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曇天日和

どんてんびより

隷属の華【七】

『いやあぁああああっ!!』
貂蝉が董卓の寝室の前まで戻ってきた瞬間、悲鳴が上がった。
「あ、っ…」
扉の向こうから聞こえる、何度となく耳にした哀しい叫び。
その痛ましさは、何度聞いても慣れぬものではない。
男性でありながら、あられもない声を上げさせられる恥辱はいかばかりか。
『あっ、やぁっ!んぁっ!お、おゆるし、くださ……あっ、ああっ!』
『がっはっは、もっと叫べ、喚け!喉を潰してもかまわんぞっ』
『いやぁっ、あっ…もう、やめっ、あっ、あ……ああ、あああああ――――っ!!』
一際甲高い絶叫が上がり、それっきり荀彧の声は途切れてしまった。


少しばかりの静寂の後、扉が開かれた。
強い汗の臭いと共に、乱れた平服姿のままの董卓が顔を出す。
「おお貂蝉。そなたか」
「…お疲れ様です、董卓様」
貂蝉は恭しくその場に跪いた。
ずば抜けた外見の美麗さは勿論、所作ひとつひとつが彼女の美しさを際立たせる。
董卓は下品な―――だが彼女にしか見せない、媚びるような眼差しを向けて笑いかけた。
「またあ奴を清めに来たのか?宦官にでもやらせておけばよいものを」
「ですが荀彧様は、董卓様が大層お気に召していらっしゃる方。私も礼を尽くして差し上げねばならないと思いまして」
貂蝉の言葉に、いくらか董卓は驚いた顔をした。しかしすぐに笑みを浮かべる。
「あ奴は男だし、ただの奴隷よ。わしが誰よりも気に入っているのはそなたに決まっておろう」
董卓の手が、素早く貂蝉の細い腰に回った。生臭い臭いが貂蝉の鼻を掠める。
不快感に少しだけ眉を寄せると、董卓もそれに気づいたらしい。
「おっとすまんな。まずはこの汗を流してくる故、あ奴のことは任せたぞ」
「はい…」
巨体に合わぬ素軽さで沐浴の室へと引き上げていく背中を、笑顔で見送る。
足音が遠ざかるのを確認し、貂蝉は寝室へと駆け込んだ。


「荀彧様…っ!」
寝台に駆けつけた貂蝉は、息を詰まらせる。相変わらず、酷い有様だ。
今宵も荀彧は、抵抗できぬよう両手首を縛り上げられたままで横たわっていた。
胸元の尖りは余程強く吸いつかれたのか、赤く鬱血している。よく見れば、歯形も残っていた。
体のあちらこちらに、噛まれた痕や叩かれたような痣が残され、そして。
力なく投げ出された下半身は、最早どちらのものかもわからない白濁に穢されていた。

貂蝉は董卓の側女の筆頭格ではあるが、自ら望んで他の側女やお手つきになった女官の事後の世話も行っている。
しかし、これほどまでに執拗な凌辱を受けた存在は見たことがない。
「――――っ」
自分が、董卓に純潔を散らされた時が思い出された。
激しい痛みと共に味わった恥辱。自分の体を暴かれていく気色悪さ。
だが、自分は。自分を含む女性たちは、ある程度手加減されている方なのだと思い知る。
荀彧に残された痕跡からは、嗜虐心のままに弄ぶ董卓の姿が浮かび上がった。
これでは、まるで拷問ではないか。
「あ…あっ……」
荀彧の口から、か細い吐息が洩れた。
慌てて、寝台と荀彧とを繋ぎ合わせる麻縄をほどいてやる。
戒めが解かれて自由になった手が、寝台にばたりと崩れ落ちた。手首にくっきり縄の痕と擦り傷が残されている。
自身で傷つけた左手首からは、今も血が滲んでいた。

「ぅ…ん……あ、ああ…」
ぬるま湯に浸した布で体を拭いていくたびに、切ない声が上がる。
媚薬を盛られて喘がされた体には、まだ火照りが残っていた。気を失っても、反応してしまうのだ。
いたたまれない心地になりながらも、貂蝉は黙々と荀彧の姿を整える。
そして最後に、首筋と腕に香油を塗り込んだ。
きっかけは、最初に体を清めた時。むせ返るような事後の臭いの中から、清爽な香がふわりと漂った。
王允から贈られた香のうちのひとつでもあり、格調高いと評判の香り。これを嗜む素養のある方なのだ、と。
ならば、雄の臭いに塗れるなど、きっと耐えられない筈だ。
たとえ気休めだとしても、本人の好きな香くらいは纏わせてやりたかった。

