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曇天日和

どんてんびより

隷属の華【廿】

玉座の間に、血塗れた兵士たちが一斉に跪いた。
「陛下!このたびはお待たせして申し訳ありません!」
李傕、そして郭汜は下品な笑みを浮かべながら、一歩進み出る。
「それ以上近づくなっ!穢れた姿を堂々と晒すなどっ…不敬である!」
そう撥ねつける董承の声こそ、威勢はよかった。しかしその額には脂汗が滲んでいる。
今しがた見せつけられた、王允の首が。最期の苦悶の表情が、目に焼きついてしまって離れない。
帝を守れるのは自分のみ。その使命感だけで身を奮い立たせていた。
「へへ、こりゃご無礼を…出直してまいります」
「今後は我らが、逆賊より陛下をお守りいたします!ご安心なさいませ!」
景気よく宣言して立ち上がり、董卓残党たちは踵を返した。
「…失礼いたします」
首桶を抱えた若い青年が、最後に礼をする。その顔に勝ち誇った笑みが浮かんでいた。

多くの血を啜った玉座の間には、いくら清めても拭い去れない死の気配が漂う。
帝と董承だけが、そこに残された。
「陛下……」
死した王允の首を見たばかりだというのに。帝は顔色一つ変えなかった。
「こうなることは知っていた」
「な……っ!?」
思いがけない言葉に、董承もまた、過日の王允を思い出した。
もしものことがあれば自分に陛下を託すと言い放った、冷たい視線を。
そして帝もまた、すべてを承知であったという事実に震える。
「朕は王允と約束した。その時まで待つ、と」
告げる声も、表情からも。子どもらしい面影は消え去っていた。








「陰修様、せめて薬湯だけでも…」
「かまわぬ。お主が飲みなさい」
荀彧の差し出した薬湯を、陰修は笑顔で突き返した。
頑なに医師を拒み、薬湯すらこの有り様だ。
ならば、せめてもと荀彧はつきっきりでいる。語り相手くらいしか務められなかったが。
「今生の最期に、お主といられる…それが何よりも嬉しいのだ」
「滅多なことを仰らないでください」
瞳を揺らしながら、荀彧は陰修の骨ばった手を取った。
荀彧とて、身に沁みて感じている。陰修の余命が幾許もないこと、最早奇跡など起こらぬということを。

「荀攸様から書簡です」
急にかけられた使用人の声と、その用件に驚かされる。
「公達殿から、ですか?」
本来なら喜ばしいことだ。しかし、想像よりも早い。
互いに長安を発って十日余りになるが、荀攸は山越えが必須。まだ益州入り間もないと思っていた。
直ちに書簡を作ったとして、蜀郡からこの鄴まで届くには、もう少し日数が必要な筈だが。
「これは確かに…公達殿の御手ですね…」
渡された書簡の筆跡は、無駄のない硬質な、見覚えあるもの。
間違いなく荀攸からの書簡であると確認した上で、おもむろに開いた。
「……どうした?」
次第に青く様変わりしていく顔色に、陰修は怪訝そうな声をかけた。
記されていた内容を、荀彧は信じられない心地で口にする。
「益州へ行く道筋が、すべて遮断されているそうです。それで公達殿は、襄陽に留まって様子を伺う…と」
「益州が…?一体、何があった…」
「わかりません…ですが…」
荀攸が、よからぬことに巻き込まれでもしたら。そう考えると気が気ではなくなる。

