隷属の華【一】
何かが軋む音が聞こえて、荀彧は目が覚めた。ゆっくりと起き上がってみたが、自宅の寝台の感覚ではない。長椅子に寝かしつけられていることを把握した瞬間、先刻までの記憶が戻ってくる。
今夜は、ささやかな祝いの席だった。推挙され、明日から洛陽へと旅立つ人のための。
暗闇の中で目を凝らして見渡すが、広間では既に、全員が送り酒に酔って寝静まっている。肝心の人の姿は見つけられなかった。
ひとまず長椅子から降りて、周囲の大人を起こさないように歩いてみる。
「……あ」
玄関から風が吹いてきたことを感じた。きっちりと閉められていないらしい。
荀彧は、玄関扉をゆっくりと開いた。
「攸兄様……」
探していた彼は、やはり外にいた。南中に輝く白銀の月を、静かに見上げるその人。
名前を呼ばれたことに気づいた荀攸は、驚いて振り返った。
「彧殿……どうされたのですか、こんな夜更けに」
「攸兄様こそ……明日はお早いご出立なのに、お休みにならなくて大丈夫なのですか？」
荀彧は駆け寄って、荀攸の顔を覗き込んだ。
「俺はただ、酔いを醒ましていただけです。流石に飲み過ぎました」
「そう、ですか……？」
苦笑いする荀攸の顔は、荀彧の目から見てさして酔いが回っているようには見えない。
ただ、成人したばかりとは思えぬ量の酒を勧められていたのは、なんとなく思い出せる。どうやら、彼は酒に強い体質のようだ。
「……いよいよなのですね」
「ええ」
荀攸が官吏となることが決定したのは、半月ほど前のことである。
以前より潁川太守の陰修から才を高く評価されており、成人を待って推挙される手筈になっていた。
成人の儀を終えた荀攸は、当初の予定通り、陰修によって孝廉に推挙された。そして明朝、ついに洛陽へ出立する。
「俺にどれだけのことができるかはわかりませんが、やれるだけのことはやろうと思います」
「攸兄様でしたら、必ずこの国のためのお働きができましょう」
まっすぐな視線を向ける荀彧に、荀攸はどこか冷めた笑いを返した。
「俺を買い被り過ぎですよ。それに、たとえ優秀であっても思うようにいかぬ世の中です。慈明殿がそうであったように」
「っ……」
失意の中にいるであろう叔父の名を出され、荀彧は俯いた。
荀彧の父の弟である荀爽は、一族きっての清流派である。故に宦官に疎まれて、禁錮に処されていた。
寸でのところで海上へと逃げ出し、今は南に伏しているとは聞き及んでいる。
「それに俺は、政よりも有事の際に何をすべきか、策を練る方が好きなものですから……」
元より荀攸は書物を読むこと、学問を修めることは嫌いではない。しかし最近、五経以上に六韜三略、兵法書の方が覚えのよい自分にも気づいていた。
どちらかといえば、戦乱への備えに対して考えを巡らせる方が、性に合っているのかもしれない。
故に、近頃は更なる速度で尚書や春秋左氏伝を熟読していく荀彧を、荀攸は末恐ろしくも頼もしくも感じていた。間違いなく、同じ時期の自分にはできない芸当をしている。
「彧殿の方が、政には向いていると思うのです。貴方もいずれは、宮中に入るべき方だ」
「攸兄さま…………はい！」
荀攸の言葉を嬉しく思い、荀彧は大きく頷いてみせた。
「私も早く攸兄様と共に、この国のため、天子様のため……そして、民のために尽くしたいです」
「お待ちしております」
「はい、攸兄さ……あっ」
突然、目を見開いて荀彧は口許を押さえた。
「どうなさいましたか？」
「いえ、その……字を持たれた方に、いつまでも軽々しい口を利いてしまい、申し訳ありません」
首を傾げた荀攸に対し、荀彧は少しはにかんだ顔で答える。
少し間を置いてから、静かに拱手しつつ微笑んで一礼をした。
「公達殿の、ご健勝とご活躍をお祈り申し上げます」
「っ……！」
刹那、荀攸の喉の奥がひゅっと鳴った。
昔から天性の賢さと思慮分別があり、大人びてはいた。とはいえあくまで年下だと、今の今まで子どもだと思っていた、その表情は。
「……？あの、変、でしたでしょうか？」
「いえ……違うのです。ご立派になられたな、と」
「それは、公達殿の方でしょう？」
「…………」
荀攸は黙って、荀彧の前に歩を進める。より至近距離で見つめ合う格好となった。
「公達殿……？」
