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曇天日和

どんてんびより

芍薬を手折る(中)

荀攸が再び荀彧の許を訪れたのは、朝陽が差し込んでくる頃だった。
「お加減はいかがですか」
「公達殿……わざわざ、お越しくださるなんて」
朝早い訪問に驚いた荀彧は身を起こそうとしたが、荀攸はそれを制した。
「そのままで。登城の道すがらですし、お気になさらずとも大丈夫です、が……」
言葉は淡々としているものの、荀攸の眉間にはどうしても皺が寄ってしまう。
顔色こそある程度回復しているが、思ったより荀彧が元気を取り戻していないように思えたからだ。
「昨日は、きちんとお休みになられましたか?」
「はい。目眩は治まりましたし、お陰様で」
「それならばよかったです。決して、無理はなさらないでください」
「は、はい……」
荀攸の言葉尻が、いつになく強い口調になる。荀彧は思わず、じっと見入ってしまった。
感情を押し殺しているかのような表情はそのままだが、眉は吊り上がっている。
「その……ご心配おかけして、本当にすみません……」
ばつの悪い心地になり、荀彧は俯いた。
実を言えば、午後から登城するつもりでいる。しかし、この荀攸を前にしては口にし辛かった。
「っ、申し訳ありませんでした」
やや萎縮してしまった荀彧を見て、荀攸もはっと我に返る。
思う以上に強硬な態度に出てしまっていたことに気づいて、頭を抱えたくなった。
こんな風に、心苦しそうな顔をさせたいわけではなかったのに。
「いえ、とにかくその、休める時に休んでいただきたいと……ただ、それだけで……」
それ自体は荀攸の正直な思いだが、一方ではまた、別の思いもある。
今の、決して本調子ではない荀彧が狙われでもしたら、という不安が拭えないのだ。
失礼な心配であることは、重々承知している。荀彧には武芸の心得も十分あるし、過去には死線と隣り合わせの従軍経験もあるのだから。
しかし、その彼を容易く抑え込んでしまったのが、例の花壇荒らしの暴漢だ。
正体不明の、そして荀彧が口を噤まざるを得ないような存在への嫌悪感と焦燥感が、つい圧となってしまう。

「……そういえば。昨日満寵殿が、午後に何かあるようなことを仰っていましたが」
どことなく流れる気まずい空気を変えようと、荀彧は咄嗟に口にした。
食堂で目眩に襲われる直前、満寵が何かに誘おうとしていたことを思い出したのだ。
その話題を出されて、荀攸も凝り固まっていた表情を変える。
「ああ、それは……今日の午後、曹仁殿の部隊が調錬を行うのですが、そこに俺と満寵殿、郭嘉殿も立ち会うことになりました」
「なるほど……つまり、軍師の目から見た意見も求められた、ということでしょうか」
深く説明せずとも、荀彧は呑み込みが早かった。荀攸は黙って頷いた。
「研鑚を怠らぬ、曹仁殿らしいですね。そういえば、新しい陣形戦術を取り入れたいと仰っていたような」
「その通りです。満寵殿が最初に相談を持ちかけられて、俺と郭嘉殿も誘われました。忙しいだろうからと文若殿にはお声かけしなかったのですが、やはりお誘いしようという話になって」
「それは、申し訳ないことをしてしまいました……ぜひ私も、拝見してみたかったです」
「いえ、お気になさらず。またいつかの機会を待ちましょう。曹仁殿も物にされるまで、今後も繰り返し調錬される筈ですから」
せっかく誘いを受けたのであれば登城すると言い出しかねないと感じ、荀攸は先んじて言った。
当初こそ調練の場に荀彧も呼んで、集った将兵らの反応を窺うという目算も立てていた。
しかし、荀彧が倒れたとあっては話が違ってくる。これ以上、彼の弱っている姿を衆目には晒したくなかった。
「……では、俺はそろそろ失礼します」
「お立ち寄りくださり、ありがとうございました。郭嘉殿や満寵殿……曹仁殿にも、どうぞよろしくお伝えください」
「承知しました」
荀攸は深く礼をしてから、寝台より離れた。

「朝の早い時間帯に、失礼しました」
部屋から出たところで、朝の膳を手にして待っていた使用人と目が合った。
「いえ、とんでもないです。荀攸様にお見舞いいただけて、旦那様もきっとお喜びかと」
使用人は感慨深げに笑った。
彼は荀彧が幼い頃から仕えている古株で、荀攸とも馴染みだ。そのせいだろうか、荀攸の訪問は常に歓迎してくれる。
「……では」
軽く会釈をすると、荀攸は足早に荀彧の自宅を後にした。


