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曇天日和

どんてんびより

芍薬を手折る(上)

「朕を大事に思うなら、どうかよく補佐してほしい。そうでないなら、情けをかけて今すぐ退位させよ」

玉座の間が、一瞬にして凍りついた。
挨拶の口上を述べようと跪いた曹操も、荀彧も。動きをぴたりと止める。
重苦しい沈黙が、辺りに漂った。

「……突然、何を仰せになられますか、陛下」
ひとつ深呼吸してから、曹操は面をゆっくりともたげた。玉座より見下ろしてくる視線を、しっかりと受け止め、見つめ返す。
「陛下……」
背後に控えていた荀彧も、躊躇いつつ見上げた。
目に飛び込んできたは、唇を真一文字に引き結び、全身を竦ませた若き帝。体の震えを止めることもできず、しかしそれでも胸を張り、曹操と睨み合っている。
必死で己を奮い立たせんとしているのが伝わり、胸が締めつけられそうになった。
「っ……」
侍中尚書令といえども、ここで不用意に口を挟むことはできない。
自分が審判を受けているような思いで、荀彧はひたすら待った。どちらかが声を発するのを。

「……この曹孟徳、身命を賭して陛下のため、国のために戦い抜いてきた所存…………ですが」
先んじて口を開いたのは、曹操だった。
「我が働きは、未だ陛下の信を得るには足りないようですな。己が至らなさを恥じ入るばかりにございます」
あくまで泰然とし、落ち着き払いながら頭を垂れる。声の調子に棘はなかった。
「――――っ」
帝から、震えが抜けていく。直後、はっきりと顔が苦衷に歪んだ。
「陛下。直々に私の力不足をご指摘くださり、御礼申し上げます。これよりは一層、政に力を尽くし、外憂に当たりますゆえ、何卒」
「わかった、もういい」
淀みなく話す曹操を遮るようにして、上擦った声が投げつけられる。
「……下がれ。急に呼び出して、すまなかった」
力なく告げると、帝は背後の玉座に座り込んだ。
がっくりと項垂れるその様は、負けを悟った敗者のようであった。
「ははっ」
今一度拝礼すると、曹操は静かに起立する。すぐさま背を向けて、玉座の間を退出していった。

「あ……」
ふいに、目が合った。いや、合ってしまった。
墨で塗りつぶしたかのような瞳が、じっとりと注がれる。それは覚えのある、何もかもを呑み込んでしまうような眼差し。
「……失礼、いたします」
礼を捧げて、荀彧は立ち上がった。踵を返して曹操の後を追う。
背に、いつまでも視線が突き刺さっていることは感じていた。振り返ることはできなかった。



「幼少の砌より、ご聡明であるとは伺っていたが……」
司空府へと戻るすがらで、曹操は嘆息しつつ視線を宙へと投げた。
「随分と心細やかであらせられる」
忠義か、譲位か。
一歩違えれば、己が立場を危うくさせかねない、博打にも等しい脅し。しかしあえて、かの若き帝は揺さぶりをかけることを選んだ。
誰も味方をあの場に呼ばず、たった一人で対峙したその決意、そして胆力は讃えるべきだろう。
しかし、賢慮であるが故に。自身で選んだ行動の意味に、最後まで慄いていた。

「陛下にとってわしは、董卓とさして変わらぬか」
「殿っ……」
かつて、この国を極限まで乱した存在の名を出され、思わず荀彧は頭を振った。
刹那、曹操は足を止めた。背後の荀彧に向き直り、憂いに満ちている貌をじっくりと眺め回す。
「あの獣と同列にされないためにも、おぬしを侍中尚書令とした筈であったが」
「っ……!」
喉を衝かれたような心地がした。
若年である帝が、不意に惑わぬための傅役として。臣下からの意思伝達を執り行う者として。
曹操が王朝の庇護者となる意味、そして掲げる覇道について周知し、理解を得る。それが侍中並びに尚書令を仰せつかった、己が責務。
それを、十分に果たしていないのではないか。そう、主君より問われている。
「……申し訳ございません。私の、不徳の致すところにございます」
畏まった荀彧の声は、常と変わらぬ涼やかな調子ではあった。しかし、その額にはうっすらと玉の汗が滲む。
「ふ……おぬしに当り散らしてなんとする、か。許せ。志は態度で示さねばならぬというに」
口許に薄く笑みを浮かべると、曹操は止めていた歩みを再開した。背筋を伸ばしながら、遅れまいと荀彧も続く。