「…?」
ふいに屋敷の入口から、足音が聞こえてきた。それも、一人だけではない。
使用人はすかさず奥座敷の扉を開く。
「邪魔するぞ、陰修殿」
「袁紹殿…!?」
突然現れた袁紹の姿に、陰修も荀彧も当惑してしまう。
背後には見目麗しい長身の武将が、豪奢な包みを抱えて控えていた。
「今日はお前に用があってな……張郃」
袁紹は荀彧を一瞥した後、背後の将へと視線を送った。
張郃と呼ばれた将は、一礼して荀彧の前へ進み出る。
「お初にお目にかかります。私は、張儁乂と申します」
典雅な物腰で畏まりながら、張郃は包みを差し出した。ゆっくりと包みの結び目が解かれる。
「こちらは…一体」
目の前に現れたのは、鮮やかな黄と、差し色の純白が映える布地。
日光の照り返しで薄く光る様は、一目でそれが最高級の絹であると悟らせる。
戸惑う荀彧へ、袁紹は満面の笑みを向けながら説明した。
「お前の装束だ。我が家臣として相応しいものを用意したぞ」
「このように、煌びやかな……私には分不相応では」
荀彧はそう申し出たが、袁紹は渋い顔をした。
「いつまでもその地味な格好でいてもらっては、示しがつかん」
「…ですがこれは、その」
言い淀む荀彧に対し、張郃が微笑みかける。
「ええ。荀彧殿の装束は、良質な綿製ですね。毅然とした精神が滲み出る、趣味よき仕立てとお見受けします」
「は、はい。ありがとうございます」
「…だが、やはり色味が気になるのだ。若いお前にはもっと相応しい身なりがあろう」
質素倹約を是としつつ、荀家の名に恥じぬ誇りを持った、荀爽の気質そのものの装束。
しかし華美な装飾を省いた紺色のそれは、袁紹の目にはどうしても薄暗く映った。
「一度、主たる者たちにお前を紹介したい。看病に忙しいところすまんが、明日はそれを着て登城してくれ」
「……かしこまり、ました」
硬い表情を崩せぬまま、装束を受け取る。絹の重みが腕に圧しかかった。





翌日、荀彧は賜った装束に身を包み、鄴の城へと入った。
「……っ?」
即座に妙な空気を感じ取る。すれ違う文官も武官も、どこか慌ただしい。
「ああ、荀彧殿」
聞き覚えのある声に振り返ると、張郃が駆け寄ってきた。
昨日相対した優美な物腰はそのままだが、心なしか落ち着かない様子に見える。
「何か、火急の事態でございますか?」
荀彧の問いに、張郃は神妙な面持ちになって答えた。
「今朝方、凶報が届きました。長安で反乱が起きたそうです」
「え……なっ!?」
「どうやら首謀は、董卓の残党のようですよ。そして残念ながら…司徒の王允殿が殺された、とのこと」
「王…允……どのっ………!?」
何を、言われているのか。わかる筈なのに、頭が理解しようとしてくれない。
立ち竦んでしまった荀彧を、張郃はいたたまれない思いで見つめた。
「無理もありません…知人の訃報とは遣る瀬なきもの」
たった十数日前まで共にいたであろう間柄。その明暗に、思わず言葉を続ける。
「しかし…こう言っては何ですが、貴方は幸いでしたね。乱に間一髪、巻き込まれずに済みました」

間一髪。巻き込まれずに。

「………あ、っ!」
雷のような衝撃が荀彧を貫く。
何故、こんな簡単なこともわからなかった。やっとすべてを、今にして理解できようとは。

「おのれ董卓め…死して尚もまだ影響力を持つか!」
丁度、袁紹が臣下を引き連れやってくるのが見えた。
仔細を訊ねようと、荀彧は駆け寄る。
「袁紹殿!陛下は…帝の御身はどうなったか、ご存じでいらっしゃいますか?」
「今のところ、郭汜らの手で保護されているようだ」
「でしたら、この上は陛下を…」
帝の救援を願い出ようとした声を、伝令の足音と叫びが遮った。
「袁紹様っ!たった今報告がありました。西の村で、黒山衆が夜毎田畑を荒らしていると…!」
「なにぃ、こんな時にか!?」
「公孫瓉との衝突を嗅ぎつけての揺さぶりかと…」
「おんのれ……相も変わらず厄介な集団よ」
田豊の呟きに頭を抱え、袁紹はその場を去らんとする。
「袁紹殿、お待ちください」
「黙れ新参者!」
「出仕すら今日初めての分際で、袁紹様に意見するか!?」
追い縋ろうとした荀彧の前に、文醜と顔良が立ち塞がった。
「っ……あ」
あまりの剣幕に押し戻された荀彧の肩を、張郃が受け止める。
「今の袁家は東に公孫瓉、西に黒山衆を抱えていまして。下手に鄴を空ければ、民を危険に晒すことになりかねません」
「それは……申し訳ありません、事情も知らず」
名族袁家とはいえ、この地の支配体制は盤石ではないらしい。ならば張郃の意見は尤もだ。
されども、このまま帝を放っておくのは、あまりにも。
しかし荀彧の思いは汲み取られることなく、侃々諤々のやり取りが続けられる。
「郭汜も李傕も、董卓のやり方を踏襲するつもりでしょう。陛下の御身は保証されるのでは?」
「まずは公孫瓉を完膚なきまでに下すのが先でしょうや!」
「うぅむ…」
「しかし黒山衆はいかがします。許昌にいる曹操にでも協力を仰いでみますか?」
「………えっ」
ふと話題の中に上がった名前が、荀彧の耳を揺さぶる。
「ええい、いっぺんに喋るな!言っておくが奴に借りは作らぬぞ。これは袁本初、河北統一のための試練…!しかし、どうしたものか…!」
苛立ちを隠すこともなく、袁紹は臣下と共に奥の間へと向かう。
その背を引き止めねばという意志は、荀彧から消えていた。









