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曇天日和

どんてんびより

隷属の華【十九】

黄河を渡り、馬に揺られ。東へ、更に東へ。長安を後にしてから五日が経っていた。
「…ここまでといたしましょう」
背後を照らす西日の位置を確認し、使用人は鹿毛の脚を止めた。
横へと回り、馬上の荀彧へと手を差し伸べる。
「はい」
荀彧はその手を取って、ゆっくりと鞍から降りた。

案内されたのは、小さく浅い洞穴だった。とはいえ大人二人は余裕で入ることができる。
「申し訳ありません、いつも…」
手際よく筵で寝床を設える使用人に、荀彧は詫びた。この道中、彼には助けられてばかりだ。
黒山衆と呼ばれる賊徒の影に、緊張を強いられた場面も幾度かある。しかし使用人は臆すことなく、茂みや山肌へと荀彧を導いて危機をやり過ごした。
体調への気遣いも細やかだった。野草や薬草にも詳しく、そのおかげで荀彧は旅の間も薬湯を飲み、消化の良い食事をとることができている。
「王允様の命にございます故」
眉一つ動かさず、使用人は短く答えた。それが当たり前だと云わんばかりに。
その上で、更に一言付け加える。
「…荀攸様とも約定を交わしました。貴方様を無傷で、と」
「あ……は、い」
別れの光景が、事あるごとに瞼の裏にちらつく。
慈しむように頬を取られた時の、強い瞳。手の温もり。あっという間に遠くなりゆく背中。
今頃どうしているだろう。益州の山岳地帯を前にして、無理をしていないだろうか。
人の心配をしている場合ではないとはいえ、彼の消息は常に気がかりだった。
「鄴に辿り着いてしまえば、書簡の類も書けましょう」
荀彧の心痛を推し量ったように、使用人は告げた。
「あと半日の辛抱です。ここを抜ければ、袁紹様の庇護を受けている村に辿り着きます」
「そう、なのですね…」
未だに油断ならない状況であるのは確か。それでも、この旅路にも確実に終わりが見えている。
そのことを明言され、少しだけ肩の力が抜けた心地がした。





日が昇り、更に東を目指して進む。
幸いにして賊にも獣にも遭遇することなく、穏やかな道が続いた。
やがて前方に集落の形が見え始め、人影が行き来している様子も見えてきた。
ついに、人の住む場所まで来ることができたのだ。そう感慨に耽った直後。

『見ろ!お越しになったぞ!』
集落の向こうから歓声が上がった。それと同時に、何人もの足音が聞こえてくる。
「え…っ」
荀彧たち二人の前に、鎧姿の兵士たちが集結した。
その中から一人、兵長と思しき男が、前へと進み出る。
「荀彧様とお見受けいたします。長安からの長旅、本当にご苦労でした!」
「あの、貴方たちは」
「私どもは袁紹様の配下にございます!我ら一同、荀彧様のご到着をお待ち申し上げておりました」
「私を…ですか?」
まさか、村の手前で物々しく歓待されるとは露ほども思わなかった。
面食らっている荀彧をちらりと見つつ、使用人が口を出す。
「荀彧様はお疲れでございます。ご配慮のほどを」
「勿論ですとも。では荀彧様、ここからはこちらにお乗りください!我が殿の許までご案内いたします」
兵士たちの後ろから馬車が一台到着する。帝の馬車ほどではないが、豪華な造りだ。
「そんな、このような…」
「ああ、申し訳ない!質素なものしか用意できず、すみませぬ」
荀彧の視線を勝手に解釈した兵長が、大仰に謝った。
「違います、むしろ私には過ぎたる…」
馬上で戸惑ったまま動けぬ荀彧に、使用人はいつものように手を差し伸べる。
「ここは遠慮なさらずに」
「……は、はい」
とりあえず荀彧は鹿毛から降りた。そこへ、待ってましたと云わんばかりに兵長が近づく。
「ささ、どうぞこちらに!」
半ば強引な形で促され、荀彧は馬車へと乗り込んだ。すぐに出発の合図がかかる。

「あ……」
窓の外では、村人たちが地に頭を擦りつけんばかりにして畏まっている。
申し訳なくて、情けなかった。このような特別な待遇で出迎えられる謂れなどないのに。
しかも配下たちがこぞって迎えに来たということは、差し向けたのは袁紹本人ということだ。一体、何故。
(これも、王允殿が…?)
思わず、馬車の真横に付き従う男へ視線を送る。
道中一度として変わらぬ表情のまま、黙って鹿毛を引く姿があった。