「屯田の成果はいかほどであろうな」
「先頃まで続いた雨で、ここに来て麦に影響ありと報告が……ですが、昨年より収穫は増える見込です」
「うむ……初年であれば上々であろう。戸籍の検めの方は進んでいるか?」
「はい。お陰様でこちらは……」
事務的なやり取りは、執務室に辿り着くまで続いた。
両者の微妙な緊張を和らげるには、それが最善の会話でもあった。





「随分と辛そうですね?」
「うわあっ」
突然至近距離に現れた満寵の顔に、荀攸は面食らった。
悪いことに、食堂は混雑の峠を過ぎており、叫び声がよく響いた。残っていた人々からの、何事かという好奇の視線が集まる。
「相変わらず面白いね、荀攸殿は」
数多の女人がどうか向けてほしいと願いたくなるであろう笑顔を湛えながら、郭嘉が横に座ってきた。
満寵は向かいの席に座り、じっと荀攸を見つめる。
やや真面目な表情へ切り替えると、自らの眉間をとんとんと叩いた。
「ここ。そんなに皺を刻んだりして、どうしたんです?」
「……そこまで、酷いですか」
指摘され、思わず荀攸は己が眉間を摘まんだ。聞き返された二人は、軽く首肯する。
「表情が乏しいところを、そんなに顰めていたら……貴方をよく知らない人なら、どれだけ不機嫌かと思うかな」
「もしかして、明日に関わることですか?でも、それにしては深刻そうに見えて」
満寵が口にしたのは、曹仁主導の下で行われる調練のことである。
考案中の陣形戦術について、智者の立場からも意見を募り煮詰めたい。曹仁本人よりそう申し出があったのは、梅が終わる頃であった。
快諾した満寵は、この話を郭嘉と荀攸にも持ち込み、ひとまず三人が見学することは前々から決まっていた。
肝心の調練は春の長雨で先延ばしにされていたが、幸い立夏を迎えて快晴が続いている。そして先刻、いよいよ明日に実施されると伝達されたところだ。
「いえ、たいしたことではないのです。明日の調練、文若殿もお誘いした方がよろしいやも、と」
気取られないよう、尤もらしい訳で荀攸は取り繕った。一応、沈思している間に考えていたことではある。
満寵は納得したように頷いた。
「そうですね。忙しいからとは思ったけど、声をかけるだけはかけようか」
「……お願いします」

数日前の異様な光景が、ことあるごとにちらつく。
慌てた様子で尚書府執務室を出ていったまま、戻らぬ荀彧を不審に思って後を追った。
そこで見たものは、体を濡らし茫然とする彼と。牡丹を惨たらしく散らされた、雨に濡れる花壇だった。
美しい牡丹を荒らした上に荀彧を襲うなど、許し難い。それ以上に、嫌悪とおぞましさが今以て、荀攸の腹の内に渦巻く。

花壇がある東の庭園は、執務室の真下にある。
恐らく彼は、執務室の窓から、花壇を踏み躙る誰かを見てしまったのだろう。
それを止めるべくただひとりで向かい、そして――――

「…………」
せり上がりそうになる感情を、口内の肉を噛み締めることで押し戻す。何故こうも憤怒が収まらぬかは、わかり切っていた。
あの日の荀彧の姿は、嫌というほど瞼に焼き付いている。乱された首許。涙で滲んだ眦。頬と腰に残された手の跡。
ただの悪趣味な花壇荒らしであれば、鉢合わせた時点で逃げるか、破れかぶれに襲うのが関の山。そして荀彧であれば、その程度の愉快犯に怯むとは考えられない。
しかし、彼はなすがまま、抱きすくめられてしまったのだ。この事実が示す意味は重い。
荀彧に対して偏執的な感情を抱え、尚且つ、反撃の隙を与えさせぬほどの存在が、この許昌内にはいる。