「…う、う」
ゆっくりと、荀彧の瞼が開かれた。
暴力まがいの情事に泣かされ続けた目は、痛々しいまでに赤く滲んでいる。
「荀彧様…」
「ちょう、せん…どの…」
いつもであれば、自分の裸を貂蝉に清められているという事実に恥らいと戸惑いを見せるところだ。
だが、今日は最早そんな気力も残されてはいないようだった。
焦点の合わない目線はうすぼんやりとしたままで、覚醒する気配はない。
またすぐ、眠りに落ちるであろうことを承知したうえで、貂蝉は耳元に囁いた。
「お預かりしたものは、必ずや陰修様の元へ届くよう手配いたしました」
「あ、あ……」
意識のはっきりしない中、それでも唇を震わせて声が発せられた。
「かんしゃ…いたし…ま…」
そこまでが今日の限界だった。瞼が再び閉じられ、眠りの中へと落ちていく。
貂蝉は優しく、その頬を撫でた。

「…あっ」
貂蝉は思い出したように、懐に手を入れる。
取り出したのは、先程荀彧に所望され、引きちぎった腰飾りの一部だ。
己の手を裂いた時も驚いたが、それ以上に、この飾りが扱い次第で刃になると目を付けた観察眼に驚かされた。
この腰飾りも、洛陽に入る際に王允から贈られたものだ。得物の多節鞭とは別に、万が一の護身武器としても扱えるように、と。
「こちらは…貴方に差し上げますね」
枕元にあった髪紐を拾い上げ、鎖を通すための穴に紐を差し込む。
落ちないように先端を片結びしてから、散らばった荀彧の髪の毛を綺麗に結い上げてやった。


「おう、流石は貂蝉よ。女子の仕事は細やかだなぁ」
丁度そこへ、沐浴を終えた董卓が戻ってきた。
貂蝉を押しのけて寝台を覗き込み、荀彧の体をいやらしい視線で見下ろす。
白い裸体に散らされた傷と鬱血痕は、董卓の支配欲を満たし、背中を震わせた。
「ご苦労だったな。そなたが優しくしておるから、こ奴もまだ壊れずにいるのだろう」
「折角手中に収めた方ですもの。長くお楽しみいただくためにも、丁重に扱うことも肝要かと…」
「確かに、これほどの美形もそう捕まらんからな。わしも少々考えなしだったか?」
若干、董卓の視線が宙を泳いだ。
ここぞとばかりに、貂蝉は妖艶な微笑みを作って畳みかける。
「…少し、寂しゅうございます。董卓様のお心が、いつ私から離れてしまうかと気が気ではありません。今宵も、董卓様の訪いをお待ち申し上げておりましたのに」
しなを作り自分にもたれかかってくる媚態を前に、董卓はたちまちのぼせ上がった。
「ふふふ、案ずるな貂蝉よ。わしの一番はそなた。ただ、昂り過ぎている時はそなたでは取り返しのつかぬ傷を負わせてしまうかもしれんでなぁ」
「董卓様…」
極上の上目遣いに、いよいよ鼻息が荒くなる。
だが、今夜は十分発散してしまった。そのことを口惜しく思わずにいられない。 
「わかったわかった。明日からはまたそなたの元に通ってやる故、待っておれ」
そう言ってから、董卓は乱雑に荀彧を抱き起こした。寝台につないだ枷の鎖も外す。
「あ…うぅ…」
苦しそうな声は上がるも、荀彧の目が開く気配はない。
精根尽き果て、意識は深い闇の底に沈んでいた。


「荀彧様…申し訳ございません」
抱えられて小部屋へと戻されていく荀彧を見送りながら、貂蝉は俯く。
これまでは、先程のように自分や他の側女にも目が行くよう、ある程度誘導することができていた。
だが、まもなくそれもできなくなる。彼に圧し掛かる負担は、更に増えてしまうだろう。
しかし董卓に取り入るだけでは、自分の使命は果たせないのだ。
今度は後宮ではなく、戦場へと打って出る時。最強の武の傍らで咲く華として。
「どうか、今しばらく…」
荀彧の体と心が持つことに、賭けるしかなかった。





丁度、空が白み始めた頃だった。
長安の宮殿前に、数多の文官と武官の行列を従えた簡素な馬車が到着した。
宮殿前では、先入りしていた文官たちが並び、静かに跪く。
馬車の扉が開けられると、両脇を李儒と郭汜に固められた帝が姿を見せた。
「陛下…遠いところをよくお越しになりました」
司空である荀爽が代表して、前に出る。
「ああ、久しいな…荀爽」
少しだけ、帝に笑顔が生まれる。久方ぶりに会う見知った顔に、安堵したらしい。

