隷属の華【十八】
「王允様」帝の寝所へと向かう廊下にて、董承が神妙な面持ちで待ち構えていた。
王允が近づくと、さっと膝をつき、事の次第を報告する。
「董卓様に近しかった者たちは、ほぼ皆、この宮中からは逃げ果せたようです」
「…わかった」
帝の御身を第一にとの思いで真っ先に行ったのは、帝に近しい文官女官を集めて支配下に置く作業だった。
そちらに気を取られている間に、董卓が死んで怖れをなした武官や兵卒は散り散りになってしまった。
李儒一派は董卓と共に粛清できたが、武官のほとんどを取り逃したことは大きな痛手といえる。
「董承」
王允は今一度、董承を見下ろす。
「この先、私にもしものことがあった場合は、そなたが陛下を守れ」
「なっ!何を急に仰いますか…っ!?」
董承は面食らった。明らかなる若輩の自分に何故、そこまで託すのか。
意図を理解できず、混乱のままに董承は王允を見上げた。
そこにあるのは、冷え切った眼差しだった。何かを言い返せる空気ではない。
「私のような脆弱な文官共では陛下をお守りできぬ。そなたのような年若く有能な武官こそ必要だ」
「お、王允、様…?」
心底寒気がした。口調そのものは落ち着いているのに。何なのだ、この背筋が粟立つような不安感は。
「近いうち、また長安は混乱が起きる。覚悟しておけ」
「か…かしこまり、ました」
確信めいた言を、董承は黙って受け取るしかなかった。
「薬湯です」
荀攸から差し出された器を、荀彧は微笑みながら受け取った。
「ありがとうございます…いただきます」
やや熱めに作られたそれを、ゆっくりと飲み下していく。
その間、荀攸は落ち着かない様子で見守った。
味見はしたが、所詮即興で作った薬湯だ。貂蝉が作ったもののように、口に合うかどうかは心配だった。
「……大丈夫ですよ。とても飲みやすいです」
荀攸の気持ちを察してか、荀彧は穏やかに笑った。
「そういえば、貂蝉殿は…?」
「……」
その問いに、視線を落として黙り込む。咄嗟に言葉を出せなかった。
何気なく尋ねた荀彧にしてみれば、荀攸の口を噤んだ姿に不安が生じてしまう。
「あの、公達殿?…貂蝉殿に何かあったのですか」
「っ…申し訳ありません」
荀攸の中でも整理はついていない。だが、やはり荀彧には言うべきなのか。
たとえ、断片的な事実を鑑みた憶測でしかなくても。
「…昨晩、ここをお離れになりました。恐らく宮殿まで出向かれたと思われます」
「宮殿へ…ですか?」
「貂蝉殿は、王允殿の御息女だそうです」
「え…っ!?」
目を見開き、思わず口許を押さえる。荀攸の予想通りの反応だった。
暫し明後日の方を向いて考え込んでから、荀彧は口を開いた。
「それは…本当、なのですか?」
「俺にはそう名乗りました。少なくとも貂蝉殿が呂布と共に乗り込んできたとき、傍らには王允殿もいらっしゃいました」
玉座の間が血と狂気で染め上げられた、あの光景を思い出す。
荀彧に真っ先に駆けつけてくれたのは貂蝉。そして、脇目も振らず帝に駆け寄ったのが王允。
二人は確かに通じ合っている様子であったし、年嵩からいっても親子、と言われれば納得はいく。
なのに、どこか違和感を覚えざるを得なかった。
当初に感じた、まるで似ていないという単純な問題ではなく。
「貂蝉殿はそのようなこと、一言も…」
荀彧は戸惑いに目を泳がせる。
互いに身の上話をするような状況でなかったこともあるが、貂蝉から家族の話を聞いたことは一度もない。
まして父が名のある文官で、自分も見知った人物であったなど、想像もつかなかった。
「そもそも、王允殿に娘がいるということを俺たちは聞かされていません。後宮にいるなど尚更…」
「では、王允殿は…貂蝉殿のことを完全に秘匿されていたのですね」
