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曇天日和

どんてんびより

隷属の華【八】

目が覚めた時、小窓から見える空は既に茜色だった。昼の間、ずっと寝てしまっていたらしい。
鉛のように重たく感じる体を、どうにか起こした。
「っ…」
左足首に噛まされた枷の鎖が、じゃらりと金属音を立てる。
嫌でも、薄布に包まれた己の体が目に入った。
「っく!う、う…」
全身の倦怠感と鈍痛だけではない。
手首、胸元、腹、腰、脚。体のあちらこちらから鋭い痛みが上がった。
左手首を見やる。自ら裂いた傷の上から、太い麻縄で縛られた跡が痣となっていた。
少しでも動くたび、縄が絡みつき、喰い込み。
全身を快楽の底へと沈められ、そこから逃れようとすれば激しい痛みに晒される。
行き場を無くした苦しみは、喘ぎや叫びとなって、ただ自分を嬲る男を悦ばすだけで。
「…っ、う」
泣き喚く自分を見下ろす視線が脳裏に蘇り、荀彧はたまらず己を抱きしめた。

昨晩の董卓の仕打ちは、ただの暴力に等しかった。
左手首の傷から自死を試みたと勘違いされ、それに対する罰という名目だった。
いつも通りに媚薬を盛られ、無理矢理に弄られて喘がされる。
そればかりか、胸の尖りは千切られんばかりに齧り付かれ、腹や脚は執拗に殴られ、蹴られ続けた。
外部への手紙を書くためとは口が裂けても言えず、ひたすら耐えるしかなかった。
快楽と苦痛に体は蝕まれ、とどめとばかりに何の慣らしもなく貫かれて。
幾度犯されようが、猛った雄を容赦なく突き刺される激痛と圧迫、そして屈辱に慣れようはずもなかった。

俯いた顔を両の手に埋めた時、首筋にやや冷たい感触が走った。
「え?」
不思議に思って、首に手を伸ばす。髪を結っている紐がすぐに指に纏わりついた。
それだけでなくやや冷感を伴うもの、金属のような何かが指先に触れる。
訝しみつつ、荀彧は髪紐を引っ張った。紐が外れると同時に、髪がぱさりと広がる。
「これは…」
手元に手繰り寄せた髪紐を見て、荀彧は小さな声を上げた。
紐の先端に、金属の飾りが結わえ付けられていた。左手首を切る際に使った、腰飾り。
貂蝉が回収したのは覚えているが、やはり一度他人の血のついたものなど薄気味悪かったのだろう。
申し訳ないことをした。折角の、美しさを引き立てるための飾りを汚してしまった。
「…っ」
頬が羞恥で染まる。裸を清めてくれたのは、間違いなく貂蝉だ。
記憶は朧気だったが、手紙は渡したと伝えてくれたのを、かすかに覚えている。
汚された、しかも男である自分の体を躊躇わず清め、心を尽くしながら接してくれて。
彼女自身もまた、董卓に望まぬ行為を強いられている筈なのに。
どこか翳を宿しながらも、瞳に濁りはない。なんと、強い女性なのだろうか。
「貂蝉、殿…」
腰飾りを、ぐっと握り締めた。
美しくも鋭利なそれは、荀彧の掌の皮膚に食い込み、痛みを生じさせる。
嗚呼。貴方の強さが、このひとかけらでもあったなら。






