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曇天日和

どんてんびより

隷属の華【終】

「殿。畏れながら、申し上げたきことが」
「うむ。何だ」
「半月だけで構いません。暇を…いただくわけにはまいりませんか?」
荀彧がそう願い出たのは、年明け間もない寒風吹き荒ぶ日のことだった。


「…構わんが、一体どうした。どこぞ体の調子でも悪くしたか」
突然の申し出にも、曹操は決して動揺は見せない。少なくとも出奔ではないという確信はあった。
ただし、よほどの案件だろうとも感じた。荀彧がこれだけ真剣な顔つきで、暇を所望するということは。
真意を見定めるような曹操の視線を前にして、荀彧は襟を正した。
「いえ、決して私自身の不調などでは…ご心配おかけして申し訳ありません。実は」
「長安へ行かれるおつもりですね」
自らの口で言わんとした言葉が、背後から発せられた。
「……公達殿!?」
振り向きざま、荀彧は驚いてその名を呼ぶ。
表情の見えない顔のまま、ゆらりと近づいてくる姿があった。
「長安には…文若殿の叔父上や、俺の友が今も尚眠っております」
「ほう。荀彧の叔父、か…」
荀攸の説明に、曹操は暫し視線を宙へと投げる。記憶の糸を辿って、ひとつの名を挙げた。
「…もしや、あの当時司空であらせられた、荀爽殿か?」
「は、はい。仰せの通りにございます」
突然現れた荀攸への困惑はさておき、改めて荀彧は暇乞いの由を述べる。
「この機会に亡骸を引き取り、我が故郷にて改めて弔いたく思います。諸事、落ち着いた暁には…と考えておりました」
「…なるほどな」
曹操は得心した様子で顎鬚を撫でつけた。

戦に明け暮れ続けたこの数年。何度危機を迎えたかは知れないが、勢力圏は着実に拡大している。
そしてついに、洛陽より帝を迎え入れたことで、曹操陣営の立場はがらりと変化した。求められるものも。
昨秋から冬にかけては政に追われ、まさに激動の日々。この状況下において、荀彧も荀攸も期待以上に働いてくれている。今や曹操にとって、欠いてはならない人材だった。
献策、従軍、内政にと飛び回る最中、どんなに願ったところで長安は片手間に行ける場所ではない。加えて、目的が遺体の護送や葬礼となれば、首尾よく行える時期は限られる。
だからこそ、この機にやっとの思いで申し出てきたのであろうことは伝わった。

「俺も、文若殿と共に行かせていただいてもよろしいですか」
荀攸の目つきが、俄かに引き締まった様相を呈す。
「慈明殿と俺の友は…長安で無念の死を遂げました。いい加減、あの場所から解放してやりたい」
「……お主らの想い、よくわかった」
責務を着実に遂行してきた荀彧の、珍しくも切なる私心。日頃黙して語らぬ荀攸の、微かな熱を帯びた口振り。
二人にとって、悲願であることは容易に理解できた。主君として、ここでどう言葉をかけるべきかも。
「荷車と馬車を手配させよう。気をつけて行ってくるがよい」
「殿、っ……心より、感謝いたします」
「…ありがとうございます」
踵を返して去りゆく背に、二人は揃って礼を示した。



「公達殿…その、ありがとうございます」
並んで廊下を歩きながら、荀彧は荀攸を見やった。
正直なところ、驚いたのだ。あのような形で割り込んでくるなど。まして、共に長安行きを願い出るなど。
「共に来てくださること、とても嬉しく思います。ただ、無理に私に合わせてくださったのでしたら、申し訳なくて」
「いえ、頃合いだと思ったまでです。比較的落ち着いている今なら、文若殿が長安行きを申し出るかもしれないと」
淡々と返してきたその横顔は、やはり無表情だった。

曹操に正式に仕官した荀彧が真っ先に行ったのは、荀攸を軍師に推挙することだった。
襄陽に書簡を送ると、すぐに彼は馳せ参じてくれた。有難かったし、こんなにも早く再会できることが嬉しくて。
何より、やっと同じ主の許で、この国のために手を携えることができる。
それは、潁川にいた頃よりの宿願。かつてどんなに願っても叶うことなかった状況が、ようやく訪れたのだ。


『公達殿……!貴方が来てくださって、本当によかったです』
『曹操殿は、文若殿が見定めたお方ですから。俺が憂慮することなど何もありません』
『え……あの、公達殿…?』
『では、これよりよろしくお願いいたします』
『は、はい…』


