隷属の華【五】
荀攸、何顒、そして荀爽は、玉座を前にして唖然としていた。「今、なんと…?」
荀爽が震える声で聞き返す。
それに苛ついた董卓は、激しくがなり立てた。
「これだから年寄りは耳が遠くて困るのだ!二度同じ事を言わせるなよ、長安への遷都を行う!」
「無茶苦茶言わないでくださいよ!そんな余裕残ってるわけないでしょう!」
怒りで顔を真っ赤にした何顒が噛み付いたが、董卓はどこ吹く風だ。
「民から税を絞り取ればよいではないか」
「…それで済むようなこっちゃねえだろうが!」
「何顒殿!」
今にも董卓の下へ駆けださんとする何顒を、荀攸が寸での所で止めた。
他人の言葉など、董卓は聞く耳持たなかった。只々言いたいことだけを言い捨てていく。
「よいか!いずれは誰かが此方に攻め込んでこよう。そうなればこの洛陽は守りに薄い。これでは陛下をお守りできぬ」
「こんっな時だけ帝を持ち出しやがって…」
何顒は苦虫を噛み潰した声で呻く。
視線の先に、何の感情もなく玉座に座る痛ましい子どもの姿があった。
「董卓殿、いくら何でも性急に過ぎましょう。まだ諸侯が戦を仕掛けると決まったわけではございますまい」
何とか刺激せず対話をせんと、荀爽は冷静な声色で話しかける。だが、董卓には通じない。
「ふん。あの曹操が、わしの暗殺失敗に終わったくらいで諦めるわけがなかろう。恐らくは袁紹辺りを焚きつけるに決まっておる。奴らが本腰入れて攻め込む前に、磐石の体制を整えてやるわ」
軍事で政権を掌握しただけあり、戦や乱が起こる気配を嗅ぎ付けることにかけては、異様に優れているのだ。
しかし、その先を読む力は、己の保身のためだけに発揮される。
そこに幾千もの犠牲が必ずや伴うことを、何程のこととも思わずに。
ここで初めて、荀攸の顔が憤怒で引きつった。
「何のために何顒殿が袁紹殿を抱き込んだとお思いですか!?遷都などすれば、こちらが戦も辞さぬという姿勢を諸侯に見せつけるも同然!こういう事態に陥ってこそ毅然と、そして寛大な措置を取るべきです!」
荀攸には珍しい程の勢いで怒鳴り散らす。
戦を起こさぬべく配慮してきた仲間の苦労が、一瞬で崩れ去ろうとしているのが我慢ならなかった。
「公達、落ち着け!」
荀爽は荀攸を制すが、最早熱を持ったその口は止められなかった。
「ここで戦など起こす構えなど見せたら、今度こそ中原は焼け野原だ!そんなことはっ…」
しかし必死の訴えは、たった一言で無に帰されてしまう。
「望むところだ」
今まで言い争いを黙って聞いていた呂布が、冷たく見下ろしてきた。
「っ…!」
武人だけが持ち得る圧力に、流石に荀攸もたじろいでしまう。
「俺は早く戦がしたくてたまらん。わざわざ遷都などせずとも、雑魚など振り払ってくれるが」
呂布の言葉に、董卓は満足げに高笑いをした。
「がっはっはっは!さすが呂布よ、貴様がいれば何ほどのこともないわ。だが陛下を戦乱に巻き込むわけにはいかんのでな、わかってくれ」
董卓は、玉座の帝の肩を馴れ馴れしく撫でた。帝は、何の反応も示さない。
ただ時折、瞬きをするだけの生き人形のようだった。
「とりあえずは陛下の御座所だけでも整備してもらうぞ、お前たち」
「と、董卓殿…!徒に世を乱れさせるのは…っ…ゴホッ、ゲホォッ!」
たまらず前に進み出た荀爽が頽れた。明らかに風邪ではない咳が、玉座の間に響く。
「慈明殿!?」
「しっかりしてくだせぇ!」
慌てて荀攸と何顒が抱き起こした。日に焼けて健康な印象に見えた荀爽の顔は、今や土気色だ。
荀爽の状態を察知した董卓は、無情な一言を投げつけた。
「荀爽…貴様、司空としての責務は死ぬ前にきっちり全うしてもらうぞ。さっさと長安へ行かんか!!」