「ええ」
「何故そのような……あっ」
目覚めた直後に交わした貂蝉とのやりとりが思い出される。
飾りを汚したと謝った際、彼女もまた、董卓を殺す心積もりであったと打ち明けてくれて。
そして、確かにそう口にしたのだ。
「貂蝉殿は、ご自身のことを『送り込まれた埋伏の毒』と仰せでした。つまり、どなたかの意向で…後宮、に……っ」
次第に、荀彧の声が上擦る。頭の中で、恐ろしい推測が形を成すのが見えたからだ。
荀攸もそれに気づき、少しばかり眉を顰めながら頷く。
「俺も…そういうことだろうかと。貂蝉殿が董卓の側女となったのは、王允殿による計略では、と」
「っ……」
強い目眩を覚え、荀彧は頭を抱えた。すかさず荀攸が背を支える。
「大丈夫ですか?」
「は、はい…」
そうは言うものの、荀彧の表情はすっかり青くなっていた。
「王允殿が…本当に、そのようなことを…?」
貂蝉が語った内容に嘘偽りがあるとは思えなかった。だからこそ、信じ難いのだ。
「っ…あ、っ」
体の傷が疼く。そこにはまだ、欲に眩んだ手が這いずる感覚が刻まれている。
下卑た眼差しと高笑いが、瞼の裏にちらついては荀彧の心を痛めつける。
「信じられません……王允殿が……」
獣のような暴虐の男の傍らへ、娘を送り込む。
あの生真面目を絵に描いたような王允が、そこまで惨い手を実行できるのか。
「文若殿…」
信じられない、という思いは荀攸も同じだ。ただし、決定的なものは見ている。
久々に会えたあの時、王允は自分の言こそ聞き入れてくれたが、目も合わせようとしなかった。
あの、不自然に冷たく余所余所しい態度を貫いたのも、確かに王允その人だ。
「………まさか」
今にして思う。あれは、後ろめたさ故ではなかったのか。
自分達にも完全に黙秘を貫き、娘を駒とするような謀略を進めていたことへの。
振り返ってみれば、ここまでの言動の不審さも浮かび上がってくる。洛楊で別れて以降、彼は便りひとつも寄越さなかったのだ。
戦の始まりも、帝だけが先に長安に来ることも。洛楊から董卓が来る機を正確に把握することも叶わず。
乏しい情報量は、長安に燻る自分たちの首を締め。結果的には荀爽も、何顒も死に追いやられた。
もしも。もしもそのことを自覚しているが故の、頑なな態度であったとしたら。
『失礼いたします』
優しく透き通った声が扉越しにかかった。
「「…!」」
思わず、二人は顔を見合わせる。しかしすぐに荀彧は声を上げた。
「はい。どうぞ…」
「ただいま戻りました…っ」
部屋に入ってきた貂蝉は、荀攸と荀彧を見るなり表情を曇らせた。
貂蝉の目には、二人の顔が青く虚ろなものに映った。
「お二人とも…顔色が優れませんが、大丈夫ですか?何かお作りいたしましょうか?」
「い、いえ、大丈夫です。貂蝉殿こそお休みになられてください」
荀彧は明るく振る舞おうとするが、貂蝉はそれを制するように首を振った。
「遠慮はなさらないでください。軽いお食事でしたらご用意させていただきます」
「すみません、何から何まで…」
「いいえ…では暫しお待ちくださいませ」
貂蝉は頭を下げると、さっと部屋を出ていった。
「貂蝉殿……」
荀彧が、心配そうに名を呟いた。荀攸もその意図するところを察する。
顔色が優れなかったのはむしろ、貂蝉の方だろう。
彼女は色白だが、常ならばその頬には柔らかい赤みが差している。それが、なかった。
「もしや…」
宮中、正確に言えばそこに残る王允との間で、彼女に影を落とす事態が生じたのか。
「公達殿、やはり私たちも宮中に行くべきでは…っく」
荀彧は寝台を降りようとしたが、体の軋みが動きを止める。
「なりませんっ」
荀攸は頑なに首を振り、荀彧を寝かしつけた。
「ですが、王允殿に何かあったとしたら…それに、陛下もどうしていらっしゃるか」