ドス、ドス、と鈍い音が部屋に響く。
荀攸は無言のまま、拳を床に打ち続けた。
表情は変わらず。しかし心の内では、整理し切れぬ怒りと哀しみがこみ上がる。


『俺…漢中から出稼ぎに行ったばかりで…そうしたら、突然、武装した集団が…長安の街に入り込んできて…』
『それで、その集団は長安で何を!?』
聞き捨てならない話を前に、飛び出さずにいられなかった。
突然駆け寄ってきた荀攸を見て商人は怯んだが、どうにか話そうとする。
『え、えっと…馬に乗った一団がまっすぐ、宮殿に行くのは見えたんです…』
『それで、他には何か。その集団の特徴は』
『…あいつら【董卓様の仇ぃ!!】って…叫んで、ました』
決定的な証言だった。
『他には!?』
『す、すみません…すみませんっ、あとは…俺は逃げるのに、精一杯で…!』
商人は泣きながら首を振った。
相当剣呑に見えたらしく、見かねた宿舎の主に肩を叩かれる。
『荀攸さん、あんまり無理に聞き出しちゃ可哀想だよ。そっとしたげてくれ』
『っ…失礼、しました』


あの後医師が駆けつけ、商人とはそれきりになった。あれ以上の確たる話は聞き出せなかっただろう。
少なくとも、王允の意図を理解するには十分な内容だった。
「貴方という方は……っ」
長安に乗り込んだのは董卓軍残党。目的は当然、長安と帝の奪還だ。
しかし数える程度の武官と文官だけで、残党とはいえ軍事力で鳴らした董卓の配下に勝てる道理がない。
敗北は明らか。そして真っ先に殺戮対象となるのは、今最も帝に近しい司徒、王允。
予見できていたのだ。だからああまで頑なに、自分たちを長安から追い出した。己の命だけで事を済ませるために。

「………ふっ」
口の端が勝手に歪む。何ひとつ、愉快ではないが。
仲間の預かり知らぬ所で謀に手を染め、そして最後まで誰の手も取らず、彼は逝った。
すべてを腹の内に収め、味方を欺き通すことも、命を差し出すことも厭わぬ。
「策士だ、貴方は」
策謀に生きるとはこういうことだと。今更、教えられた気がした。