「血迷ったか!?」
苦し紛れに何顒は絶叫した。董卓は勝ち誇った笑みを浮かべる。
「わしはいつだって正気じゃ」
「っぐ……」
荀攸は侮蔑の目で董卓を見上げた。それしかできない己への悔しさも滲ませながら。
「お前らも今すぐ長安へ向かえ。さもなければ、この場で呂布に叩っ斬らせる」
「…ふん」
至極つまらなそうな顔をしつつも、呂布が三人の前に進み出た。
「っくそ…!」
荒事に慣れている何顒と、武術の心得もある荀攸とはいえ、所詮は文官の域を出ないのだ。
呂布相手に何かできるわけもなく、引き下がるほかなかった。
「皆様!」
玉座の間から退散してきた三人を、神妙な面持ちで王允が出迎える。
内部の喧騒はほとんど聞こえていた。全く望ましくない事態に発展していることも察している。
無念に満ちた表情で、荀攸は首を振った。
「申し訳ありません。考え得る限り、最悪の事態に進みそうです」
「畜生…遷都なんて本気かよ!」
何顒は悔しさで歯軋りをする。握りしめた拳からは血が数滴落ちた。
そんな何顒の背中を優しく撫でながら、荀爽はふと大きなため息をついた。
「こんなことになるならば…文若とは最後に、きちんと顔を合わせたかったな」
「…っ!」
荀攸の喉の奥が一瞬詰まる。そして次の瞬間には、叫びに近い声を放った。
「申し訳ありません、俺がいけないんです!」
「公達…?」
荀攸らしからぬ剣幕に、一同首を傾げた。
「文若殿は、自身の置かれた立場に思い悩んでいました。にも拘らず、俺はただ酷い言葉を投げつけて帰郷するよう迫ってしまった。こんな俺に…愛想を尽かしたのでしょう」
「そう、か…」
「…慈明殿たちに顔も見せられないほど、思慮を失わせてしまったのは俺の責任です。どうか文若殿を責めないでください」
「いいや。文若もお前も、何一つ悪くない。こんな状況で誰もが余裕などないのだ、気にするな」
思いつめた顔つきになる荀攸を、荀爽は穏やかに励ました。その矢先である。
「何をごちゃごちゃ話しておるのだ!!さっさと長安へ向かえと言っているだろう!」
遥か上の方、最上階から濁声が降り注ぐ。ハッとして全員が上を見上げた。
董卓が、鬼の形相で睨みつけている。周囲には弓兵が待機していた。
「お前たち三人の馬は、既に入口に用意させた!今すぐ出立せよ!さもなくば…!」
スッと董卓の右手が上がる。それに合わせ、弓兵が構えの体勢に入った。
「嘘だろ…!?」
「っ…」
なんという横暴極まる男だろうか。荀攸も何顒も、王允ですらその所業に目を見開いた。
ただ、荀爽だけが静かに頭を下げる。
「董卓殿、仰せのままにいたします。どうか怒りをお静めくださいますよう」
抑揚のない静かな声で拝礼し、さっと踵を返した。
「公達、何顒、行くぞ」
「っ、慈明殿…無理をなさらないでください」
医師や薬師でなくとも、荀爽の容体が芳しくないのは察知できていた。
しかし荀攸の気遣う手を振り払いつつ、荀爽は毅然として言う。
「行くしかあるまい、そこでまた…打てる手を考える。荒んだ長安のまま陛下をお迎えするわけにもいかぬしな」
今の長安は古の戦乱により、朽ち果てたまま放置されている。
都としての体裁を成すためにやらねばならぬことは、あまりにも多過ぎた。
だがそれでも、抗えない以上はせめて、帝に不憫な思いはさせたくなかった。
「……はい」
荀攸は、それ以上何も言うことはなかった。何顒も覚悟を決め、黙って頷く。
「王允殿、洛陽をお頼み申し上げます」
「かしこまりました。変事があればすぐに」
王允はその場で跪き、深々と礼をして三人を見送った。