心細げに目を揺らす荀彧を見て、今更、王允と貂蝉について話してしまったことへの後悔が過ぎる。
今の彼に、余計な心労をかけてはいけなかったのに。
「…今は何も考えず、ゆっくりお休みください」
やっと与えられた穏やかな時だ。動き出すのはせめて、傷が癒えてからでも。
数日に亘り、王允は自室に籠って書簡を書き上げていた。
その背に、董承の声がかけられる。
「王允様…伝令を名乗る男が参りましたが。冀州からだと」
王允の肩がぴたりと止まった。直後、筆が置かれ、重そうな腰が上がる。
「…こちらに通せ」
少しして、人影が入ってきた。
「このような状態でお目通り願うこと、失礼いたします」
伝令として戻ってきたのは、使用人だった。
流石に長安と冀州の往復で砂に汚れてはいたが、その表情は相変わらずの鉄面皮である。
「御苦労だった。して?」
「王允様の予想通りにございました。こちらを」
使用人は懐から仰々しい竹簡、そして小さな書簡を取り出した。
差し出されたそれに、王允はすぐさま目を通していく。
「…大義であった」
ほう、と大きな息をつくと、改めて使用人に向き直った。
「帰ってきて早々すまんが、お前には働いてもらうぞ」
「はっ」
「これが私の……最後の命令だ。頼む」
少し寂しげに、王允は笑いかけた。
「これはどういうことです」
荀攸の表情は一見普段と変わりない。だがその声は自然と問い質す調子になる。
「その書簡にあることがすべてにございます」
「……っ」
自分でも眉間に皺が寄るのがわかる。しかし、目の前の文官を詰問したところで無意味なのは察していた。
「…では、荀彧様にもよろしくお伝えくださいませ」
荀攸が何も言ってこないのを見るや、文官は慇懃な礼をして退出していった。
「公達殿」
「っ、文若殿…!」
寝室から現れた荀彧の姿に、荀攸は面食らった。
荀爽の形見の装束を身に纏った様は、久々に見る毅然とした文官のものだ。
「起き上がっては体に障ります」
先頃、ようやく歩けるようになったばかりだ。心は勿論、体中に負った傷もまだ完全には癒えていない。
それでも、荀彧は首を振って荀攸を制す。
「大丈夫です……それに、その書簡には私のことも書かれていると」
扉越しに、文官と荀攸のやり取りは聞こえていた。
買い物に行くと言って貂蝉が外出したのと、ほぼ入れ違いで訪れた文官。
『王允殿からです。お二人の処遇について決まりました』
確かにそう宣いながら、荀攸へと書簡を渡した。暫くして聞こえたのは、荀攸の困惑が滲んだ声。
書簡の内容が、自分達にとって思わしくないものであることだけは理解できた。
ならば、荀攸がこの後に移す行動はひとつしかない。
「お願いします。どうか、私も共に王允殿の許へ…」
「…承知、しました。こちらを」
荀攸は観念したように書簡を差し出した。握り締めた弾みで、皺が刻まれていた。
「……これが、長安」
ようやく白昼の中で荀彧が目にしたは、あまりにも未熟な、閑散とした街並み。
通りの最奥には、洛陽の荘厳さには程遠い、寂しげな宮殿が鎮座する。
永い間荒廃していた場所だ。王都として機能させるには、時も、物も、人も少な過ぎた。
宮殿の前まであと少しというところ。
門番についている二人の武官がこちらを見て、驚いたような顔をする。
そのうち一人がどこかへと走っていった。
「…これは」
荀彧の嫌な予感は的中した。門前まで来た二人に対し、槍が向けられる。
「俺たちは王允殿に用があります。そこをお通しください」
荀攸が声を上げるも、武官は退こうとしない。
やがて、呼ばれたらしき武官が四人現れた。その中から、目鼻立ちのすっきりとした若い武官が前へ出る。
周囲の反応から見るに、武官たちの統率役らしかった。