恐ろしいのは、荀彧が言葉を濁したままで具に語ろうとしないことだ。
相手は顔を隠していたと、彼は説明した。しかし正面から頬を取られているのだから、彼ほどの人間が何も勘づいていないことはあるまい。
何より。一瞬言葉に詰まった上、決まり悪げに逸らした彼の視線は、確実に何かを見た顔だった。
考えられるのは。荀彧が名を口にすることを躊躇うような人物である、ということ。
少なくとも雑兵で収まるような輩ではないだろう。それなりに名の知れた、そして彼を容易く抑え込めてしまう、手練の者。

誰だ。いったい、誰があのような。
冷静な思考に努めようとすればするほど、焦燥に駆られる。
もしも、この軍にとって重要な人物だとしたら。もしも、陣営のため、曹操のためにと、荀彧が己を殺しているとしたら。

だとしても。誰か、だけでも。

軍全体に損害を生じさせるような真似はできない。それこそ、荀彧の望むところではないだろう。
かといって、彼一人に苦しみを背負わせたくなかった。誰かの影に怯えながら日々を過ごすなど、そんな思いはさせたくない。
せめて、正体さえ判明すれば、処し方はいくらでも講じれる。先んじて釘は刺せる。
調練の誘いを受けていたことを思い出したのは、そういったことを考えていた矢先であった。
武働きの者がひしめき合う場に連れていくことは、今の彼には酷かもしれない。しかし、武将や部隊長格の者たちが集う中に参じれば、一度に反応を伺える。
今は何かひとつでもいいから、糸口を掴みたかった。

「……荀攸殿」
普段の甘い響きを含んだ声ではなく、幾分と落ち着いた声に名を呼ばれる。
はたと荀攸が横を見れば、郭嘉の引き締まった視線が向いていた。
「貴方が、無闇に思惑を語りたくない人であることは承知だけれど……ね」
溜め息交じりに呟かれた言葉を受けて、満寵もわずかに眉を顰めながら頷いた。
「なるほど……よほど、重大な案件と思っていいかな」
「っ……申し訳ありません」
機知に富んだ者を前にして、迂闊な隠し立てなどできる筈もないことを思い知る。かといって、この場ですべてを打ち明ける気は荀攸になかった。
あれほど理不尽な目に遭いながら、荀彧自身がここまで黙り通しているのだ。そのことを思えば、まだ大事にはできない。
せめて、確証を得てからだ。その上であれば。そして郭嘉と満寵、この二人であれば。今後について協力を求める意味もあるだろう。
「まだ俺の中で、確信に至っていない点が多々ありまして。それまでは……」
正直に今の思いを伝えると、二人はあっさりと首肯した。
「ええ、もちろん。思慮深いのは貴方の長所だよ」
「しかし、荀攸殿がそこまで頭を悩ませるなんて……いつかきちんと、お伺いしたいものです」
「……ありがとうございます」
荀攸は深々と頭を下げた。
牢獄から出たあの日、安易に慣れ合うまいと決めた筈だった。それでも、持つべきは仲間、か。



文字が、歪んだ。
「えっ?」
驚いた瞬間、勢い余って筆を取り落としてしまう。
床から筆を拾い上げ、気を取り直そうと竹簡に向かい合った矢先、ようやく荀彧は異変に気づいた。
「これは……」
今の今まで、いつも通りに。何事もなく書き進めていたと思っていたのに。
竹簡には、情けなくなるほどに力なく、走り書きされた文字ばかりが並んでいる。
そのことを自覚した直後、目眩と頭痛とが荀彧を襲った。
「う、う……っ」
思い返せば、曹操と別れて尚書府に戻ってからは籠りきりでいる。腹に何も入れずにいたのがまずかったか。
このまま筆を執り続けたところで、書き損じが増えるだけだ。気分を変えるべく、荀彧は席を立った。