「あ……っ」
屋敷に戻った荀彧の目に、窓の外を眺める使用人が飛び込んできた。
声をかけようとして、はたと思い止まる。
「…見苦しいものをお見せしました」
こちらを振り向いたその顔は、いつもと同じ鉄面皮だった。頬に一筋、濡れた跡が残っていること以外。
「こちらこそ……失礼、いたしました」
思わず荀彧は、目を反らしながら詫びた。
感情を乱さぬよう努めている男でも、深い喪失の嘆きから逃れられぬ。それが、一層の実感を以て荀彧に訴えてくる。
王允もまた、帰らぬ人となったこと。それが疑いなく事実であること。そして。
「貂蝉殿も、貴方も……こうなることを承知の上だったのですね」
「はい」
短く告げられた言葉に、荀彧は顔を覆った。すべて、王允の思い描いた通りなのだ。
「郭汜を取り逃がした時点で覚悟されていたようです。その後すぐ、冀州へ向かうよう命を受けました。潁川の民及び陰修様の避難先であろうから渡りをつけよと」
「そして…長安から、私たちを引き離すために…」
「お二人を乱に巻き込ませない、それが我が主の贖罪。更にはいずれ帝を…この国をお救いするためにございます」
使用人の口はいつになく饒舌だ。主亡き今こそ、すべてを語らねばという使命感が窺えた。
「王允様は、董卓残党が帝の御命を奪わぬことも見通していました。ならば脆弱な寡兵で下手に抵抗するより、外に有能な者を放つ方が後々のため、とお考えになられたのです。荀彧様や荀攸様が…歳月を重ねた暁には、この国を支え得る方となり、再び陛下の許へ参じてくださると期待して」
「では、公達殿の蜀郡行きも、私が袁紹殿の許へ行くよう計らったのも……そこで力を蓄えよ、と?」
「…益州だけは誤算でした。山深い地ならではの資源や人を当て込んで、荀攸様を遣わした筈ですが」
「そこまで、お考えの上で…」
幾重にも巡らされていた深謀に、頭の下がる思いがした。
「貂蝉、殿」
今ならば、彼女の言葉を理解できる。
王允に私心などあろうか。国のために命すらも擲った、彼こそ忠臣。
死しかない道を行こうとする父を、娘として見捨てられる筈がなかっただろう。
「貂蝉殿は…お父上の覚悟を…共にすると、決意されていたのですね」
「仰る通りに、ございます」
使用人の声がたった一瞬、悲嘆に歪んだ。


『ガハァッ!』
「っ……陰修様っ!」
激しい咳の音が、感傷から現実へ引き戻す。血相を変えて荀彧は奥座敷へ向かった。
「陰修さ…まっ…」
そこで待っていたのは、寝台の上で血を滴らせている陰修。
駆け寄って間近に見たその顔に、最早どうにもならぬ死相が見えていた。
「ふふ…やっと、時が来たな…」
陰修に微笑みが浮ぶ。穏やかで、そして、言いようのない圧があった。

「荀彧…私を、使いなさい」

「え…っ?」
突如放たれた言葉を、咄嗟に解することはできなかった。
「私を棺に納めて、潁川まで戻れ。潁川に骨を埋めるのが私の願いと言えば…あのお方のことだ、何も言うまい……そこから、真に仕えるべき主の下へと向かいなさい」
「何を…仰せです…?」
袁紹の許を離れよ。そのために死を利用しろ。
それが『使え』という言葉の真意だと悟った瞬間、声が上擦った。
「袁紹殿…潁川を救っていただいた恩はある……だが、この乱世において、あのお方は甘過ぎる。家名に拘るやり口、決断力の乏しさは…いつか、命取りとなろうよ」
「陰修様、何故…?」
まるで、今日の城でのやり取りを見てきたかのような口ぶりだ。
正直なところ、袁紹に抱いた感想は荀彧も同じようなものだった。
名族としての威は、確かに備えている。しかし、体裁を第一とする言動は時折引っ掛かった。
加えて、臣下の言を聞き入れるも、決断に踏み切れない今日の態度には、不安しか覚えない。
「あのお方は…反董卓連合の盟主であった。が…長安まで攻め上るのを断念されたのだ。どうも、兵糧の確保が上手くいかなかったようでな……」
「そう、でしたか……」
囚われていた身では知ること叶わなかった戦の経緯。
袁紹たち諸侯の決起は聞かされていた。しかしその存在を実感する機会は、確かになく。
結局、どこで戦が起きていたのかを意識する暇はなかった。
「だが…あの時、短期決戦と定め、て……進軍して、いたら、ば……お主も、早く楽になれていた、やも……私は、それが、口惜しい……っ」
陰修の手が、荀彧の手へと重ねられる。人の温もりはなかった。
「お主が仕えるべきは…恐らく、ここでは……ここで、また、才を……散らす、こと…断じて……」
「っ…陰修様…?陰修、さまっ!」
言葉が途切れ、瞼が閉じられる。何度呼びかけても返事はなかった。