「これで邪魔も消えたし、長安への遷都にも目途がついたな…」
有能故に生かしてはいるが、あの三人からは露骨な反骨心を受け取っている。
いずれは始末する必要があると感じているが、それは働かせるだけ働かせてからでも遅くはない。
とりあえず、目障りな輩を遠ざけることには成功した。これでまたしばらく好き放題できる。
董卓は上機嫌のまま、後宮の奥へと向かっていた。
「さて…」
寝室に入り、目当ての存在が待つそこへ歩みを進める。
疲れ果てた状態で寝台に横たわる裸体を、改めて見回した。
「ふむ…いい光景だな」
決して女性と見紛う、といった顔立ちではない。だが見れば見る程、端整で美しい容姿だ。
今更ながら、自分の嗅覚の鋭さに自画自賛せざるを得ない。
気紛れに荀攸宛の書簡を見た際、まずその筆跡の流麗さ、内容から滲む聡明さが目を引いた。
洛陽は人材が枯渇している。使える者は誰でも欲しかったし、特に名門の出身ともなれば尚更だ。故に、無理矢理召し出したのだ。仮に書簡から想像する程の者でなくとも、それなりの使い潰せそうな輩であればよいと。
実際にやってきたのは、想像を遙かに超えた美青年だった。
元々何人もの美女を召し抱え、時には男にも手を出してきたが、男でこれだけの逸材を見たのは初めてだ。
そういえば、と荀爽の顔が浮かぶ。老齢ながら、その辺の老い耄れとは比較にならぬ整った風采だ。
成程、血の成せる業かと納得した。そして、下賤な欲も湧いた。
この知性を宿した涼しげな瞳が、抗えぬ絶望に震える様を見たい、と。
別の役職を宛がう所を、咄嗟に守宮令に命じ、狭い小部屋に押し込めさせた。そして機会を窺い手籠めにするつもりでいた。
まさか荀彧の方から、手っ取り早く付け入る隙を見せてくるとは想像していなかったが。
七星剣が切り取った布に残る香に気付いた瞬間、正に僥倖だと思った。
罪人を擁護したのだ。言い訳等できぬ。させもせぬ。
この手に、堕ちてもらう。
「何じゃ、だらしない奴め。女子よりは体力があろう」
ぐったりとしている荀彧の顎を無理矢理掴んで、こちらを向けさせた。
「っ、あ…やっ…」
虚ろな瞳が、流した涙で真っ赤に染まっている。
声にならない声が、震えた唇から洩れた。
「ふん、まあよいわ」
嘲笑いながら、董卓は寝台近くの卓に置いた水差しを取った。
「やめ、て…いやですっ、あ、んぅ…!」
荀彧は水差しを見るなり、泣きながら首を振った。
だが、後ろ手に縛り上げられた状態では何もできず、またも注ぎ口を咥えさせられる。
流し込まれる媚薬を吐き出すこともできず、荀彧は呑み込むしかなかった。
「ん、あ…ああっ…いや…いやぁ…」
何度も限界を迎えた体を、またも強制的に快楽が取り巻いていく。
「ぐふふ、本当にこいつはよく効くな。匈奴秘伝の媚薬、伊達ではないのぉ」
次第に勃ち上がる胸の飾りを満足げに見ながら、董卓はそれを擂り潰した。
「んぁあ…!あ、だめ…あ、うぅっ…」
いきなり与えられた刺激に、荀彧の体が疼く。
「さぁて、今日はこいつで可愛がってやろうかな」
董卓は意地悪い笑みを浮かべると、自分の懐を弄って何かを引き抜いた。
「えっ…!?」
荀彧は驚愕に体を凍りつかせる。
その手に握られているのは、筆だった。しかも毛先は真っ白で、使い古されていない新品だ。
「元守宮令の貴様に与える罰としては、相応しかろう?」
職人が丹精込めて作ったはずの筆を無造作に下ろし、水差しに浸した。
とっぷりと媚薬を吸った筆が、荀彧の体に迫る。
見慣れている筈の筆が、恐ろしい生き物のように見えた。
「っあ、や…いやぁっ!あっ」
逃げようとしたが、虚しくも左足の枷に動きを止められてしまう。