「本当によろしかったのですか」
荀攸と入れ違いで入って来た使用人は、卓に膳を置きつつ心配そうな視線を向けた。
その意味を痛いほどわかっている荀彧だったが、力ない微笑みで返す。
「はい」
「ですが……」
使用人の脳裏に浮かぶのは、昨日訪れた無愛想な客人の姿だ。
覚えのある限りでは、初めて見る顔だった。挨拶もそこそこに去っていく背を見て、おかしいと直感した。
部屋に戻れば、荀彧からは来訪をなかったことにしてほしいと口止めされ、いよいよ喜ばしくない見舞いであったと察する。
根掘り葉掘り聞くことは立場上できないとはいえ、主が何かを抱え込んでしまっていることは容易に想像がついた。
しかも、長く親しんでいる荀攸にすら語れないとなれば、尚更事態は深刻ではないのか。
「……ここにいらしたのは、公達殿だけですよ」
使用人の気持ちを察しながらも、荀彧は言い聞かせるように頷いた。
董承の訪問など、なかった。そういうことにしておくのが、一番適切である、と。





午後の調練に先立ち、荀攸たちは曹仁の城内の私室に寄り集まっていた。
「よく来てくださった。まずはこちらを」
曹仁はすぐさま、図面を卓上に広げる。そこに書かれていたのは、八角形の大掛かりな陣形だった。
「これは……奇門遁甲ではありませんか?」
区切られた八カ所にそれぞれ宛がわれている文字を見た荀攸は、即座に言った。
「なるほど。全方位型の陣形、ね」
「遁甲式を足掛かりにするとは、面白い発想ですね」
郭嘉と満寵も、眼前に広げられた図面を食い入るように眺める。
「我が陣営も規模が膨れ上がった。また、先の年には帝をお迎えしている。これまでのように劣勢を覆す奇策、少数部隊による戦法のみならず、大軍ならではの用兵に慣れていくことも肝要と思い至った次第」
「帝を戴く曹操殿は、諸侯の中でも頭ひとつ抜けた格好。つまりは、その立場なりの戦い方がある……そういうことだね、曹仁殿」
郭嘉が確かめるような視線を送れば、曹仁は大きく首肯した。
「あえて全景を見せる陣を敷くことで、その威容で以て相手の戦意を制す。敵が果敢に崩そうと仕掛けてくれば内に誘い込んで迎撃し、殲滅する。そのような陣が作れぬかと考えていたのだが、そこで八門の図が思い浮かんだ」
曹仁は真上に『驚』の字を書いた区画を指差した。そこから右回りに開、休、生、傷、杜、景、死と巡っている。
「部隊と部隊の間は隙間がある。一見では、中央の大将が筒抜けということだ。誘い込みの罠と見せつけているようなものではあるが、しかし、大将がいつでも容易く出撃できるという見方もできよう」
「大将が見える位置にいる……つまりこちら側に分があるという余裕を見せることは、相手への挑発になりますね」
荀攸は近くにあった敵駒を取り、図面に置いた。すかさず満寵も味方駒を取り出し、二部隊を作り上げる。その隙間へと、荀攸は駒を走らせた。
「焦燥感や挑発に耐え切れず敵が突出した場合は、どうしてもこの細い道を通らざるを得ない」
「そこを狙い通りに追い立てて閉じ込め、押し潰す形で攻めれば……」
今度は満寵が、一気に両手で駒を囲い込むように動かした。荀攸が手を離すと、敵駒はあっという間に味方駒の波に包み込まれてしまう。
「ただし、これはあくまで防御主体、受動的な陣。設置型の罠にも近い。敵の攻めによって初めて成り立つ、ともいえるね」
成り行きを見守っていた郭嘉は、指で敵の駒を弾いた。
「できればもう少し、隊列には柔軟性が欲しいところかな。それに、今のところ城攻めには不向きだね。高い位置から矢を射込まれれば、こちらの分が悪いやも」
「郭嘉殿の仰る通り。なにぶん構想の段階ゆえ、数多の至らぬ点があるかと。遠慮せず、ご指摘を願いたい」
曹仁が真剣な顔つきで頭を下げると、郭嘉は微笑みを浮かべた。
「ふふ、そこまで謙遜しなくても。これからの戦を見据える上でも、私は面白いと思うよ」
「俺も郭嘉殿と同じ意見です。今の我々だからこそ試せる陣形ですし、物にする意味はあるかと」
荀攸が同調すれば、満寵も無邪気に目を輝かせる。
「守勢を是とする曹仁殿ならではの陣になりそうですね。これはぜひ、完成形を拝みたいな……よし」
満寵は思い立ったように頷くと、机上の端に残っていた駒をすべてかき集め、図面に並べ始めた。
あれこれ駒を動かす様は、さながら新しい玩具を手に入れた童子にも通じる。
「満寵殿。伝え忘れていたが、本日は驚門部隊と死門部隊の連携のみを…………」
調錬の予定を言おうとして、曹仁は諦めたように言葉を切った。最早、満寵には聞こえていないようである。
「こういうことになると、満寵殿は正に水を得た魚の如く……だね」
「……はあ」
すっかり慣れたとはいえ、郭嘉と荀攸は呆れた眼差しを向けた。