使用人によって清められた死に顔は、眠っているだけのようにも見えた。
物言わぬ陰修の傍らに寄り添いながら、荀彧は思いに耽る。
「陰修様…私、は……」
陰修は、このまま袁紹の許にいることを望んでいない。だからこそ延命を避け、死して自身を口実にしようとしたのだ。
そして荀彧も、袁紹に主の器は見出だせずにいる。この先、帝を戴きながら支え、世を治めるだけの資質があるようには見えなかった。
ならば、一体何処へ向かうべきなのか。

「―――曹操、殿」

昼間、城内でのやり取りでたった一瞬出てきた名。
恥辱と絶望の日々によって、記憶の片隅に追いやられてはいた。されど、ひとたび思い出せば、強烈なまでに蘇る。
暗闇より突如として姿を現した、逃亡者と呼ぶにはあまりにも堂々たるその姿。
思い返せば、いち早く董卓の危険性を見越し、たった一人で暗殺という手段に出たのだ。並の勇気と胆力で実行できることではない。
董卓の冷酷な威圧とも、袁紹の名族を背負う威信とも違う。あの方自身が持ち得る、独特の威風というべきか。

そもそも、何故あの時自分は、あの方を救おうとした。
状況としては紛うことなき罪人だった。それにも拘らず、必死になった。
直感としか言いようがないのだ。あの場で董卓の前に差し出してはならぬと、心が叫んだ。

もしも、誰かの下に立ち。乱れたこの世を治めんとするならば。
己の直感を、信じてもよいならば。



数刻の後、奥座敷から出てきた荀彧の前に使用人は無言で跪いた。
荀彧も頷きつつ、真新しい書簡を差し出す。
「こちらを…さるお方に届けてほしいのです」
「かしこまりました」
「そして、鄴まで戻る必要はありません……私の到着をお待ち下さい、許昌にて」
瞳は赤く滲んでいたが、新たな決意にも満ちていた。










「陰修様……どうか、安らかに…」
盛り土を前に、荀彧は一心に祈りを捧げる。
戦乱により荒れ果てた潁川は今尚、どこも寂寞たる光景が続いていた。
両親や親族に守り育てられ、荀攸と共に語らい、陰修に付き従った、青き時代。
その面影は、悲しいまでに消されている。


『陰修殿が!?それは…無念な……!』
『最後は潁川にて眠りにつきたいと、再三口にしておりました。その願いを叶えるのが、主簿だった私の…最後の報恩と思っております。どうか、お聞き届けを…』
『う、うぅむ…そういう事情ならば……仕方あるまい、暇を取らそう』
『…感謝いたします』


訃報を告げた際の、袁紹の大仰な態度が思い出される。
陰修の読みは当たった。太守まで務め上げた者の遺言を無下にはすまい、という。
あの鷹揚さや威の見せ方にこそ、陰修は潁川ごと頼ったのだろうし、一方で、先行きに失望もしたのだろう。
人を推挙する役目を長年果たしてきたが故の、手厳しい判断だ。

王允、そして陰修。彼らの犠牲を以て委ねられたものが、この背にはある。
ついにここまで、戻ってきた。今こそ立つべき時。

「そろそろ冀州に戻りませんか?」
馬車を操ってきた馭者や、袁家付きの従者たちの声がかかる。
荀彧は振り返らず立ち上がり、近くで待っていた鹿毛に飛び乗った。
「申し訳ありません…袁紹殿の許には戻りません」
「えっ!?」
「失礼!」
鹿毛の腹を蹴って駆け出す。騒ぎ声を背に、荀彧は鹿毛を走らせた。
ここから許昌までは一日とかからない。追いつかれて、連れ戻されるわけにはいかない。
必死で、慣れない馬を動かし続けた。





目指していた場所が、ついに目視できた。街壁の近くには見知った男の姿もある。
「荀彧様!」
使用人の呼ぶ声が聞こえた。
内心ほっとしながら、これが最後と手綱を振り絞った。