容赦なく、筆先が荀彧の体に触れた。
「っは!あ、あぅ…んんっ!」
胸元を擽られ、そのもどかしい動きに身を捩らせた。
「やぁっ、あ、やめ、て、ひぁあっ、ん!」
微細な筆の動きは、着実に荀彧の弱い箇所を責め立てる。
柔らかな毛に擦られるたびに、体の内から快楽がせり上がった。
更に筆から滴る媚薬が、外側からも荀彧に染み入り、苛んでいく。
「ほう?筆先で感じるとは、なんと淫乱な奴よ。貴様のような男が守宮令だったとはな、陛下もさぞお嘆きだ」
過ぎた感覚に悶え苦しむ荀彧を、董卓は満足げに見下ろしながら弄び続けた。
「それとも?もしかして、この体で陛下にそっちの手ほどきでもしてやったのか?んん?ちと、陛下には早い気もするぞ?」
「っああ!あ、いや、いやぁ…やめてぇ…!」
耳を塞ぐことも出来ず、快楽から逃れる術もないままに、荀彧は追い詰められていく。
「っあ、んんぅ!いや、あ」
筆先はついに荀彧の下半身を辿り、蜜を溢す先端にぐっと押し付けられた。
その行為は、焦らされた体には十分過ぎるほどの引き金だった。
「あ、あああっ、ああーーーっ!!」
腰を無意識に浮かせ、荀彧は泣き叫びながら果てた。
「っは、あ…!ぅ…あ…あぁ」
薬に浸された体は、一度精を放ったところでそう簡単に快楽からは抜け出せない。
いつまでも続く強烈な痺れに、背筋が否応なく震えた。
「がっはっはっは、いいぞ荀彧。なかなかの雌っぷり」
「んぁ、ああ…もう、いやぁ…!」
勝手に体が快感を求め、腰が揺れ動いてしまう。
そんな自分の浅ましい姿に絶望し、荀彧の目からは止めどなく涙が溢れた。
「貂蝉はどちらかというと愛い奴じゃが、貴様は必死にもがいている姿が似合いだな」
董卓の脳裏には、もう一人お気に入りの美姫が思い浮かぶ。
時折恥じらいつつも、女らしい色気たっぷりに自分に縋ってくるその様が何とも愛らしいのだ。
伸びやかな肢体に形よい胸の膨らみ。快楽に彩られた姿は美しく、心ゆくまま愛でたいという気にさせられる。
荀彧は、決して自分から董卓に纏わりつくようなことはしなかった。
たとえどんなに、快楽に溺れさせられようとも。それがまた、董卓の嗜虐心を煽った。
どこまでも苛め抜いて、涙が枯れるまで泣かせて、屈服させてやりたいという思いが、止まるところを知らない。
同じ美しさでも、沸き上がる感情はこうも違うのだなと、妙に冷静な感慨を持った。
「んっ、あ、やぁあ!嫌ですっ、だめ、やめて、いやっ、あぁあん!!」
筆で先端を撫で回され、何度も貫かれた秘所に指を埋め込まれ。
前からも後ろからも揺さぶられ、荀彧は泣き喚いた。
その声は最早、男のものではなかった。甲高く蕩けた嬌声が、寝室に響く。
「っひぅ、あ…あぁあ、おゆ、るし…くださいっ…!」
「んん?どうしてほしいのだ」
救いを求める言葉が漏れたのを、董卓は聞き逃さなかった。
嗤いながら、荀彧の内部の一番弱い箇所を引っ掻き回す。
「ひあぁあっ!!やめ、やめて…!」
「やめてよいのか?」
董卓はさっと指を引き抜き、花心を弄ぶ筆を投げ捨てた。
「っはぁ!あ、ああっ!?」
散々高められたところで放り出され、行き場を無くした快楽が荀彧の全身を駆け巡る。
「ああっ、あ、いやぁああ!!」
「いいザマだ。さぁさぁ、言ってみろ、願ってみろ。貴様が本当に欲しているのはなんだ?」
「っあ…ゆる、して…ゆるしてぇ…あっ、あ…ああ!」
濁流のごとく凶暴な快楽が体を切り刻み、心が押し流されていく。
「とう、たく、殿…お慈悲を…っ」
荀彧は消え入りそうな声で、目の前の醜悪な男に赦しを乞うた。
「慈悲、じゃと??がはははは、うまい表現もあったものよ。流石は荀家だな」