昼餉の膳を運んできた使用人は、部屋に入るなり驚いて声を上げた。
「まさか、城に行かれるおつもりですか?」
そこにはきっちりと装束を着こなし、髪を結い上げている荀彧の姿があった。
使用人の声に振り向いた荀彧は、苦笑いを浮かべる。
「昨日の今日では……それに今朝方、荀攸様もあれほど無理をなさるなと仰っていたではありませんか」
「重々、承知しています。ですが、どうしてもやらなければいけないことがあって」
「旦那様……」
「……我儘な主人で、すみません」
途方に暮れる使用人に、そして荀攸に対しても、後ろめたい思いが荀彧の胸中にはある。
しかし目眩がある程度治まった今、このまま家でじっとしている方が気が塞いでしまいそうだった。政務の遅れが気になることも確かなのだ。
「ああ、そちらはいただいていきます。いつもありがとうございます」
使用人の持つ膳を見ながら、荀彧は努めて明るい声をかけた。


荀彧が門をくぐったのは、陽が真南を過ぎる頃となった。
主たる者は食堂で昼食を取ったり、休憩室で休んでいるのだろう、城内の人通りは極めて少ない。
見知った顔に会うことなく執務室の前まで来た直後、曲がり角からやってきた人影に荀彧は立ち止まった。
「……董承殿」
「ご機嫌麗しゅう。ご回復されたようで何よりです」
昨日の今日で、態度はやはり刺々しい。しかしそれ以上は何も言ってはこなかった。
無愛想な会釈をしたかと思うと、そのまま荀彧の横を通り過ぎていく。
「…………」
晴れない気持ちのまま、荀彧は執務室へと入った。

席について真っ先に、昨日盛大に書き損じてしまった竹簡を手に取る。
改めて眺めれば、目も当てられないほど酷い有様だ。荀彧は引き出しから小刀を出すと、すぐさま読み辛い箇所を削り出していった。
「……よし」
粗方削り終わったところで、隣の卓から硯と墨を取る。
ゆっくりと磨るたび、墨が香った。嗅ぎ慣れた仕事道具の匂いは、心を落ち着かせてくれる。
普段より時間をかけて磨り出し、常よりも濃くなった墨を見て、ようやく筆を執った。
そこからの荀彧は、一心不乱だった。遅れを取り戻すべく筆を走らせ続けた。





「これより、調錬を開始する。まずは体を慣らすぞ!」
曹仁の一声で、歩兵隊、槍兵隊が一斉に構えを取った。調錬場に緊張感が走る。
「はじめ!」
「「「うおぉおお!」」」
合図と共に、それぞれが打ち合う。準備段階とはいえども、実戦さながらの迫力である。
立ち会った荀攸、郭嘉、満寵も真剣な目つきで、各兵らの動きをつぶさに追った。
驚門部隊と死門部隊を任される彼らは、曹仁配下の中でも精鋭と名高い。それに違わぬ動きといえた。
「流石は曹仁殿の部隊でござるな……拙者も、臆してはおれぬ」
今回は敵役として手合いを務めることになっている徐晃が、顔を引き締めた。
その頼もしい意気込みに、隣にいた満寵が微笑んで肩を叩く。
「頼むよ、徐晃殿。調錬とはいえ、敵役が本気で挑まないことには課題を見出だせない」
「承知仕った。曹仁殿、お三方のためにも、精一杯役目を務める所存」
「まあ、匙加減は徐晃殿次第、かな。あまり張り切り過ぎて、全員で華佗先生のお世話になりにいく……なんてことは避けたいよね」
「冗談でも恐ろしい発言は控えてください」
間髪入れず、荀攸が郭嘉に釘を刺した。もしも現実になったら、ある意味一番阿鼻叫喚となる光景である。