「王允殿より、部外者は一歩も入れるなと仰せつかっている。荀攸殿と荀彧殿とお見受けするが、お二人とて例外ではない」
「部外者…!?」
容赦ない言葉に、荀彧は唖然とした。そして、書簡に叩きつけられていた王允の本気を悟る。
彼は本当に、自分たちを宮中から追い出すつもりなのだ。
「今更何用だ」
聞き覚えがある筈の、そして聞いたこともないような物々しい声が響いた。
「王允、殿……?」
武官の背後より現れた人物を認識しようと、荀彧の瞼が瞬く。
確かに王允だ。自分もよく知っている王允に、間違いはないのに。
墨でも塗ったかのごとく真っ黒い隈をこさえた目は、見知らぬ光を放っていた。
「董承」
「はっ」
董承と呼ばれた若い武官は、周囲を下げさせる。
王允と荀攸、そして荀彧が相対する格好となった。異様な緊張が辺りに走る。
「…これは何の真似です」
荀攸は冷静に、しかし厳しい視線を送りながら書簡を突き出した。
しかし王允はそれを一瞥するや、鼻で嗤った。
「書いてある通りだ。荀攸殿は直ちに蜀郡太守として益州へ、そして荀彧殿は冀州の袁紹殿の許へ行ってもらう。これは勅命である」
書簡に記した内容を、言葉として二人へ突きつける。
「これまで何一つ陛下のためにお働きになれなかった貴様らに、お近くに侍る資格はない」
質問および釈明などは一切無用とばかりの、凍てついた声だった。
「王允殿……勅命という言葉の重みを知らない貴方ではない筈です。何故っ…」
荀彧はたまらず、声を上げた。
勅命など、あからさまに過ぎる嘘。この混迷の渦中にいて、幼き帝が特定の判断など下せる筈がない。
「文若殿の仰る通りです。何故、勅命とまで言って独裁に走りますか」
荀攸の咎めるような眼差しが、王允に向けられる。
どうにかして二人を宮中から追い出したいという意図はわかる。だが、その理由がわからない。
何故そこまでして。何故そこまで頑なに、自分たちを退けようとするのか。
「…いいからさっさと、任地に赴けっ!!」
二人の視線から逃れるかのごとく、王允は喚き散らした。
踵を返したかと思うと、足早に立ち去っていく。
「っ、王允殿!」
去りゆくその身を引き止めようと、荀攸は駆け出した。
しかし、董承をはじめとした武官が壁となり、荀攸を押し留めた。
「なりませぬ!」
「っく…王允殿、お待ちください!」
武官たちの隙間からどうにか首を伸ばし、遠ざかる背に呼びかける。
王允が振り向くことは、ついになかった。
失意のまま、二人は歩いてきた街路を戻る。
「王允殿…」
切ない声で呟きながら、荀彧は振り返った。宮殿は目の前に見えているのに、限りなく遠い。
「あのようなお姿は…初めて見ました」
独断を勅命と言って憚らず、取りつく島もない凍りついた表情。
それは確かに、荀彧が知らない王允の顔だった。
「…これではっきりしました。貂蝉殿のことはやはり、王允殿の計略でしょう」
「っ……」
荀攸の言葉が胸を突く。しかし、最早信じられぬの一言では振り払えなかった。
「確かに、俺たちの知る王允殿は不正と卑怯を嫌う篤実なお方でした。それがごく一面に過ぎないと…気づけなかった」
荀攸は天を仰いだ。荀彧はともかく、十年になる付き合いの自分でも看破できなかった、王允の裏の顔。
たった独り謀を巡らせ、あらゆる手段を用いて突き進む。そうした激情も冷酷さも、彼は併せ持っているのだ。
「…ですが、本来はあくまで生真面目な方です。だから非情に徹し切れない部分もある。そして…生真面目だから頑なになる」
今は、確信を以て言い切れる。再会した時の態度は、後ろめたさ故だと。
娘の身を策の犠牲にし、友を結果として見殺しにした慚愧の念が、彼をああも硬直させてしまっている。