ひとつ、引っ掛かっていることがある。荀攸の感情が以前にもまして乏しくなってしまったことだ。
昔から物静かな人ではあった。しかし、今は敢えて心を圧し殺しているようにも見える。
互いに洛陽で、そして長安で、絶望の淵を彷徨った。心境の変化があっても何ら不思議ではなく、口出しする権利などない。
それでも、心の内に寄り添うことのできない寂しさは、多少なりとも募ってしまう。

「荀彧!」
思いがけず、前方から名を呼ばれた。
「え……っ。陛下!?」
行く手の向こうに現れた姿に、荀彧と荀攸は驚いてしまう。
「っ、荀彧……」
背後に控えている董承が焦るのも構わず、帝は早足で近づいてきた。
間近に相対した目線は、もう大して高さが変わらない。ただ、壮麗な衣装に包まれた体は華奢に映った。
「暇をもらったというのは、本当か?曹操と何かあったのか…?」
子どもと大人の過渡期を象徴するような、不安定な震えた声で帝は問うた。
心細げに目を細める表情にも、まだ幼さが覗く。
「ご心配には及びません。半月ほど留守にするだけです」
「本当…か?本当、だろうな?」
荀攸の横からの口出しにも、まったく心休まらない様子で帝は念を押した。
ようやく許昌に腰を落ち着け、しかも荀彧が尚書令となったことを、心から喜んでいた矢先である。
また、目の前からいなくなってしまうのかと、不安でたまらなかった。
「陛下、どうか落ち着かれませっ。荀彧殿もお困りです」
董承は狼狽えながら、帝と荀彧を交互に眺めた。
苦しい歳月を、共に過ごした自負はある。王允の死を黙って呑み込み、董卓残党の横暴にも耐え抜く帝の姿に、何度頭の下がる思いがしたことか。
それ故か、こうして帝が取り乱す姿は、董承にとっては予想外の光景だった。ある意味年相応であり、これが本来の姿かもしれないとは思えど、今以て慣れない。

「陛下…ご心配いただき、ありがとうございます。ですが本当に、一時のことですので」
帝の心痛を受け止めながら、荀彧は努めて柔らかく微笑んだ。
「私と公達殿で、長安へ行ってまいります。暇をいただきましたのはそのためです」
「長、安……?」
耳に届いた言葉が、帝の瞳の揺れを止める。
二、三度と瞬いた後、やがて表情を曇らせながら俯いた。
「…すまぬ、そういうことであったか」
この厳冬期に、わざわざ長い暇を貰って長安へ向かう、その意味は。
いらぬ心配をしていたとついに納得した帝は、申し訳なさそうに頭を振った。
「半月もしたら、戻ってまいりますので…どうか、ご心配なさらずに」
「ああ…この寒さだ、気をつけるのだぞ」
「はい、陛下も……董承殿、どうかよろしくお頼み申し上げます」
「は、はいっ!」
名指しを受けた董承は、慌てて畏まった。
帝の傍らで厳しい時期を忍んできた経験は、彼を精悍なる武官にしていた。
あまりにも生真面目で四角四面な性格に、多少の危うさを感じる時はあったが。

「……そうだ。場所はわかるか?」
思い出したように帝が言った。
「二人とも、中庭の裏手にいる。向かって左が荀爽、右が何顒だ」
「あ……ありがとうございます、陛下」
驚いたものの、すぐに荀彧は感謝の想いを込めて拝礼した。荀攸も黙って、それに続いた。










「…ここ、ですね」
「ええ…」
目の前に、古びた盛り土が二山。
荀彧は小さく頷くと、背後に控えている兵たちへと振り向いた。
「この下にある棺を二つ、潁川まで運びます。よろしくお願いします」
「…かしこまりました」
代表して声を上げたのは、相変わらずの鉄面皮が印象的な顔。
かつて王允の手足として働いていた使用人は、伝令兵として正式に召し抱えられていた。今では荀彧、及び荀攸の策に欠かせぬ男となっている。
彼を筆頭にして、命を受けた兵たちはすぐに作業に取りかかった。盛り土を慎重に崩しては、その下を掘り起こしていく。
無駄口ひとつなく粛々と行われていく作業を、荀彧も、荀攸も、静かに見守った。

王允の策略により、強引なまでに追い立てられて。あの日以来となる長安の地。
「……っ」
作業を待つ間、荀攸は改めて周囲を見渡す。
董卓に命じられて足を踏み入れた長安は、古都とは思えぬ侘しい様相だった。
帝を迎える場だけでもと、宮殿だけは無理矢理に体裁を整えた覚えはある。されど。
あの時設えた土壁には皹が入り、堀の水は更に濁り、柱は煤け。たった数年で、ここまで荒廃するものなのか。
去来するのは、虚しさ。あの時に味わった辛苦など、すべてなかったことにされているようで。