ここまでの目に遭おうと、一番奥底の理性は捨て切れないらしい。
名門であるが故の、最後に残された誇りか。
いつかそれも粉微塵にしてやりたいとも思うが、あまり早くに壊しても後の楽しみがなくなる。
「まあよかろう。哀れな貴様に、わしからたっぷり慈悲を与えてやる」
董卓は荀彧の体を反転させ、うつ伏せにした。
更に膝を立たせ、尻をつき出させるような格好にする。
「あ、ぅ…?あ、ああぁあっ!!」
息つく間もなく、秘所に董卓の凶暴な自身が突き立てられた。
「そらそら、これが欲しかったのだろう!もっと腰を動かさぬか!」
董卓は獣のごとき激しさで、荀彧に喰らいつく。
抵抗もできず、荀彧はされるがまま揺さぶられ、奥の奥まで犯し尽くされる。
「っあ、はぁぅ!あ、ぁん!あっ、だ、め…っあ、あ、あぁぁぁああぁっ!!」
今一度蜜を吐き出した瞬間、荀彧の頭は真っ白に塗り潰された。
再び目を覚ました時、視界に入ったのはまた違う天井だった。
董卓の寝室よりは幾分落ち着いた色合いである。
「う…」
ぼうっとした頭のまま、周囲を見回した。整えられてはいるが、殺風景でやや狭い部屋だ。
ここは一体、どこなのだろう。
「お気づきになりましたか?」
「っ…?」
頭上から、鈴を転がすような美しい声が聞こえた。女性のものだ。
「あ…」
心配そうな面持ちで、声の主が覗き込んでくる。
「動かれませんよう…少し熱もおありです」
女性の柔らかな手が、荀彧の額に触れる。その手は少しばかり冷たく感じた。
暫し頭の回らない状態で、突然現れた女性をぼんやりと見続けていた。
だが、次第に意識がはっきりしてくると共に、荀彧の背がぞわりと逆立った。
穢れた自分に、誰かが触れている。それも、女性が。
「ぁ…!触らないでくださいっ」
荀彧は無我夢中で、自分の額に置かれたその手を振り払う。
その勢いで、荀彧は寝台から跳ね起きた。
「あ」
女性と視線がかち合う。荀彧はそこで初めて、その顔をはっきりと認識した。
薄紅色の衣装を纏った、それは見目麗しい女性だった。
ここまでの美人は、潁川でも、洛陽の女官でも見たことがない。
「っ、申し訳、ありません…」
咄嗟のこととはいえ、女性に対してなんてことをしたのだ。荀彧は震えながら謝った。
「いえ…大丈夫ですか?」
女性は首を振り、穏やかな微笑みを返した。
その顔が、所作が。美しくあればあるほどいたたまれず、荀彧は泣きそうな声で訴える。
「み、見ないで、ください…こんな、穢れた姿」
男である自分が、一目で奴隷とわかる扇情的な装束を着せられ、更に女性にその姿を見られている。
その恥辱は、計り知れないものがあった。
「…穢れているのは私も同じです。お気持ち、よくわかります」
思いがけない言葉が、女性の口から返ってきた。
「え…?」
思わず、荀彧は女性を見つめ返した。
花も恥じらうほどの美しい笑顔が、そこにある。
「申し遅れました。私は貂蝉と申します」
色付いた麗しの唇から、その人の名前が紡がれた。
「ちょう…せん?貂蝉、殿…?」
その名に、聞き覚えがあった。どこで聞いたのだろう。
「ご安心くださいませ。今宵は、私が董卓様のお相手を勤めます」
「っ、あ…」
その台詞を聞いた瞬間、おぞましい記憶が蘇った。
そうだ。散々に貪られる中で、自分はかすかにその名を聞いた気がするのだ。
何度か董卓の口の端に上がった、誰かの名前。
「貴方、は…貴方もまさか…」
「荀彧様。どうか今日は、ゆっくりとお休みください」
貂蝉は問いには答えず、ただ静かに、優しく微笑んだ。
仄かに宿したその翳こそが、荀彧の問いが正しいことを物語っていた。
2018/06/16