しかしその光景を、全く心穏やかに見ることができないでいる二人がいた。
「おい…荀攸殿」
何顒が気まずそうに声を潜めた。
荀攸も、言いたいことを全て察したうえで首を振る。
「…まさか」
常に帝の後ろで異様な圧を見せていた巨体が、どこを見渡してもいなかった。
董卓は、周囲の取り巻きを頭からは信用していない。しかも帝の存在は切り札の筈。
「想定外、でした」
読みが外れた。帝の身柄を臣下に完全に託して先に寄越すとは。
帝の御前に立つとあってそれなりに整えてきた顔に、動揺が走る。
「なんだなんだぁ?これで完成したって言えるのかよ?」
郭汜の呆れた声が、荀攸を目の前の現実に引き戻した。
慌てて、頭を下げて平静を装う。
「申し訳ありません…これでも内部は整えてありますので、不自由はないかと」
荀攸の返答に対し、帝の傍らにいた李儒が侮蔑の眼差しを向ける。
「不自由がないのは最低限でございましょう。このようなさもしい所に陛下をお連れすることになるとは…皆様方の怠慢ではありませんか?」
自分たちの苦労を慮ろうともしないその姿勢に、何顒は怒りを以て睨み返した。
「外観は仕方ないにしても中身はそれなりにしたって言ってんだろうが!洛陽と比べんな」
「やめよ、みんな」
一触即発の状態になったところを制したのは、他ならぬ帝だった。
「わたしはどこでもかまわぬ。ただ…はやく横に、なりたい」
幼子の顔は、痩せて疲れ切っていた。
「これはこれは、失礼いたしました。さっさと案内せよ」
「何を偉そうに…陛下、申し訳ありませんでした。どうぞこちらへ」
苦虫を噛み潰しつつ、何顒は帝の前へと進み出た。

「っ…お待ちを」
咄嗟に荀攸は声を掛けた。
「陛下、いかがされました?」
帝は少しだけ荀攸を見つめたが、すぐに俯いてしまう。
「…なんでもない」
「ああもう、陛下は長旅でお疲れなのですぞ!変なことでお引止めになりますな」
痺れを切らした李儒が喚き散らし、それ以上は荀攸も強く出れなかった。
「どうした、公達」
「いえ…」
内宮へと入っていく一行を見送りながら、荀攸はつい今しがたの視線を思い返していた。
一瞬、帝が荀爽の方を見たような気がするのだ。何か言いたげな表情で。


「あー、つまらん。面倒臭い役目仰せつかってしまったな」
持ち場へと戻っていく文官や武官たちを眺めていた郭汜が、気怠い声を上げた。
普段は温厚な荀爽が、さっと振り返って厳しい視線を向ける。
「聞き捨てなりませんな。帝の御身を御守りするのは、むしろ誉れ高き任務の筈」
「といってもですぜ。これから戦が始まるってのに、前線出られないのはつまらんでしょう」
「…は?」
「っ!?」
荀爽と荀攸は同時に固まった。
「おまけに馬車に合わせての進軍だからまあちんたらちんたら…あーあ退屈だった、って何ですか」
据わった目で睨みつけてくる二人分の視線に気づき、郭汜も思わずたじろいだ。
「戦、だと?」
「ああ、長安に引きこもってちゃあわかんねぇか。もう戦は始まりますぞ。袁紹が諸侯束ねて全面戦争の構え、董卓様もやる気満々ときてますわ」
いよいよ、荀爽と荀攸の顔に驚愕が張り付いた。
しかしそんな二人の様子など、郭汜はまるで気にも留めなかった。
「はぁ、李儒に一杯食わされたなぁ。今から洛陽に戻ったって、何もできねぇし…」
郭汜は呑気な声で言うと、欠伸をしながら宮殿を出ていった。
後には、嫌な静寂が残された。