やがて変色した棺が二つ、土中より顔を出す。
兵たちはより一層、細心の注意を払いながら鋤を動かし、土を取り除いた。
「叔父、上……」
目の前へと引き上げられた棺の前に、荀彧は膝を折った。
「お久しゅう、ございます」
その目にうっすらと涙を滲ませ、声を震わせながら頭を垂れる。
あの絶望と恥辱に塗れた夜は遠くなりつつ。しかし、決して記憶から消すことはできない。
一度は、底まで堕ちた。そのことへの恥は今も尚、胸に刺さったまま。それでも。

「…お待たせいたしました。何顒殿」
荀攸もまた、跪いて眼前の棺を見つめた。
彼はきっと、荀彧には笑いかけるだろう。よくぞ生き抜かれた、と。
そして、お前は何をしていたのだとどやすだろう。荀彧を救い、そして国を頼むと言ったのに、と。
自覚はしている。自分の方がよほど、荀彧に救われている。
最期に交わした約束など、自分は守れているとは言えない。それでも。

今この時、荀彧と荀攸の胸に去来する思いは同じだった。
今であれば、顔向けできると思った。だから、ここまで来た。
我ら二人、こうして確かに生きている。曹操という主にも巡り逢い、やっとこの乱世に生きる意味を得たと。

「荀彧様、荀攸様。失礼いたします」
年若い兵が、恐る恐る声をかけてきた。
「あの奥にもうひとつ、同じような…いや、小さな盛り土を見つけました」
兵が指し示したのは、荀爽と何顒が葬られていた場所の右手。
よく見ると、暗がりとなった隙間がある。
「実は、花が添えられていまして。もしかして、どなたか要人の方かと思ったのですが…」
「花…ですか?」
「……何故」
荀彧と荀攸は、顔を見合わせた。こんな寒い時期に、花とは。


「あ…!」
目の当たりにして、ようやく兵の言った『花』の意味が分かる。
この凍てつく空気の中、盛り土の傍らで咲く紅色のそれ。自然のものでは、なかった。
「これ、は」
花の中で、きらりと何かが輝いた。吸い寄せられるように、荀彧は歩を進める。
盛り土の前に膝をつき、その『花』を手に取った。
美しく染め抜かれた絹を花弁型に切り抜き、一枚一枚縫い合わせて作られた、それは見事な造花だった。
「っ………!」
その中心に、飾りとして縫いつけられた銀の煌めきを目にした瞬間、荀彧は口許を手で覆った。
それはかつて、囚われていた自分に寄り添い、支え続けてくれた人が身に着けていたもの。
借り受けた上に、二度も血に汚してしまったものだった。

「貂蝉、殿」

口にした瞬間、姿が、声が。一瞬にして蘇る。
「あ…あ……」
声にならない声のまま、荀彧は花を撫でた。絹の感触が伝わる。
さほど土埃も被ってもおらず、何より色鮮やかで。
この造花がごく新しいものであり、そして、直近で供えられたということを物語っていた。
すべてを悟る。この暗く狭い場所にひっそりとある盛り土が、誰のものなのか。
「貂蝉…殿……王允殿っ……」
花を胸に抱きながら、荀彧は名を呼んだ。この長安に頑として残り続けた父子の名を。

「やはり、お知り合いですか。掘り起こそうと思えばできますが…」
ただならぬ空気を感じ取った兵は、こそりと荀攸に申し出る。
「必要ありません」
そこに割って入ってきた姿があった。伝令兵の冷たい視線が、若い兵に注がれる。
「な、何で貴方が入ってくるんです?」
一介の伝令兵が何故と、若い兵は口を尖らせる。
荀攸はすぐさま、両者の肩を軽く叩いて引き離した。
「静かに。確かにあの方は…ここにいるべき方です」
「は、はぁ。荀攸様がそう仰るなら」
兵は素直な性分なのか、すぐに頷いた。逆に伝令兵は、己がしでかしたことの重さに気づいて頭を下げる。
「…出過ぎた真似をしました」
「いえ…気になさらず」
荀攸は首を振った。それきり何も言わず、再び盛り土を見つめる。
荀彧のすすり泣く声だけが、暫し辺りに響いた。