執務室を出て、一階へと降りる。
廊下を少しばかり歩けば、東の庭園が見えてくる。その光景はすぐに目に入った。
午後の晴天の下、青々と花壇に生い茂るは牡丹の葉。
しかし、数日前まで確かに存在していた花は、どこにも見当たらない。
盛りの季節に雨に打たれ、花首をもがれて。後に残されてしまった青葉は、嫌に心寂しく映った。

――――否。誰しもがそう解釈する訳ではない。
そのように見えるのは、こうなってしまった瞬間を知っているから。

「陛下……」
荀彧の脳裏に、今朝方の玉座の間でのやり取りが蘇ってくる。
あそこまで無謀な言動に打って出る姿を、初めて見た。けれど振り返ってみれば、兆候は十分にあったのだ。

星空に独り寂しく見入っていた、あの冬の夜。天の帝の星光を弱々しいと言いながら、己が境遇を省みて、嘆いて。
そして、牡丹を残らず散らした、あの雨の日。艶麗な形を崩された花を、脆く醜いと罵っては、屠るように毟って。

いずれ起こり得た摩擦であり、予見できた衝突。しかし、あまりにも早く訪れてしまった。
曹操の指摘する通り、彼の人は英明にして神経が細い。胸の内のせめぎ合いは、こちらが推し量るよりも遥かに激しいものだろう。
洛陽から付き従ってくれた馴染の家臣は今やほとんど遠ざけられ、政に口を出すことも儘ならない。当然、そこにやり場のない鬱屈が生じる。
そして、我を露わにしてしまうことが。国にも、自身にも、何処にも返らぬことまで悟っている。
乱れた世を平定するには、曹操の果断さや覇道を行かんとする思考は必要不可欠。董卓の如く、理なき恐怖政治を敷いている訳でもない。そのことを、彼の人も十二分に理解している。
なればこそ。煩悶はより深く、内に潜り込んでしまう。

抑え込み続け、行き場を失くした感情は、いずれ必ず弾け飛ぶ。
それがあの、先日の姿であって。
物言わぬ牡丹に当たり散らすことで内なる感情を露呈する様は、あまりにも痛ましくて。

「っ……あ」

首筋を這う、生温い舌。頬を撫でる、黄色く染まった掌。乱暴に押し当て、啄んできた唇。

振り払うことも、逃げ出すことも許されなかった。
熱情に絡め取られゆく恐怖が、背筋を這い上がってくる。

「あ、あ…………っ」
咄嗟に、荀彧は走り出した。



「……おや。やっとお越しになったね」
郭嘉が目ざとく、視界に輪郭を捉えた。釣られる形で、満寵と荀攸も食堂の入口へと視線を送る。
「荀彧殿、こちらです」
満寵は立ち上がって、大きく手を振りながら呼んだ。それに気づき、荀彧はゆっくりとした――――否、重い足取りで向かってくる。
「文若、殿……?」
荀攸は違和感を覚えた。常日頃の凛然とした佇まいが薄れている、ような気がする。
「……」
郭嘉もまた同じように感じたか、眉を顰めた。

「お待ちしてましたよ。実は、明日の午後なんですが……え?」
待ちきれず、満寵は歩いて荀彧へと近づいた。そして彼もまた、異変に気づく。
「あの、どこか調子でも……っ!」
満寵が声をかけ終わるよりも先に、眼前の人は頽れた。
「文若殿!?」
その場にがくりと荀彧が膝をつく姿を見た瞬間、荀攸は椅子を蹴倒さん勢いで席を立った。
「だ、大丈夫かい!?」
慌てて満寵もしゃがみこみ、荀彧の肩を取った。そこに荀攸と郭嘉も駆け寄る。
周囲に残っていた人々も、突然の事態にざわつき始めた。