「っは……お待たせ、しました…」
鹿毛から降り、呼吸を整えつつ使用人に頭を下げる。
次いで、その隣にいる屈強な出で立ちの武将にも、礼を捧げた。
「…お初にお目にかかります。荀文若と申します」
「こちらは、夏侯惇様……曹操様第一の配下であらせられます」
使用人の紹介と共に、夏侯惇は軽く会釈した。
「いつぞやは孟徳が世話になったらしいな。感謝するぞ」
「っ…畏れ多いことでございます」
かつての洛陽の件を言われていると思い至り、恐縮する。
出会い頭にそのことで礼をされるとは、ついぞ思っていなかった。
「孟徳が待ちかねている。こっちだ」
「はい」
夏侯惇に従い、荀彧は許昌の街へと入った。



「久しぶりだな、荀彧」
招かれた簡素な城の奥に、懐かしい人物が立っていた。
「曹操、殿」
その名を口にし。そして目で姿を追うたび、背筋が震える。
決して大柄ではないのに、圧倒される風格。将兵らを束ね、上に立つ者の姿がそこにあった。
「書簡が届いたときは驚いたぞ。まさか、お主の方から来てくれるとはな」
「いえ…こちらこそ。快くお招きくださり、誠にありがとうございます」
再び相見えた喜びに跪こうとしたが、それを制された。
「すまぬ。早速だが見せたいものがあるのだ」
「は、はい…?」
言われるまま、荀彧は曹操の背を追った。


「あ………!」
部屋に足を踏み入れた瞬間、全身が戦慄いた。
壁を埋めるように設えられた棚。そこに収められた書物、書簡、竹簡の数々。
声にならなかった。夢幻かと思い、手を伸ばす。土や埃と一緒に、確かな紙の感触が指を伝った。
亡き叔父、荀爽の声が、姿が。共に無心で地下へと書を運び続けた洛陽の夜が、過っていく。
「お主が炎から守り通した、国の宝だ。すまんな、勝手ではあるがわしの手で一旦預からせてもらっている」
そう前置きして、曹操は荀彧へと向き直った。
「荀彧。今こそ礼を言う。あの時お主がこれらの中に放り込んでくれなければ、今のわしはここにおらぬ。そしてこれらもすべて焼け落ちていたであろう。見事よ」
「曹操、殿……っ」
あの洛陽において、何も成せずに堕ちたのみだと、己を責め続けてきて。
初めて、救われた心地がした。こんな自分にも、成せたことが一握りでもあった、と。
「っ……う…」
溢れるものを抑え切れず、荀彧は俯いた。その肩に、曹操の手が置かれる。
「この命はお主に救われたもの。お主こそ、我が子房と呼ぶに相応しい。これよりは、わしと共に参れ」
はっとして、荀彧は顔を上げた。
万感の思いが籠った、真摯な眼差しに射止められる。
「陛下の苦境についても聞き及んでいる。いずれお力となれるよう、まずは迅速に我が陣営の地盤を固めたい。力を貸してくれるな?」
「……っ、かしこまりました」

嗚呼。ようやく、逢えた。
我が主と仰ぎ見るべき、英雄の器に。

「荀文若……才の限りを曹操殿に尽くすと、お誓い申し上げます」
心からの忠誠を以て、跪く。
もう、涙はなかった。切れ長の清廉な瞳が、ついに凛とした輝きを帯びる。
それを頼もしく見つめながら、曹操は切り出した。
「うむ。それと…お主故に、頼みたいことがあってな」
「はい…それは一体…」
「お主は潁川の名門、荀家の名士。他にもこれは、という者の当てがあるようであれば、是非聞かせてくれ」
その申し出に、即座に一人、顔が思い浮かぶ。
今も襄陽で、有り余る才を燻らせるに留まっている人の。
「わしの周りには聞き分けこそいいが、厳つい武辺者が多くてな。まずは何よりも、人が必要なのだ」
「…承知いたしました。責任を以て、才ある方をお呼びいたします」
涼やかな微笑みを湛えながら、荀彧は供手した。




2019/03/02

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