「っち、あちらさんもなかなか士気が高いじゃねえか!!」
華雄は苛立ちながら、砕棒を振り払った。
突進してきた雑兵たちが、ゆうに十人は軽く潰され、吹き飛ばされる。
だが、倒しても倒しても雑兵たちの波状攻撃は続いた。
「くっそ…まさかこんなことになるとはな」
周囲の味方を見回す。奮戦はしているが、やや動きが緩慢になってきているのが見て取れた。
明らかに、こちら側の軍に疲労が溜まってきている。
「おい、李傕はまだなのかよ!」
華雄は叫んだ。
共に汜水関目指して出立した後、途中で別れたきり姿を見ていない。
しかも、ありったけの兵糧を調達してやる、と息巻いてたにも関わらず、待てど暮らせど汜水関に現れなかった。
そうこうしているうちに、痺れを切らした味方が口火を切る形で、連合軍との戦闘が始まってしまった。
それでも、李傕など当てにせずとも当初はさっさと追い返せると思っていた。
だが、二日、三日と押し合いが続くうちに、やや形成が崩れ始めている。
「今日はいったん、ここまでだな…」
見上げた空は既に星がちらつき始め、日が山向こうへと沈んでいくところだった。
「みんな退け!退けー!」
華雄の合図で、味方が一斉に退却していく。連合軍もまた、夜が迫る中で深追いしようとして来る者はいなかった。


汜水関裏手まで戻ってきた華雄の額には、じっとりと汗が浮かんでいた。
「へへ…寄せ集めの野郎共と思ってたが、そうでもないってか」
あくまで笑みを崩さない華雄だったが、その顔には誰が見ても焦りの色が見て取れた。
連合軍は思いの外しぶとく、時にはぎょっとするほど練度の高い集団がいる。
武将によってまちまちではあろうが、連合側にもそれなりの器を持って指揮を執る者がいる、ということだ。

「華雄ーっ!!」
丁度その時、『董』の旗印を掲げた隊列が背後から駆けつけてきた。
それを先頭で率いる武将の顔を見て、華雄はほっと溜息をつく。
「李傕、待ちくたびれたぞコラァ!尻尾巻いて洛陽に逃げ帰ったかと思ったじゃねえか」
口調は乱暴だが、華雄は心底から李傕を歓迎した。
彼の戦力、そして用意してくれた兵糧があれば、再度連合を押し返すことも可能なはずだ。
しかしやってきた李傕に、いつもの自信満々な様子は見られない。
それどころか、酷くげっそりと疲れた顔をしていた。
「す、すまねえ…ほんとにすまねえ」
李傕は馬から降りるなり、華雄の前でがっくりと膝をついてしまった。
「あ?なんだよ」
「あ、当てが外れちまった…兵糧…全然用意できてねぇ」
「はぁ!?お前、一体何してたんだ!?」
当初は援護など期待していなかったことを棚に上げ、華雄は怒鳴り散らした。
李傕はひたすら縮こまり、何度も頭を下げる。
「ち、違うんだ!潁川は黄巾の乱でも荒らされてねぇって聞いてたからよ!これなら食料も兵も、女も狩り放題だと思ってたんだ!けどよぉ…」
そこまで早口でまくしたてたかと思うと、李傕は項垂れた。

戦の前に迂回してまでたどり着いた潁川には、人っ子一人いなかった。
田畑に収穫前の作物は残っていたが、屈強な兵の揃った董卓軍の胃袋を支えるには圧倒的に足りない。
備蓄の倉庫らしき場所にも、兵糧になりそうなものはわずかしか置かれていなかった。
挙句、雑兵として引っ張り出せそうな男手も、兵士たちの慰み者にできそうな女も、誰も潁川には残っていなかったのだ。

「その袋を寄越せ!それは俺のだ!」
「いいや、俺が食うんだ!」
はたと気づけば、あちらこちらで、兵糧を取り合う小競り合いの声がする。間違いなく兵糧は尽き始めていた。
「っ…まじいな」
李傕の用意した兵糧があれば、数日は持つと思っていた見積もりは変えざるを得ない。
せいぜい持って明日か、明後日。それまでに決着をつけねば。
だが、戦が始まってからずっと一進一退の攻防で、やや不利な形勢にもなりつつあるのだ。
頭の中に、たまに浮かんでは振り払っていた懸念が首をもたげ始める。

この戦、もしや負ける?