「申し訳、ありません……急に、目眩がして……」
ややあって、荀彧がか細い声で釈明した。
恐る恐るといった具合に上げられた面を覗き込み、三人は一様に眉を曇らせる。
「これは……っ」
郭嘉は二、三度と瞬きをし、嘆息した。
「相当、お疲れのようだね……」
健康な類ではない郭嘉だからこそ、強く感じ取れた。目の前の荀彧の顔には、色がない。明らかなる不調だ。
「お見苦しいところを……お見せしました」
荀彧はなんとか自力で立ち上がったものの、顔面は変わらず蒼白だった。足下も、どことなく覚束ない。
不安定に揺れる体を支えようと、荀攸は荀彧の背中に手を回した。
「今日はもう、お帰りになられた方がよろしいかと。ご自宅までは俺が付き添います」
荀攸が申し出ると、郭嘉と満寵も真剣な顔で頷き合った。
「うん。それがいいと思うな……ああ、夕方の軍議だけど、曹操殿には私から言っておくよ」
「荀攸殿、よろしく」
「では文若殿……行きましょう」
「……本当に、すみません。お騒がせ……いたしました」
言葉少なに、荀彧は三人に向かって頭を下げた。

「荀彧様、大丈夫ですか?」
「無理しないで、養生なすってくださいね」
「はい、ご休憩中のところ、大変失礼いたしました……申し訳、ありません」

周囲で見守っていた人たちが心配そうに声をかけ、その一人一人に対して律義に詫びる。
普段より幾分縮こまって見える荀彧の背を見ながら、郭嘉は再び嘆息した。
「こんな時まで、生真面目なのだから……」
「いやはや、本当に。あんな調子ですし、誘わないままでよかったです」
遠ざかっていく二人を見送りつつ、満寵も頭をガリガリと掻いた。
もしも、事前に調錬の話を持ちかけていたとしたら、あの様子では無理を押してでも来たかもしれない。
貴重な意見を伺えないのは残念だが、負担を強いるのは満寵としても本意ではなかった。


荀攸と荀彧が連れ立って退出すると、食堂は何事もなかったように閑散とした空気に包まれる。
「はぁ……ご多忙な方だし、さぞお疲れなんだろうなぁ」
その一角にて、一部始終を目にしていた中年の武官が心配そうな声を上げた。
「さっきの見たか、董承殿。あの綺麗な顔が真っ青だったぜ……可哀想になぁ」
「……ええ。そうですね。おいたわしいことです」
向かいに座っていた男の視線が、俄かに鋭くなる。たった一瞬であり、武官が気づくことはなかった。





「公達殿……本当に、ご迷惑をおかけしました……この歳にもなって、お恥ずかしい限りです」
寝台に横たわった荀彧は、心底申し訳なく思いながら謝罪を口にした。
「この程度は、迷惑の内に入りません……むしろ不幸中の幸いです」
荀攸は静かに告げた。肝は冷えたが、しかし自分の目の前でああいう事態になって、かえってよかったのだ。
誰も気づかぬ場所で倒れていたかもしれないことを思えば、遥かに。
「……今はただ、ゆっくり休むことをお考えください。せめて二、三日は安静に」
侍中と尚書令を兼任する身となり、担う政務は増大している。しかし、日頃より己を律している荀彧が簡単に病むとも思えず。
だからこそ、急に倒れかけた事実は重く捉える必要がある。
思い浮かべてしまうのはやはり、数日前に起きた忌々しい出来事だ。余計な心労が、確実に荀彧を蝕んでいる。
そう察するだけで、荀攸の腹の内はざわついた。
「はい……ありがとうございます」
荀彧は小さく笑った。
いつ見ても、美しい貌だ。されど今日に限って荀攸が感じたのは、このまま霞んでいってしまうかと思うような儚さであった。
「さあ、公達殿は午後の任務も、軍議もおありですから……お手間を取らせて、本当にすみませんでした」
「文若殿、俺のことは別に……」
あくまでも自身ではなく他者を気遣おうとする姿に、荀攸は臍を噛む思いで見下ろした。
本音を言えば、ここまで心身共に参っているところを放っておきたくはない。
かといって、このまま傍らに付き添っているのも、それはそれで荀彧にとっては落ち着かないだろう。
「その、目眩を起こしただけですから……安静にしていれば大丈夫です」
「……承知しました。では、俺はこれで」
暗澹たる思いを抱きつつ、荀攸は頭を下げるしかなかった。
今の荀彧には、誰の視線も気にせずにいられる時こそ必要なのだ、と。そう、自らに言い聞かせて。