「これは…」
喪われた洛陽の宮殿にも似た煌びやかさに、目が眩みそうになる。
布、金属、装飾に至るまで、間違いなくすべてが一級品だ。虚飾ではない。
これが、名族と謳われる袁家の力なのか。
招き入れられた鄴の城の中を、茫然とした心地で荀彧は歩いた。

「おお、荀彧!首を長くして待っておったぞ!」
奥の間で出迎えたのは、華やかな衣装に身を包んだ君主。
洛陽で何度か見かけた懐かしい姿でもあった。
「私が袁家の長、袁本初である。長旅ご苦労であった」
「荀文若にございます。このたびは何も持たざる私を受け入れていただき、心より御礼申し上げます」
「荀家の者とあらば、諸手を挙げて歓迎だ。ぜひとも、お前を我が陣営に迎え入れたい」
袁家には既に、荀一族の者が何人も出仕している。此度、また優秀そうな若者を迎えられると内心期待していたのだ。
目の前に跪く流麗な物腰は、その期待を見事上回っていた。これぞ、名族の配下に相応しい、と。
「しかし……まずは長旅の疲れと、それに体を癒すことが肝要だろうな」
「えっ?」
旅の疲労はともかくとして、体のことまで指摘してくるのは何故なのか。
まさか、この身に未だ残る傷の経緯を、知られているのだろうか。
一体、王允はどこまで話しているのだろう。何と説明して、自分をこの鄴へと送り出したのだろう。
気を揉む荀彧をよそに、袁紹は竹簡で読んだ内容を口にした。
「王允殿から話は聞いているぞ。長安にいた折、心労が祟って大病を患ったそうだな。だから車で迎えにやったのよ」
「あ…っ」
驚く荀彧に、尚も袁紹は言葉を続ける。
「大方、董卓にこき使われていたのだろう。洛陽から長安まで連れ回されて災難であったな」
「………!!」
その名前が出た瞬間、臓物を握り潰されたような心地がした。
つい、右手が装束の首元を押さえつけてしまう。
明らかに顔色を悪くした荀彧を見て、やはり自分の見立て通りかと袁紹は頷いた。
「とにかく、しばらくは休め。お前にはやってもらいたいことが山ほどあるが、いきなり倒れられても困るからな」
「は、はい……お心遣い、感謝いたします…」
微かに声を震わせながら、荀彧は拱手の礼をした。
やはり、この歓待は王允の思惑によるもの。思いつく限りの負担を軽減させようという意図を感じた。
「そうだ、少し辛い知らせになるが丁度よかろう」
袁紹は思い出したように、荀彧にとって一番重要な事実を告げる。
「陰修殿も、ここのところ容態が優れぬそうでな。二人で養生するがよい」



案内されたのは、城の敷地内の一角。そこに小さな屋敷があった。
「どうぞ」
使用人が扉を開ける。この中で、陰修が待っている。
「………っ」
急に締めつけられるような痛みが胸に走った。
今、自分はどんな顔をしている?他人にはどう見えている?
一度は底の底まで身を堕とした今の自分に、陰修の前へ出る資格は本当にあるのか。

「…荀攸様の言葉をお忘れですか」
思わぬ発言だった。はっとして、目の前の男に視線を移す。
表情の崩れぬ使用人の、しかし初めて見る穏やかな視線がそこにあった。

『貴方は、綺麗です』

別れ際の声がした。
そうだ、もう自分は。彼に背中を押されているのだ。
たとえこの体は、生涯消えぬことのない傷を負おうとも。
彼の目に映ったこの心までは、穢れていない、だから前へ、と。そう、教えてくれた。