「…ええい、兵糧がちっと足りないくらいなんとでもならぁ!明日には勝つんだからな!みんな、明日こそ総攻撃だ!」
華雄が我武者羅に大声を張り上げた、その瞬間だった。

ズン、という激しい地響きが、汜水関を揺らした。
汜水関にいた董卓軍兵士たち全員が、響き渡った怪音に慌てふためく。
「ひぃいいっ!?」
李傕は弾かれたように立ち上がって、辺りを見回した。
「何だ何だ!?一体何が起きてる!?」
華雄は得物を担ぐと、汜水関の階段を駆け上がった。李傕もそれに続く。
最上階に辿りついてみれば、見張りとしてつけた兵士たちが、全員腰を抜かしている。
「か、華雄様!衝車です!奴ら、この暗がりに紛れて、衝車を門まで!」
「なっ…何ぃ!?」
まさか夜陰に乗じて、衝車を持ち出してくるとは。
慌てて、壁から崖下を覗き込もうとした、その瞬間だった。

ビュッと、空気が切り裂かれる音。
直後、ザシュッという鋭い音が、辺りに響いた。

「…か、ゆう!?」
李傕の顔面から、血の気が引く。
「がは…っ」
華雄の太い首を、一本の矢が真っ直ぐに貫いていた。






「お義父様、私はこれより虎牢関へ向かいます」
まだ星の見える夜明け前、貂蝉は王允の元へやってきていた。
その腰には、多節鞭が携えられている。
優雅な装飾が施されてはいるが、一振りで大の男を裂くほどの刃が仕込まれている特注品だ。
「そう、か…ついにか」
いよいよ、娘を戦場に送り出す時が来た。王允は深く頷く。
「大丈夫だとは思うが…虎牢関が抜かれるのは流石にまずいからな」
呂布という最強の武将がいる以上、いくら連合軍でも虎牢関を突破できるとは思えなかった。
しかし万が一虎牢関が攻略されれば、それは洛陽の陥落に等しい。
恐らく董卓は長安へと逃げ込み、誰も望んでいない遷都が達成されてしまう。
「はい。なんとしてもここで、戦を終わらせてみせます」
洛陽を戦乱に巻き込ませず、董卓が長安へ退く状況にしないためには、虎牢関死守こそ絶対条件。
この戦を鎮火させ、油断し切ったところで、必ずや董卓を討つ。
「お義父様もどうか」
頭を垂れた貂蝉の首元に、鬱血が見えた。
王允はそれにすぐ気づいたが、気遣うことはしなかった。
策のために娘の身を犠牲にしている分際で、そんな優しさを向けるなど許される訳がない。
「…ああ、董卓には上手く言っておく。任せておけ」
その時、扉の向こうから声がかかった。
『王允様』
「おお…戻ったか!」
王允が扉を開けると、伝令を命じた使用人がさっと跪いた。
「遅くなり、申し訳ありません。潁川の動向をある程度見届けてからと思いまして」
「して、潁川はどうだ?」
「太守の迅速な働きかけにより、民はすぐに避難の用意をしておりました」
その報告を聞いた貂蝉は、心の底から安堵した表情を見せた。
「よかった…!」
「うむ…」
王允も、ひとまず最低限の役目を果たせたことに胸をなで下ろす。
「無理を言い渡してすまなかったな。しばらく休め」
「はっ。恐れ入ります」
流石の鉄面皮も、土埃に煤けた顔には疲労が見て取れた。
主人の気遣いに頭を下げ、すぐに自室へと控える。
「では貂蝉。ついてきなさい」
王允は、裏手へと続く扉を開けた。

