いや、です……っ……」
「ふっ……協もなかなかの趣味ではないか。その表情、たまらぬ」
迫る絶望の中でもがく荀彧を前に、獲物を捕らえた『帝』は喜色満面だ。口の端を歪ませ、容赦なく冷ややかな嘲りを浴びせる。
「さあ、荀彧とやら。朕が存分にかわいがってやろう」
欲に満ちた双眸が、揺らめいた。
2020/11/09