「…ぐっ」
荀攸は、悔しさに奥歯を軋ませる。荀爽もまた思いは同じだ。
「この機会でなんとかしたかったが…陛下ともどもお越しになるというのが、見誤りか」
「申し訳ありません、俺も誤算でした。帝の御身だけを先に長安へ送るとは」
元より遷都を言い出したのは、洛陽の防備では心許ないからであった筈。
だからこそ、帝と共に長安へ来ると信じて疑っていなかった。
自分の読みの甘さに、荀攸は天を仰いだ。
「しかし…王允殿からはついに何もなかったな。いつもならあの健脚の伝令が来そうなものだが」
何気なく、荀爽は疑問を口にした。
「そうだ…何故 、でしょう」
王允の下に、優秀な使用人がいることは荀攸も知っているし、顔も覚えている。
先の黄巾の乱の際も、伝令として随分世話になった。
だが、一度も王允からの書簡が届くことはなかった。来たのは三日前、先発隊の武官らによって知らされた、帝の長安入りの通告のみ。
あまり意識していなかったが、これだけの大切な情報を寄越さないなど王允らしからぬ不手際ではないだろうか。
「いや…洛陽に董卓殿が留まっている以上、何かで手一杯なのだろう。こちらはこちらで…っ、ゴホォッ!」
ふいに、荀爽は激しく咳き込みながらよろめいた。
「っ、慈明殿…!」
押さえた手に、ついに喀血が付着し始めたのを荀攸は見逃さなかった。
だが、伸ばした手はさっと振り払われてしまう。
「見なかったことにしろ」
死相が薄く浮かぶ顔には、有無を言わせぬ圧が宿っていた。
「っ…」
思わず、荀攸は息を飲んだ。
「いい…どうせ、お前たちと違って若くもない命だ」
すぐに穏やかな顔つきに戻ると、荀爽は何事もなかったように立ち上がった。
「何顒が戻り次第、いつもの場所に行くぞ。今後の方策を考えねば」
「…はっ」

事態は、常に想定するよりも悪い方へと流れていく。
理解はしている。董卓一人排除したところで、この国はどうにもならないところまで来ていると。
それでも、足掻かねばならぬ。ここにいる以上は。





「これ、は」
皺だらけの手が、カタカタと震えた。
「司徒の王允様…我が主からでございます」
「だがこれはっ、これは確かに…」
陰修は何度も、手にした書簡を読み返した。
墨だけの黒ではない、赤茶がかったその字。恐らくは血が混じっている。
そんなただ事ではない状態で書かれた筆跡は、自分がずっと側で見守ってきたもの。
断腸の思いで送り出した、荀彧のもので間違いなかった。
「これを実際に書いた者は、どうしているのだ!?」
陰修の剣幕にも、男は全く動じない。
「私めは何も伺っておりません。ただ、王允様はこれを必ず貴方に渡すようにと」
「本当か!?本当に何も聞いてないのか!?」
尚も陰修は食い下がったが、男は眉一つも動く気配なかった。
これ以上の問答は無用とばかりに、踵を返す。
「私は、ただの伝令でございます。では」


「荀彧…一体、何があった…どうしたというのだ…」
伝令が去った部屋で、陰修はしばし呆然としていた。
何故、荀彧が血混じりの書簡を書いている?そして何故、本人からではなく王允から?
老いた陰修の脈が、不気味に跳ね上がっていく。
間違いなく、荀彧に何かよからぬことがあった。そうでなければこんな切羽詰まった書簡が来る筈がない。
「ああ、荀彧…荀彧っ…!」
自分の不安は的中した。やはり彼を洛陽に行かせるべきでなかったのだ。
何と言われようとここに留め置いて、罰を受ける方が余程ましだったのではないか。
今更のように後悔が押し寄せ、陰修の曲がった背中を蹴り倒していく。

「っ…」
陰修はもう一度、書簡を読んだ。興奮状態で、今一つ内容が頭に入っていなかったのだ。
しっかりと読み進めるうち、今度は別の意味で陰修の脈が跳ねる。
「…戦、か!」
袁紹の号令により、諸侯が董卓打倒に乗り出そうとしていること。
董卓側も堂々迎え撃つつもりで、戦も辞さぬ姿勢でいること。
そうなれば黄巾の乱の時とは違い、潁川も間違いなく戦火に包まれてしまうであろうこと。
故に、叶うなら一刻も早く、潁川を離れるように民を導いてほしい。
書簡の最後はそう締めくくられていた。
「荀彧っ…」
思わず、陰修は書簡を自分の額に押し付けた。
どんな思いで、そしてどんな状況で。彼はこの書簡を書いたのだろう。
近頃、一段と皺の深くなった陰修の眼から、大粒の涙が溢れて止まらない。
滴り落ちた涙が、書簡にぼたぼたと吸い込まれる。
そこにいくつもの染みが生じるが、文字が滲むことはなかった。

「っ…」
ひとしきり泣いた後、陰修は一段と眼差しをきつくしながら顔を上げた。
「誰かある、一大事だ!潁川の民に号令を出すぞ!!」
他の部屋に待機している役人たちに聞こえるよう、大声を出しながら部屋を出る。
潁川の命運は、自分にかかっている。送り出した者の責任として、荀彧の想いに応えねば。
その思いが、老いて気力を失いつつあった体に鞭を打たせた。




2018/07/06

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