厩では、王允の持ち馬である芦毛が待っていた。かつて共に黄巾の乱を戦い抜いた駿馬である。
手綱を引かれて厩から出されると、嬉しそうに首を振った。
「赤兎馬、とまではいかぬがこやつもなかなかの脚だ。虎牢関にはすぐに着こう」
年を重ね毛並みは白くなっているが、まだ瞳は老いさらばえていない。
貂蝉が跨った瞬間、穏やかな目つきがきりりと引き締まる。
それを見て、王允は満足そうに尻を叩いた。
「お義父様…行って参ります」
貂蝉が手綱をひと叩きすると、芦毛はすぐさま全力で駆け出した。
空が明け行く東へ向かい、みるみる背中が遠ざかっていく。
王允は、見えなくなるまで貂蝉を見守り続けた。






傷ついた董卓軍が、続々と虎牢関まで逃げ帰ってきている。
一昨晩、這う這うの体で伝令が駆け込んできたが、この様子では言い分は本当らしい。
「汜水関が抜かれるとは。連合軍にも相当な手練れがいる様子」
張遼は、東の空に見える細い黒煙を見つめた。
三日ほど前から確認できるようになったが、よもや汜水関が落ちた証とまでは想像に及ばなかったのだ。
「フン、そうこなくてはな。ここまで出陣してきた意味がない」
少しずつ近づいてくる鬨の声に、呂布は口角を釣り上げた。
死んだ華雄には悪いが、汜水関を突破する程度の力がなければ、相手にする意味もないと思っていた。
華雄を打ち負かせるのであれば、それなりには楽しめそうだ。
傍らでは、赤兎馬が今か今かと鼻息を荒くし、耳をピンと立たせている。
「華雄殿が討ち取られたとあっては、我々も気を引き締めねばなりますまい。諸侯の寄せ集めと侮ってはならぬようですな」
冷静な張遼の言に、呂布は不服丸出しで睨みつけた。
「華雄と俺を一緒にするな。俺が雑魚に負ける筈ないだろう」
崖下が俄かに騒がしくなる。どうやら、連合軍の先発隊が到着したようだ。
呂布は即座に赤兎馬に跨った。主を乗せた赤い馬体に、一際血が巡る。
久方ぶりの戦を前に、呂布の目は爛々と輝いた。
「行くぞぉ!!」
勢いよく赤兎馬の腹を蹴り上げる。張遼もそれに続くように、鹿毛の手綱を叩いた。
「ご同道いたす!」
二人の猛将が続けざま、虎牢関最上階から飛び立った。


「りょ、りょ、りょ、呂布だぁーーーーーっ!!」
虎牢関目がけて走ってきていた先発隊の動きが、一斉に慄いて止まった。
朦々と上がる土煙を、方天画戟の一振りが引き裂く。
鬼神と畏れられる最強の武人の姿が、ついに連合軍の前に現れた。
「この呂奉先に挑む度胸のある奴はいるかぁっ!!」
野太い雄叫びが、周囲をつんざく。兵士たちはそれだけで震え上がった。
「う、うわぁあああああああっ!」
中には、集団心理に任せて挑みかかる部隊もいた。だが。
「雑魚め」
呂布の言葉に呼応するかのごとく、赤兎馬が激しく嘶く。
二、三度大地を蹴ったかと思った瞬間、怒涛の勢いで突進した。
「ぎゃあぁああ、っ――――――」
逃げ惑う者たちを相手に駆け回り、吹き飛ばし、蹴り殺していく。
これぞ馬中の赤兎と言わんばかりに、次々と先発部隊を蹂躙していった。
「ふん、どうした。もう終わりか!」
呂布は鼻で嗤いながら、追い打ちとばかりに得物を振り回す。
兵士たちの断末魔が、より一層折り重なってこだました。