「荀攸様、荀彧様」
ふいに、背後から嫋やかな声がかかった。
二人は振り向き、そこに声の主が跪いている光景に驚く。
「…貂蝉、殿」
傾いた西日が、花の顔を朱に染め上げていた。
「どうぞ、こちらへ」
貂蝉に導かれるまま、二人がやってきたのは長安の東門。
そこには一頭の黒鹿毛と、質素な身なりをした男が待機していた。
三人の姿に気づくや否や、さっと拝礼する。
「貴方は…!」
荀攸は驚きに目を見開く。王允が最も信頼する使用人、そして伝令役の男に相違なかった。
「お久しゅうございます」
使用人も荀攸とは顔見知りだ。挨拶と共に軽い会釈をした。
その上で、初対面である荀彧へと向き直った。
「王允様より、荀彧様を陰修様の許までお連れするよう仰せつかりました。僭越ながら道案内及び、護衛を務めます」
「えっ…陰修…様!?」
突然の申し出、そして『陰修』の名に、荀彧は一瞬言葉を失いかける。
絡まりそうになる頭と心を必死で抑えながら、使用人に問うた。
「お、お待ちください。王允殿は、冀州の袁紹殿の許へ赴くよう命じられた筈。それが、何故…」
陰修が出てくるのか、という疑問は、最後まで口にせず終わった。
「陰修様は今、袁紹様のお膝元にいらっしゃいます」
「「っ!?」」
貂蝉の答えに、荀彧も、そして荀攸も絶句する。貂蝉は更に続けた。
「我が父、王允は確かに袁紹様の許へ赴くよう命じました。その実は、荀彧様を陰修様にお引き合わせするためにございます」
「どう、して……」
「…父の、せめてもの贖罪です」
そう告げた貂蝉の表情は、悲しみに満ちていた。
「贖罪とは…?」
「どうか、それ以上は何もお聞きにならないでください」
荀彧の問いかけを拒むと、貂蝉はその場に膝をつき、頭を垂れた。
「父の御無礼は承知しております。ですがどうか、お二人とも!今この時は!父の命にお従い下さいませっ…!」
「っ…貂蝉、殿……」
それは、今までに聞いたことのないほど悲痛な、そして魂からの声。心からの願いだった。
「…ですが、お聞きします。貴方は王允殿の真の目的をご存知の筈」
それまで黙って聞いていた荀攸が、口を開いた。
「帝の威を笠に着て、傲岸な態度を貫き、他の有力者を排除する…今やっていることは、極端を言えば董卓と似たようなものです。それでも貴方は……策を弄するお父上に従うと?」
厳しさを孕んだ問いではあった。それでも、貂蝉は動じる素振りを見せない。
「…この貂蝉、天地にお誓い申し上げます。我が父の振る舞いは、私腹を肥やすことが目的にございません。だからこそ、私は何があろうと父に従います」
貂蝉はきっぱりと言い切った。そこには曇りも、やましさの一切も存在しない。
ただ、父に殉ずると決意した瞳が、荀攸と荀彧を見上げた。
「貴方はそこまで…王允殿を…」
荀彧は胸の痛む思いがした。
彼女が後宮にいたのは、恐らくは推測通り、王允の計略なのだろう。だと、しても。
貫こうとしている父への忠節は本物だ。それは自分たちには及びもつかぬ、確かな親子の絆。
「…わかりました。俺は益州へ向かいます」
荀攸は深く頷き、そして悟る。王允と貂蝉の覚悟は、決して変心させること叶わぬと。
ならばもう、何も言うべきことはない。
「…では、ひとつお約束ください」
荀攸は使用人へと歩み寄り、鬼気迫る顔で告げる。
「文若殿を陰修殿の許まで…絶対に、無傷でお連れする…と」
「はい。この任務、身命を賭します」
使用人も一切怯まず、荀攸を見つめ返す。
その変わらぬ鉄面皮には、幾多の任務を成し遂げてきた者の自負が滲んでいた。
荀攸は納得したように、黙って頭を下げた。
「益州へ行くにはこちらの黒鹿毛をお使いください。なかなかの駿馬です」
「ありがとうございます」