「…………は、ぁ」
荀攸の去った自室は、静寂そのものだ。自らの規則正しい呼吸だけが聞こえる。
考えることを放棄して、荀彧はぼんやりと天井を眺めた。幸い、視界の歪みは落ち着き始めていた。
眠れそうなら、このまま眠ってしまいたい。そう思って、目を閉じた。

『旦那様、お休みのところ申し訳ありません』
扉の向こうから、年老いた使用人の声がした。まどろみかけた意識が、ふっと戻る。
「はい……何でしょう?」
少しばかり気怠い心地のまま、荀彧は返事をした。
『実はその、お見舞いにお越しになった方がいらっしゃいますが……董承様とおっしゃって』
「董承……殿?」
思いがけない名前だった。どうして、このようなところまで。
疑問に思いながらも、荀彧は身を起こした。寝台の足下に置いてあった上掛けを羽織り、扉の向こうに向かって声をかける。
「わかりました、こちらにお通しください」
『はい、ただいま』
返事と共に、使用人の足音が遠ざかっていった。

ややもしないうちにまた足音と、改まった声が聞こえてきた。
『荀彧殿。突然の訪問、失礼いたします』
言い終わると同時に、扉が開かれる。一礼して上げられた顔は、確かに董承だった。
「お加減の優れないところ、押しかける形になり申し訳ありません」
言葉選びこそ遠慮がちではあるが、董承は迷いなく部屋へと入り込んできた。寝台まで近づいてきた彼から、ふわりと甘い香りが広がる。
これはどうしたことかと、荀彧は香りの出どころを見やった。
「董承殿……それは……?」
視線が自分の手元に向けられているとわかった董承は、早速手にしているものを突き出す。
「こちらをどうぞ」
薄紅色に咲き誇った、芍薬の花束だった。
目の前に差し出された花の中心から、瑞々しく優しい芳香が漂ってくる。
「あの……これは一体どういう……」
「それと、こちらも」
荀彧が戸惑っているのをよそに、董承は抱えていた籠を寝台横の卓へと置いた。
籠の中には、色づいた枇杷がこんもりと山になっている。
ますます、荀彧は困惑を隠せなくなった。何故董承が自分宛に、ここまで手厚い見舞いを。

「陛下からの、お見舞いのお品物にございます」

「な…………っ」
真の送り主の存在に、愕然とする。
言葉を失くした荀彧を前に、董承は淡々とした口調で話し始めた。
「先ほど、食堂でお倒れになった荀彧殿の話をお伝えしたところ、陛下はたいそうご心配なさって。私に、花と果物を持っていくようお命じになられました。貴方のお気持ちが少しでも紛れるように、今が盛りの芍薬と……そして少しでも滋養がつくよう、収穫されたばかりの枇杷を、と」
「陛下、が……」
ようやく出した声が、震えてしまう。
この芍薬の花も、そして枇杷も。すべては、帝からの下賜品ということに。

「確かにお渡しいたしました。では荀彧殿、どうぞお大事に……」
「お待ちくださいっ」
悲鳴のような声を上げて、荀彧は去ろうとした董承を引き止めた。
「己が不養生の招いた事態で……陛下からこのような品を賜るなど、畏れ多いことにございます」
荀彧は卓に手を伸ばし、枇杷の籠を取った。
これほど粒が大きく新鮮な果物は、市場には滅多に出回らない高級品だ。献上物であったに違いない。
「こちらはお持ち帰りください。そして陛下に、私などにお気遣いいただき申し訳ないと……」
「何か、勘違いされていらっしゃいませんか?」
黙って言葉を聞いていた董承が、険しい顔つきになった。
「帝から尚書令への下賜とでもお考えですか。これはあくまで、貴方への個人的なお見舞いでしかありません。だからこそ、私がひとりで参じたのではないですか」
「そういう、わけには……」
私的な贈与であると言われたところで、帝からの品である事実は曲げようもないのだ。
何より、帝個人の意向と強調されることの方が、今の荀彧には辛い。
「……そうであれば、尚のこと。拝領するわけにはまいりません」
せめて、多くの目に触れる形で行使された公的な下賜である方が、まだ受け取る余地はあっただろう。
帝が私心で、内密に動く。それこそが、危険な行為であるのだから。
「陛下の御心は、遍く平らかでなければなりません。このように内々の形で臣下に心配りをすること、そして臣下がそれを容れることは……真の慈悲に拠るやり取りであろうと、いずれは災いを招きます」
いくら個を語ろうと、周囲は彼の人を帝として仰ぎ見る。故に、すべての言葉と行動は、帝であるという認識を通した上で受け取られてしまう。
私の感情のまま動き、それが衆目に晒されれば。たとえ心は真実潔白だったとしても、決して好意的には見なされないだろう。
「こちらは、拝領いたしかねます。どうかこのまま……お引き取りくださいませ」
沈痛な面持ちで、しかし頑として。荀彧は花束と枇杷の籠を突き返した。