『胸を張ってください。陰修殿がお待ちです』

聞こえぬ筈の声がする。あの言葉の続きが、耳元で響く。
「……はい」
凍りついていた足が、一歩前へ出た。



「荀…彧……」
通された奥座敷。その窓際に接する寝台に、年老いた体が横たわる。
離れた位置からでもわかる、皺と染みだらけの右手が、震えながら宙を泳いだ。
「荀彧……もっと、近く、に……」
「はい、陰修様……っ!」
あれほどまでに動かなかった足が、動き出す。
寝台と駆け寄り、伸ばされたその手を取った。かさついた手の感触は、冷たかった。
その冷たさとは裏腹に、荀彧の胸はこみ上げる熱に覆われていく。
「荀文若、ただいま、戻り、ました……っ」
喉の奥を詰まらせながら、荀彧は自身の額を陰修の手へと寄せた。
許しを乞うようなその面持ちに、陰修はただ、優しく微笑む。
「よかった…よく、ここまで……」
陰修の左手が、荀彧の背中を撫でた。悪夢を見た子どもを宥めるように、慈しみを込めて。
「陰修、さまっ……陰修さまっ…あ、あぁ……あああっ………!」
感情を圧し留めていた最後の堰が、ついに切れる。
絞り出すかのような荀彧の慟哭だけが、奥座敷に響いた。


「っ…申し訳、ありません…」
涙がようやく枯れ落ちる頃、荀彧は慌てて背筋を伸ばした。
会うなり声を上げて泣くなど、なんと情けない姿を見せてしまったことだろう。
「いい…気にするな……」
陰修は笑って、荀彧の背中を軽く叩いてみせた。
洛陽と長安で一体どのような目に遭わされていたのか、そんなことを聞き出すつもりはなかった。
あの血混じりの書簡を見た時、二度と会うこと叶わぬと覚悟もした。何度、洛陽行きを止められなかった己が無力を呪ったか。
だからこそ、王允の書簡で無事を知らされた時の喜びは、何物にも代え難く。
鄴へと来るのを今か今かと待ち焦がれ、そしてようやく再会すること叶った。それだけで、満ち足りた。

「感謝…するぞ…」
陰修の視線が、荀彧の背後へと向けられる。荀彧もつられて振り返った。
壁と同化したように気配を殺した使用人が佇んでいる。
「潁川を救ってくれたばかりか……荀彧とまた、引き合わせていただけようとは」
「…潁川を?」
訝しむ荀彧の様子を見て、陰修の表情が翳る。
薄々わかってはいたがやはり、知らないのだ。自分が必死で書いた書簡が、どういう経緯を辿ったかを。
「お主が書いた書簡は……そこの伝令が、届けてくれたのだ。だから潁川は難を逃れた」
「……そう、なのですか!?」
荀彧の目が驚愕に見開かれた。ならば彼は、自分どころか潁川全体の大恩人だ。
「どうして…どうしてそれを、一言も……っ」
問い質そうとして、はたと思い留まる。
彼は王允の使用人であり、伝令。その彼が、あの書簡を届けてくれたということは。

「……そういうこと、なのですね」
どうして貂蝉が、王允の贖罪だと言ったのか。その意味の一端に辿り着く。
貂蝉へと託した書簡は王允の手に渡り。そして、伝令から陰修へ。
つまり王允は、その時点で知っていた筈だ。董卓の奴隷に成り下がっていた自分のことを。
だが荀攸たちに伝えたり、具体的な行動は起こさなかった。恐らく、下手を打って貂蝉に害が及ぶことを危惧したのだろう。
把握していながら見放ざるを得なかった、その悔恨が。この、躍起なまでの丁重な扱いなのか。
「王允殿…貴方は……」
計略に用いた娘の身に、父として責任は大いに感じていた筈。他の何を措いても守り抜きたかったのは想像に難くない。
その親心を責めるつもりはなかった。むしろ、感謝しかない。王允こそが故郷を救ってくれたのだから。
後宮という檻から出ること叶わなかった自分の、一番の願いを聞き届けてくれたのだから。
「王允殿…っ」
あまりに悲しい。娘や輩を犠牲にした罪の意識だけを背負い、孤独を選んだ王允の生き様が。
何故そこまでして、あの方はたった独りになることを―――。

「…っぐ、ごほっ!」
嫌な咳の音が、回りかけた荀彧の思考を止める。
「陰修様っ…あ、っ!?」
振り返って目にしたのは、押さえた口元から血を流す陰修の姿だった。
「あ、あぁ……っ!」
反射的に、体が恐れ慄いてしまう。
あの絶望の底にいた長安の夜。己が腕の中で血塗れで息絶えた、荀爽に重なってしまう。
嫌だ。これ以上は、嫌だ。大切な人を、何も成せずに目の前で失うのは。
「早く医師を!お願いしま……っ!?」
使用人に医師を呼ばせようとした荀彧の腕を、強い力が制した。
「陰修様…何故っ……!」
どこに、そんな力が残っているのか。
「医師など、いらぬ」
それまで力なく横たわっていた筈の陰修の目が、据わっている。
「お主がいてくれれば、それでいい」
「陰修…様…?」
異様な覇気の宿り方だった。もうそれ以上は、何も言い返せなかった。