「張文遠、推して参るっ!」
双鉞を振り回しながら、張遼も負けじと吼える。
呂布に優るとも劣らぬ武勇で以て、向かってくる連合軍を蹴散らしていった。
中央に呂布、右翼に張遼。左翼は断崖絶壁。抜け出せそうな場所はどこにもない。
「な、なんて堅牢なんだ…虎牢関」
華雄一人が脅威だった汜水関とは、訳が違うことを思い知らされる。
「さあ、どうした!その程度か連合軍!!」
何百の兵士を斬り殺しただろう。呂布の鎧は返り血で真っ赤に染まっていた。
無論、己の血は一滴も流していないどころか、かすり傷ひとつ負っていない。
掲げた方天画戟は太陽を浴び、もっと激しい戦いをと求めるように妖しく煌めいた。

「待たれよ!」
一際、威厳を伴う声が響いた。
今まで相手にしていた雑兵とは明らかに違う空気感に、呂布も目をやった。
動けなくなっている先発隊の間から、一人の武将が躍り出る。
「拙者、関雲長と申す者。いざ、お手合わせ願おう!」
立派に生え揃った髭を蓄え、澄んだ瞳を宿した堂々たる体躯。
その手に握られた偃月刀の切っ先は、真っ直ぐ呂布の喉元を差していた。
呂布は直感に打ち震え、にぃっと笑みを浮かべた。
「面白い。俺を失望させるなよ!」
赤兎馬から降り、戟を本気で構え直す。
関羽もまた、呂布から発せられる圧を受け、青龍偃月刀を握り締めた。
両者の間の空気がたちまち張り詰める。周囲の軍勢も、固唾を呑んで見守った。

「うおぉおおおおおおおおお!」
「はぁあああああああああっ!」
ほぼ同時に、二人は打ち掛かった。得物同士がぶつかり合い、火花が散る。
「ぐぅううう!」
「うぉおおおお!」
この自分とほぼ互角の体格、そして挑んでくる度胸のある武将がいたとは。
血沸き肉躍るこの死地の感覚。これぞ自分の求めていた戦である。
「うああああああああっ!」
僅かに、呂布の勢いが上回る。全力を以て戟を振り払い、関羽を弾き飛ばした。
「むぅっ!」
関羽もそう簡単に崩れない。上体をすぐさま立て直し、偃月刀を真一文字に振り抜く。
切っ先が、呂布の頬を僅かに掠めた。
「ふん…言うだけはある。そこそこやれるな」
頬から僅かに流れる血を拭おうともせず、呂布は笑い飛ばした。
今まで戦ってきた中でも、相当な実力だ。しかしまだ自分が優っていると感じ、余裕が生まれる。
「人中の呂布、なんという力よ…!」
流石の関羽も、呂布の持つ人智を超えた武力に驚きを隠せなかった。
並みの武将なら今の一振りで間違いなく首を落とされている。それをいとも容易く交わすとは。
「だが、退くわけにはゆかぬ!」
関羽は再び、呂布へと打ち掛かった。呂布も応戦する。
「ぐぅうううう…」
「ぬうううううっ」
二度、三度打ち合い、得物越しに睨み合った。

「お、おい!今が好機じゃねえか?」
あまりの迫力にたじろいでいた後続の兵士たちがざわめき始める。
今、呂布の目は関羽に集中している。今この隙に両脇を突けば、虎牢関は目の前だ。
それだけでなく、背後に回れば、もしかしたら。
「皆、行くぞ!」
兵長が合図を出すと、後続隊が二手に分かれた。関羽、呂布の間を一気にすり抜ける。
「小癪な!」
呂布は緩急をつけながら関羽を弾き飛ばし、戟ごと体を回転させた。
その刃に引っ掛かった兵士たちが次々切り裂かれるが、寸での所で何人かの兵士を討ち漏らす。
「よっしゃあ、このまま…ぎゃあっ!?」
上手く切り抜けたと思った兵士たちの背中から、血が噴き出た。
斃れた彼らの背後から現れた人物に、呂布は目を見張った。
「貂蝉…!」
惚れ抜いた舞姫が、厳しい面持ちでそこに立っていた。
その手には華やかだが、血に濡れた刃をむき出しにした多節鞭が握られている。
「なんと、女子が戦場に立とうとは」
関羽も、突然現れた美女の姿に驚いた。
しかし表情からは、並々ならぬ覚悟が窺える。戯れに来ているわけではなさそうだ。
「決して足手まといにはなりません。背後はお任せください。奉先様が思うままその武を振るえますよう!」
尚も貂蝉は、虎牢関へと抜け出ようとする兵士たちを振り払う。
その様は果てしなく優美で、宮殿で舞い踊る姿と変わらない。
呂布は暫し呆気にとられていたが、やがて薄く微笑んだ後、短く声を掛けた。
「…無理はするなよ!」