「貴方はどこまで、陛下の御心を踏み躙るおつもりなのです」
己が手の内に戻った品を抱え込み、董承は体を戦慄かせた。
「ただこれを、見舞いの品とありがたく受け取っていればそれで済む話であるのに……理屈ばかりを盾にしてっ」
語気は次第に強まっていき、声が上擦る。噛みつかんばかりの勢いで、董承は荀彧へと迫った。
「陛下は、貴方への想いを胸に踏みとどまっていらっしゃる。どうにもならぬと己が立場を嘆きながら、それでも貴方が傍に侍る姿をよすがに……それを知りながら、貴方はっ!」
「董承殿……っ」
激しい怒りに身を焦がす忠臣を、荀彧はやるせない思いで見つめた。
長安から今日までの長らくを帝に付き従ってきたからこそ、肌で感じているのだろう。帝の孤独と、哀切を。
故にせめてもと、心を安らげんとして必死なのは伝わってくる。彼の献身自体は、謀など臭わせぬ確かなものであるし、忠心の表意のひとつではあろう。
ただ、荀彧の目から見て、董承の視野は狭いのだ。帝の私心ばかりに気を取られていては、いつか必ず、足元を掬われる。己が行動が、逆に自身も、帝をも陥れる可能性に気づいていない。
「私は……私はただ、陛下に自らのお立場を」
「所詮は貴方も、曹操殿の駒でしかないのですね」
荀彧の言葉は、強い口調によって遮られる。その表情は、悔しさと虚しさに溢れていた。
「そんな貴方に心奪われてしまった陛下が……私は、哀れでなりません!」
形ばかりの礼をしたかと思うと、董承は怒りを滾らせたまま退出していった。



今ひとたびの静寂に包まれた部屋で、荀彧は顔を覆った。
手に残る芍薬の香りが、侘しく匂い立つ。

「……お許し、ください。陛下」

もしも受け取っていたら、彼の人の御心は満ち足りたのかもしれない。しかし、それは一時。
一時、私心が満たされたとしても、長く続くことはない。そしてまた、満たすために動いてしまう。
それが繰り返され、いつかどこかで露見してしまったら。帝の立場はより一層、薄氷を踏むが如く――――否、それ以上に危ういものとなろう。

残酷だとしても。今ここで、はっきりと伝え、示さなくてはならない。
自分が為すべきはただ、臣下として。侍中として尚書令として、誠心誠意を尽くす道以外にはないのだと。





「……戻りました」
禁中の入口にてその姿を目にした瞬間、董承は恭しく跪いた。
「ご苦労であったな」
光のない眼が、董承の傍らを見つめる。
出立の際に持たせた枇杷の籠、そして芍薬の花束がそこにあるのを見て、すべて悟ったように天を仰いだ。
「申し訳、ありません。私めの力不足にございます」
「………………いや」
帝は足音も立てず、董承へと近づいた。
花束をそっと拾い上げたかと思うと、中から一本だけ芍薬を抜き取る。


(それが、そなたの答えか)


花首が、指で押し潰された。




2019/05/23

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