月光に照らされた荀彧の顔は、大人のそれとほとんど遜色ないところまで整っている。
ずっと見下ろしていた視線も、気づかぬうちに同じ高さになっていた。
「随分と、背が大きくなられましたな」
「ええ。近頃、寝ているときに痛みを感じることが多くて」
困ったように笑う顔に、あどけない少年の輪郭も残しつつ。しかし確実に、彼は大人へと近づいている。
「そうですか……楽しみです」
いつか、自分など及ぶべくもない人となるだろう。遠くない先で、必ずや国を支える人になるだろう。
そう確信できた荀攸は、改めて告げた。
「彧殿。洛陽にてお会いできる日を、楽しみにしております」
「はい。公達殿」
屈託のない荀彧の笑みが、月明かりに輝いた。
洛陽へと赴く荀攸を見送ってから、数年が過ぎた。
少年だった荀彧も無事に成人し、主簿として潁川太守の陰修につき従う日々を過ごしている。
「陰修様。こちら、潁陽より新しく届け出があったものですが……目を通していただけましたでしょうか？」
「ああ、それはもう確認済みだ。しまっておいてくれるか」
「はい。かしこまりました」
机から積み上がった竹簡を回収し、窓際の棚に収める。きっちりとその作業をしていく荀彧の背に向かい、陰修は思い出したように声をかけた。
「あ、そういえば……荀彧。おぬしの字のことは、荀攸には伝えたのか？」
「あっ……いえ、まだでして」
「なんだ、それならちょうどいい。文を書いたらどうだ。これから洛陽の知り合いに送るものがあるから、共に届けてもらおう」
陰修は真っ新な紙を一枚、そして筆と硯を荀彧の文机の前に押し出した。
「あ、いえ、そんな……勤めの合間に私事の文を作成するなど」
「頭が固いなぁ、おぬしは……」
突然の差配に対して生真面目に戸惑う荀彧を見て、陰修は苦笑いを浮かべた。
「太守の私がいいと言っているんだぞ、ほら」
「あの、本当に……よろしい、のですか」
半ば強引に押しつけられて荀彧は途方に暮れたが、こうなった以上は厚意に与る他なく、筆を執る。
成人の儀を無事に終えたこと。
字を『文若』としたこと。
潁川太守の主簿として、故郷のため力を尽くしていること。
いずれは洛陽にて、公達殿と共に、国のため働きたいと願っていること。
「公達殿……」
出立していく時の彼の背中を想いながら、自分の近況と決意を静かに綴っていく。
あれから、荀攸には一度も会っていなかった。寂しくはあったが、潁川に帰郷する暇もないほど忙しいに違いない。
何しろ荀攸は今や、大将軍の何進に召集されて黄門侍郎職となっているのだ。帝の言を直接伺う立場となった彼を、荀彧は同族として誇りに思っていた。
（いつか、私も……）
そう遠くないうちに、自分も都へ。いつか、彼と肩を並べて国に仕える日を、夢見て。
「では陰修様、こちらを……」
書き上げた書簡を陰修に渡そうとした、その時。ふと、背後の窓の外へと荀彧の視線が向いた。
そこにはいつも見慣れた景色がある。その筈だった。
「え……？」
目を疑った。錯覚ではないかと。
しかし何度瞬きをしても、それは変わらなかった。
「陰修、様……ご覧ください、空が……！」
震える声で、荀彧は陰修を呼んだ。只ならぬ気配に、陰修も窓枠へと駆け寄る。
「これは……なんということだ……っ！？」
二人が目にした東の空は、土埃のように黄色く染まっていた。日差しも、昼間だというのに頼りなく揺らめいて。
常に見上げていた、青々とした爽やかな大空が。今は完全に消え去っている。
「っ……」
薄気味の悪い黄天に、嫌な予感がした。
国土全体に大規模な不作が広がるのに、さして時間はかからなかった。
作物は育たず、田畑は痩せる。民草も飢え、一層の貧しさに窮するようになった。
寄る辺を失った民は宗教に救いを求め、膨れ上がり、やがては蜂起となる。太平道の張角を首魁とした乱は、瞬く間に全土を覆った。
事態を重く見た漢室の軍によって一度は鎮圧されるも、焼け石に水でしかなかった。その後の世相が、如実に語っている。
「また……乱の報告か。これで幾度目になる……」
竹簡を読み終えないうちに、陰修は頭を抱えて苦々しく言った。
日頃より備蓄や防備を徹底していた陰修や荀彧の働きも虚しく、潁川も方々から暗い話題が届けられる。