「…ここまで来ることができて、よかったです」
馬車の窓に、遠ざかっていく長安の街壁が映る。
目はまだ赤く染まっていたが、荀彧の表情は凪いでいた。
「ええ…」
隣に座る荀攸も、小さく頷いた。
あとはこのまま潁川へと向かい、荀爽と何顒を改めて葬送するのみだ。
「何顒殿には、申し訳ないことをしますが…」
何顒は南陽の出身だ。眠りにつく地を潁川にすることが、彼にとって幸せかどうかはわからない。
それでも、共に潁川まで連れ帰ることは初めから決めていた。今更、荀爽と引き離す気にはなれなかった。
「気になさらず。故郷の話をした時、ぜひ潁川でも酒を呷りたいと仰っていましたので」
故人の生前の言を思い返しながら、荀攸は言った。その上でぼそりと付け足す。
「…なんで王允殿だけ除け者だ、とは怒るかもしれませんが」
「……そうかも、しれませんね」
荀彧は、右手を軽く握った。
手の内に残るのは、さらりとした絹の花の感触。
瞼の裏に蘇るのは、国に殉じた男の侘しき墓標。

荀爽も何顒も、王允を恨むような人柄ではない。それでもきっと、王允は拒んだであろう。
皆を見殺しにした自分が、同じ場に眠るなど有り得ない、と。謀に生きた男の最期の場はあれでよいのだ、と。
何より、あの場所だからこそ足を運び、偲んでくれる存在がいるとわかった今、動かす道理はなかった。
「貂蝉殿…」
今思い出しても、身が竦む。叶うことならば消し去りたい、穢れ堕ちた過去。
あの囚われの日々の中にあって、その人は唯一の、優しい記憶だった。
可憐でしなやかに強かった、大輪にして孤高の華。決して己を見失わず、自分を沼底から救い上げてくれた人。
「本当に…よかった…」
長安の乱を伝えられた時。王允と共に死してしまったとばかり思っていた。
だが、彼女は、生きている。今日もどこかで、市井の民として。
数多の悲劇が生み出される乱世において、それはささやかな希望だった。
今はただ、心から願いたい。あの方の歩む道が、少しでも幸多きものであるよう―――。



「……文若殿?」
荀攸が気づいて声をかけた時、既に荀彧の瞼は閉じられていた。
馬車の緩やかな揺れは、ここまで張り詰めていた彼を誘うには十分だったらしい。
「失礼します…」
体を冷やさぬようにと、荀攸は上掛けを荀彧へと被せた。その刹那、俄かに馬車内が明るくなる。
はっとして、窓の外を見やった。雲間の切れ目より、満月が覗いていた。
柔らかな月光が、荀彧の輪郭を優しく包み込んでいく。
「……っ」
思わず見入ってしまい、手を伸ばしかけたところで、荀攸は頭を振った。
想いは、あの時に捨てたのだ。長安で一度別れた、あの時に。
「……すみません」
月は、容易く心を狂わせる。いつも彼を美しく照らし上げ、そして自分の感情を引きずり出そうとしてくる。
思えば、抱いてはならぬ想いを自覚したのも、あの夜。月明かりの中で微笑みを見た時だった。
あれからここに至るまで。なんと遠い道のりだったのだろう。
隷属と服従の日々に苦しみ抜いて、絶望の底に叩き落とされて。歩む筈もなかった、茨だらけの遠回りだった。
だが、ようやく。辿り着くべきところまでやってこれたと、実感できている。
荀彧は、尚書令となった。帝に誠心誠意を尽くし、主の曹操のため、日々政に励んでは策を講じる。
誰もが目を見張る今の活躍ぶりこそ、予見していた通りの姿。彼は本当に、国を支える人となったのだ。自分など及ぶべくもない人に。

「文若殿…俺は…っ」
届くことのない、届けてはいけない言葉を言いかけて、呑み込んだ。
許昌に来てもらえぬかと書簡が届いた時、覚悟した筈だ。今度こそ、軍師として無様な真似はしないと。
何顒の忠告、王允の生き様は、楔としてこの身に打ち込んである。謀に生きると決めた者に、余計な感情は無用。
「……支えます、貴方を」
もう二度と、触れてはならぬと。硬く拳を戒めた。

この想いを遂げることは許されない。ならばせめて、誓おう。
癒えぬ傷を抱え、それでも混迷の世に凛と立つ貴方を、俺は支えると。
己が才を尽くし、貴方と共に歩を進めると。

貴方が、眩しく気高き華として、輝き続けられるよう。




2019/03/30 完結

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