「ええい、貂蝉は一体どこに行ったのじゃ!」
後宮中を、苛立った様子で董卓が歩き回っていた。
昨晩たっぷりと可愛がってやったはずの貂蝉が、今日はどこを探してもいない。
与えている小部屋にも、側女たちが集う部屋にも姿が見えなかった。
「父親の所にでも見舞いに行っているか…?」
一応、彼女には洛陽市街への外出を許可している故、文句は言えない。
董卓は舌打ちをしながら、玉座の間へと戻ってきた。
「董卓殿っ!」
丁度そこへ、王允が息を切らして走ってきた。
「王允、何があった?」
「貂蝉が、呂布の部下に無理矢理連れていかれました…!」
その台詞を聞いた瞬間、董卓は全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
「…なぁにぃ!?!?」
激しい怒気を込めながら、王允に詰め寄る。
王允は董卓に縋りつき、救いを求める眼差しを見せた。
「呂布は前々から貂蝉に言い寄っていたのです。たまたま、あの子が私の機嫌伺いに来てくれたところを、呂布の部下たちが現れて連れ去ってしまいました。恐らくは、虎牢関にて自分の武を誇る様を見せつけたいのでしょう」
「ぐぬぬぬぬぬ…呂布の奴め…!!」
董卓の顔が怒りと憎しみで赤黒く染まった。
想定通りの反応に内心で嗤いながら、尚も王允は畳みかける。
「董卓殿の義理の息子とはいえ、これでは貂蝉があまりに不憫で…」
そこまで言いかけた時、背後から伝令兵の甲高い声が届いた。
「伝令ー!!伝令ー!!汜水関が落ちました!!」
「…ふん、華雄め。随分だらしないことだ」
伝令兵の焦った様子とは裏腹に、董卓は随分と冷静だった。
「王允。腹立たしくはあるが、呂布の近くにおるというなら貂蝉も無事じゃろう。呂布には長安まで戻ってきたときにでもきつい灸を据えてやる故、悪いが暫く耐えてくれ」
「…はっ?」
董卓の口から発せられた『長安』の二文字に、王允の顔色が青くなる。
「あ、あの、董卓殿…お、お待ちください、汜水関が抜かれたばかりでそのように急かずとも」
明らかに怪しい風向きを前に、王允は慌てて言葉を紡ぐ。
だが、それも虚しく董卓は邪悪な笑みを見せた。
「どうせ諸侯は虎牢関でたいそう足止めを食うであろうからな。今が好機よ」





寝台で体を縮こまらせながら、荀彧は今宵も眠れない夜を過ごしていた。
三日前に抱かれ、また数日責め苦が続くと思いきや、あれから董卓の訪いが途絶えている。
それはそれで不気味だった。いつ扉が開くかと、心は休まらなかった。
「っ!」
ついに、扉の鍵が外される音がした。迫り来る恐怖に身を硬くする。
だが、次いで開かれた扉から現れたのは、董卓ではなかった。
「えっ…!?」
想像と違った来訪者に、荀彧は戸惑いの声を上げる。
部屋に入ってきた者たちは、あっという間に寝台を取り囲んだ。

「荀彧殿、ですな」
宦官三人分の視線が、いやらしく荀彧を見下ろした。




2018/07/13

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