更には他の地方のきな臭い動き、洛陽での凄惨な噂は、嫌でも耳に入ってくる毎日だ。一向に収まる気配のない動乱を、荀彧も日々憂いていた。
「洛陽には叔父上や公達殿……他にも、陰修様がこれまでに推挙された方が数多いらっしゃいます。その方々のお力を以てしても」
「荀彧。汚泥の中に一筋清流が流れていても、その泥は清められるか？」
「陰修様……」
汚泥、といういつになくきつい言葉に、荀彧の胸が痛んだ。
太守が国に対して、そのような表現をせざるを得ないところまで事態は逼迫しているのか。
「この国は……そこまで……」
「それだけ爛れているということだ。宮中など、元より宦官共の巣窟だしな……おぬしの叔父殿も、随分前に被害に遭っているだろう」
「……はい」
荀彧は項垂れるしかなかった。
少年の頃より、薄々気づいてはいるのだ。自分が仕えるべき国の現状を。
荀爽のような名士が、政の場から排除されるのが常態化しているような国が、健全といえようか。
禁錮に処された者たちは、ようやく数年前から洛陽に戻れるようになっているが、それも皮肉なことに黄巾の乱が契機である。
「世の乱れは……治めることは叶わないのでしょうか」
「わからぬ。だがな、一度動き出したものは、行きつく所まで行かねば治まらぬ時がある。燻った火が、一山燃やし尽くすまで止まらぬようにな」
太守の眉間に、深い皺が寄った。
「あの、陰修様。どうか、私も洛陽へ」
「ならぬ！」
荀彧の切り出した言葉を、陰修は厳しい口調で制した。しかし荀彧も引かない。
「私も、とうに成人を越えました。もしも陰修様の目から見て、私が公達殿たちに見劣りするとのご判断でしたら、致し方ありません。己の未熟さを嘆きます……ですが……！」
潁川に留まり、故郷のため力を尽くすこと。それ自体を厭うているわけではない。
しかし、二十歳を過ぎても、陰修から推挙のすの字も出されぬことに、内心では焦っていた。
いつかの、白銀の月の下で交わした約束から。洛陽で待っている彼から、自分が遠のいているように思えたから。
いつまでも推挙されぬ自分に愛想を尽かしているのではないか。不安でたまらなかった。
共に、この国のため。民のために尽くすと、誓ったのに。
「それでも、私は……この国に己の才を捧げたいと思い、今まで、ずっと……」
声をひきつらせ、切々と思いを語る荀彧の肩に、陰修はそっと手を置いた。
「許せ。このような世でなければ、今すぐにでもおぬしを推挙していた。おぬしの才は必ずや国を佐けるに値する。だが……」
ここ数年、陰修はただの一度も、誰も推挙していない。
本来であれば、一定期間主簿を務め上げさせた後、自信を持って荀彧を推挙するつもりではいた。その矢先の、あの黄色く濁った空だった。
それは、陰修に悟らせるには十分だった。この国は、朽ちかけているということを。そのような場所に、何人もの才ある士を徒に送り込んでいたことを。
「今、おぬしを洛陽へやったとて……汚泥の中にその清らかな身を沈めさせるようなものだ。そう思って、ここに留めている……すまぬ」
「っ……こちらこそ、申し訳ありません！」
陰修の考えを初めて聞かされ、荀彧は咄嗟に頭を下げた。
太守にとっても非常に苦い選択であることを悟り、己が軽率さを恥じる。なんと不遜な発言をしたことだろう。
しかし陰修の思いを知ってなお、潁川に留まっているだけの我が身には歯痒さを覚えた。
その気持ちを悟ってか、陰修は必死な形相で言い聞かせる。
「無念はわかる。だが私はこれ以上、優れた者を……おぬしほどの逸材を、あたら疲弊させたくないのだ。わかってくれ。おぬしだけでも、この潁川の庇護に心血を注いではくれんか……！」
「陰修様……」
故郷を戦乱から守り通すことも、立派な務めだ。事実、荀彧は陰修の片腕として、十分過ぎるほどに責務を果たしている。
しかし今なお最前線で国のため身を削っているであろう人たちの姿を思うほど、荀彧の胸の奥は軋んだ。
帝の崩御と共に、世は更に混迷を極めていく。
大将軍の何進が宦官に誅殺されたという話が舞い込んできたのは、秋も半ばという頃だった。
「そん、な……！？」
荀攸から届いた書簡の内容に、血の気が引いた。