「おはようさん。しかしまあ、止まないね」
宿舎の主が、朝餉を運んできた。荀攸は軽く会釈をして受け取る。
「ええ、本当に」
「これじゃあ仮に蜀の方へ行けたとしても、馬が持たなかったと思うよ?ある意味幸運じゃないかね」
「…そうかも、しれません」

長安を発って二日、益州へ入る山道まで来た時に、異変に気づいた。要所の橋がすっぱり落とされていたのだ。
ならばと他の迂回路も探したが、それも悉く岩崩れに塞がれたり、橋の切り落としが断行されていた。
打つ手のないまま、流れ着いたのは襄陽。幸い旅支度で馬を連れながら歩く姿が宿舎の主の目に留まり、今は温情に預かっている。
話を聞けば、益州行きの行路がすべて断たれたのはごく最近とのことだった。理由は判然としないらしい。
わかっているのは、益州側の人の手に因るものだということ。橋の落とされ方がそれを物語っていた。


朝餉を食した後、荀攸はまた部屋に寝転んだ。どうにも、体が重い。
ここに留まってかれこれ七日。その間に降り始めた長雨は空気を湿らせ、腹に残る傷を逆撫でした。
主は馬が持たなかったのではと言ったが、もしかしたら自分も持たなかったかもしれない。決して、本調子ではないのだ。

「…文若、殿」
長安を出立して、もう十日は過ぎている。流石に荀彧たちは鄴にいるだろう。
それを見越し、こちらの近況を伝える書簡は六日前に出した。雇った伝令の足が速ければ、そろそろ着いている頃か。
彼は無事に、陰修と再会できただろうか。長旅で体を壊してはいないだろうか。
尤も、あの伝令が傍にいる限りは、心配ないだろうが。
「……っ」
瞼を閉じれば、はっきりと思い描ける。別れ間際、戸惑いに憂う顔すらも美しい彼を。
捕らえられ、辱しめられ続けて。今まで研鑽し培ってきた誇りも自信も、彼は手放さざるを得なかった。
けれど、違う。どんなにその身を堕とされようと、魂からの清廉さは失われていない。
どこまでも、貴方は綺麗なままだと。それだけは伝えたかった。
そして、けじめをつけたかった。己が抱え続けたこの、許されざる想いに。


「…ん?」
雨音しか聞こえなかった外が、俄かに騒がしくなった。
『おい、大丈夫か!しっかりしな!』
入り口の方から、主の慌てた声が聞こえる。
他人事と放っておけるほど、軽い事態ではなさそうに思えた。

「何事です?」
荀攸が向かったそこには、同じように宿舎に泊まり込んでいる人々が集まっていた。
やはりただ事ではないと察知して、気にしてきたのだろう。
「いや…そこで行き倒れてた奴を、ご主人が担ぎ込んできたとこなんだけど」
同じくこの宿舎に泊まっている男が、神妙な顔つきで説明した。
その隣にいた髭面の中年も、悲しげに首を振ったかと思うと、荀攸へ場所を譲る。
「ほら、見ろよ可哀想に。血だらけだぜ…今、足の速い奴が医者を呼びに行ってらぁ」
「…失礼します」
開けてもらった場所へと体を滑り込ませる。確かに痛ましい光景があった。
泥と血に塗れた青年が、入口に敷かれた筵に横たえられている。周囲の荷物の多さからして、商人か。
彼の傍らには宿舎の主とその奥方がつき、一生懸命に介抱していた。
「もうすぐお医者様が来ますからね、それまでの辛抱ですよ」
「すみ…ません…すみません……」
奥方に止血を施されている青年は、涙を流しながら震えている。
その声は弱々しかったが、消え入りそう、という程ではなかった。致命傷を喰らっているわけではなさそうだ。
「一体ぜんたいどうしたってんだ、おまえさん…物取りにでも狙われたか?」
主は体の血と泥を拭いつつ、青年に尋ねた。
それに対する答えは、荀攸を含めたこの場に集った者、全員を凍りつかせた。

「お、俺…やっと、逃げてきたんです…長安で、長安でまた戦が……」




2019/02/01

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