荀攸は早速跨がった。鞍には既に、旅支度の荷がくくりつけられている。
「あっ、公達殿お待ちくださいっ…」
荀彧は慌てて駆け寄った。挨拶も交わさずに行こうとしているように見えたからだ。
せめて旅の無事だけでもと、黒鹿毛に取りすがる。
「公達殿、益州は厳しい山岳地帯と伺っています。どうか、お気をつけて…」
「ええ。陰修殿にもよろしくお伝えください」
「あ……っ」
かけられた言葉に、急な現実を突きつけられた心地になる。
そうだ。自分はこれから、陰修に会いに行くのだ。
最後まで洛陽に行くなと言い続け、この身を案じ続けてくれた、故郷の主。
反対を圧してまで来た洛陽で、結局、何も成し得なかった。そればかりか、穢れ堕ちた。
「最早……顔向けできるような身ではございませんが…っ」
俯く荀彧の頬に、そっと手が添えられた。
「こう、たつ…どの…?」
見上げたそこにあったのは、今まで見たこともない顔。
年上の同族としてでもなく、共に国に尽くす仲間としてでもなく。
静かで、そして有無を言わせぬ荀攸の強い視線が、荀彧の身を縛る。
「貴方は、綺麗です」
たった一言、それが別れの挨拶となる。
「……はっ!」
荀彧の頬から手を離すと同時に、荀攸は黒鹿毛の腹を蹴った。
合図を受けて、黒鹿毛が勢いよく走り出す。
みるみるうちに小さくなっていく影を、荀彧は茫然と見送った。
「…荀彧様」
「っ、すみません」
我に返った荀彧は、貂蝉と使用人へ向き直る。
「最低限、旅に必要なものはこの者に持たせてあります。道中は何なりとお申し付けください」
貂蝉の言葉の通り、使用人は大振りの麻袋を背にしていた。
「ここより北の船着き場から、まずは渡河してください。そこにも馬を用意してありますので、どうかご心配なく」
すべてにおいて隙なく、手筈が整えられている。これは明らかに王允と貂蝉の差配だ。
「…どうか、王允殿にも御礼を。お願いいたします」
荀彧は深々と頭を下げた。そして、叶うならばと心残りを伝える。
「それと…もしも陛下へとお伝えできるなら…拝謁もせず去ることを、お許しください、と」
「……っ、はい。かしこまりました。確かにお伝えいたします」
その心残りを作ったのは、他ならぬ父。
申し訳なく思いながら、貂蝉はその言伝を胸へとしまい込む。
「お別れ…なのですね」
ついにその時であると自覚し、改めて貂蝉を見つめる。
花よりも尚美しく、そして誰よりもしなやかに強く。この女性がいなければ、今自分はここにいない。
「貂蝉殿…本当に……本当にっ、今まで、ありがとうございました…!」
どんなに言を尽くしても、尽くし足りない。
月並みでしかない言葉だが、涙と共にすべての想いが託された。
「どうかこの先も、お父上と共に…ご息災であらせられますよう、お祈り申し上げます」
「……荀彧様っ」
貂蝉の頬からも、涙が伝う。
そのささやかで優しい祈りすら、叶うことはない。それでも嬉しかった。
後宮という鉄籠から解放され、ようやく彼は日の光の中を歩くことができるのだ。
「荀彧様も…どうかお元気で」
万感の思いを込めて、貂蝉も最上の礼を返した。
「では荀彧様、こちらへ」
「はい…では」
使用人に促され、荀彧は小さく頷いた。
先立って歩き出した使用人のすぐ後を、静かについていく。
遠ざかっていく二人を、貂蝉は見守り続けた。
「荀彧殿は必ずや、陛下の許に馳せ参じます」
北へ向かう荀彧たちを見守る影が、二つ。
東門の楼閣から見下ろす、幼き帝。そして傍らに、やつれた老臣。
「…それまでの、辛抱です」
肩を抱く王允の手に、力が籠った。
「朕は、待っているぞ。荀彧」
声を張り上げたい気持ちを抑え、願いは小さな呟きとして消えていく。
遠くなりゆく愛しき背が、涙で滲んだ。
2019/01/17