文章は至って静かに、冷徹に事実だけが記されている。だからこそ、恐ろしかった。
帝の外戚である大将軍すら、容易く弑されてしまう。それが今の洛陽であり、宮中の内部なのだ。
何進配下の名士たちが無事らしいことがせめてもの救いだが、当然荀彧の心は晴れない。むしろ、胸は騒ぐ一方だ。
それからひと月も経たぬ折に、ついに事態は起きた。
「おはようございま………っ、陰修様っ！？」
いつものように太守の執務室に入った荀彧が見たのは、頭を抱えて文机に突っ伏した陰修の姿だった。
「陰修様！どこかお加減でも！？」
狼狽える荀彧に対し、陰修は青白くなった顔を向けた。そして、力なく首を振る。
「荀彧、すまぬ……ついに、この時が来てしまった……」
その手には、一通の書簡が握られていた。
それをぐしゃりと握り潰しながら、陰修は血を吐くような重い声で伝える。
「おぬしを……孝廉に推挙せよ、との達しが届いた」
それは、待ち望んでいた言葉。
「孝……廉……」
なのに、何故だ。どうしてか、荀彧の腑に落ちてこない。何かが、胸の奥で引っかかりを持ってしまう。
しかし次に陰修が口にした言葉で、その正体はすぐに判別できた。
「よりによって、おぬしを名指ししてきおった……っ」
「名指し……？私を……？」
推挙する者は、太守の采配に任されている筈。何故、自分は最初から指名されているのか。
「申し訳ありません、失礼しますっ」
荀彧は咄嗟に、陰修の手の内の書簡を引き抜いた。皺になったそれを広げて、食い入るように読み進めた。
「これ、は……！？」
そこには、潁川から何年も名士が推挙されていない事実。及び、太守の職務怠慢も甚だしいという意味合いの侮辱が、長々と刻まれていた。
そして、荀彧が潁川の才子として、洛陽でも名が挙がっていること。それほどの若者を未だ召し出さぬとは、国に対する潁川郡の忠心を疑う行為である、と締めくくられている。
明確な脅しだ。もしも荀彧が推挙されなかったら。太守の陰修だけではなく、潁川自体が、何らかの罪に問われかねない。
「陰修、様……」
予想もしなかった、そして理解にも及ばない大事に、荀彧は声を詰まらせる。
陰修は無念極まる表情を浮かべながら、もう一通の書簡を手に取った。
「他にも信じ難いことが起きているのだ……何進殿を弑した宦官たちは、袁紹殿によって廃されたらしい。だがその間に、涼州の董卓殿が宮中を掌握し、新たに帝を擁した。そう、こちらには記されている。今や大尉とのことだ」
「そんな………そのようなことが、許されるのですか！？」
帝の死、そして新しい帝が即位して、まだ半年も経っていないというのに。
この短期間で起きた事が、あまりにも多過ぎる。今頃、洛陽の混乱は頂点に達しているのではないか。
「わからん……何も、わからんが……ああ」
「っ、陰修様っ」
憔悴し切った陰修の肩を支えながら、荀彧はごくりと唾を呑み込む。
最早、この動乱からは誰も無関係ではいられない。いや、いてはいけない。この地で気を揉むだけで、いつの間にか濁流に押し流されていくくらいなら、いっそ。
「……洛陽へ、参ります」
「荀彧っ、いかん！」
陰修が目の色を変えて荀彧に縋りつく。しかし荀彧は、毅然とした面持ちで言った。
「私が行かなければ、潁川が危うくなります。それに私は……この目で、洛陽の状況を見たく思います。その上で、自分に成せることを成したいのです。どうか私を……推挙してくださいませんか」
「だがそれでは、おぬしは人身御供だぞ……！」
そうするしかないとわかっていても、陰修はどうしても首を縦に触れない。
潁川太守となって、長らく名士を輩出してきた。荀彧は中でも、陰修にとって特別に才を感じさせる若者だった。
この聡明な智と徳の高い心が、正しく作用される世であれば、何も言うことなどない。されど今の動乱の世で、彼の才が食い潰されるなど耐え難かった。
なのにその思いも虚しく、動乱の渦中へと向かわせなくてはならない。
「長い間、本当にお世話になりました。どうかこの先、ご自愛くださいませ」
「荀、彧……」
魂の抜けた顔で、陰修は悄然と見上げる。
「今まで私を見守り育ててくださったこと。この荀文若、感謝の念に堪えません」
一切揺らぎのない荀彧の瞳が、そこにあった。
2018/05/27