「おっと、これはまたお揃いで」
事前準備が一段落したというところで、やや軽い調子の声がかけられた。
皆でそちらを向くと、李典と楽進が連れ立って歩いてくるのが見える。
「満寵殿に、郭嘉殿に、荀攸殿まで……今日は皆さん、どうされたのですか?」
調錬場では滅多にお目にかからない知恵者三人がいることに、楽進は物珍しげな視線を向けた。
李典はすぐに理由をひらめいたらしく、にっと笑みを浮かべる。
「あ、ピンと来たぜ!まず満寵殿がいるってことは、今日はつまり、全員で曹仁殿のご意見番、ってことだろ?」
「ええ、曹仁殿からぜひと誘われまして」
満寵の答えに、楽進も納得した様子で頷いた。
「なるほど……私たちはこの通り、新しい陣形の調錬と聞いて見学に伺いました」
「まだまだ一部分だけと聞いちゃいるが、俺たちにとっても何かしら刺激になるだろうと思ってな」
「ふふ……皆、熱心なことだ」
郭嘉は周囲を見渡した。李典、楽進の他にも、興味深げに見守る将兵らが集まり始めている。

「そういえば……荀彧殿はいらっしゃらないのですか?」
「ああ、そうか!何か足りないと思ったら」
「……っ」
楽進と李典がそう切り出した瞬間、荀攸は辺りに目を配った。
二人の声はよく通る。いったん剣戟の音が静まっている今、先の発言に誰かしら反応は示さなかっただろうか。
「残念だけれど、荀彧殿は昨日から体調が優れなくてね……」
「昨日、食堂で目眩を訴えられて。本当ならお誘いするつもりでしたが……」
「ああ~……あの方は特に忙しそうだもんな。第一、近頃は政の方につきっきりのようだし」
「くれぐれも、ご無理はなさらぬようにお伝えください」
四人が会話をしている最中も、荀攸は周囲の観察を怠らなかった。
しかし目に入るのは、曹仁たちの調練の推移を興味津々に見守る者らばかり。こちらの集団に視線を投げたり、話を伺う様子の者はいない。
「……荀攸殿、いかがされたか?」
「っ、申し訳ありません」
徐晃に声をかけられ、我に返った荀攸は頭を振った。
どのみち、荀彧本人はこの場にいない。わずかな反応を頼りにするのは無策にも等しかった。
ならば、件のことは一度置いて、目の前の調練に集中すべきだ。軍師として見込まれている以上、責務は果たさねば。





「さて……と」
一段落ついたところで、荀彧は真新しい竹簡を広げた。
曹操は、次の目標を南陽に定めている。人口も多く豊かなこの領域を得れば、地盤はより強化されるだろう。
そのためにも軍備をしっかり整え、遠征を行う旨を上奏しなくてはならない。
頭の中で練り上げた文をしたためるべく、筆を握り直したその時だった。

「荀彧殿」
「はい……え、っ」
突然執務室に入ってきた姿に、荀彧は目を見開く。
「董承殿」
「突然申し訳ありません。実は先ほど、荀攸殿たちとすれ違いまして、言伝をいただきました」
「……言伝、ですか?」
訝しむ荀彧を前に、董承はやや早口で捲し立てた。
「午後の調練に参加する前に、どうしても軍師の皆様だけで話を詰めたいそうで、荀彧殿にもぜひお越しいただきたいとのことです。調練場の裏手でお待ちしていると」
「………………承知いたしました。すぐ、向かいます」
暫し沈黙した後、荀彧は筆を置いた。その手は、微かに震えていた。



調練場の裏手には、栗林が広がっている。
今の時期は、花の盛り。むせかえるような青臭い香りの中を、荀彧は黙って歩いた。
時々、城壁の向こうから激しい金属音と叫び声が聞こえてくる。曹仁の調練が始まったようだ。

「……お待たせ、いたしました。陛下」
栗の木の下で佇む後ろ姿を前に、荀彧は礼を捧げた。
「驚かぬのだな」
声をかけられた帝は、振り向かずに言った。荀彧は続けて答える。
「本日、私は午後より登城しておりました。公達殿たちは……そのことを知りません」
荀攸の名が持ち出された瞬間、謀ろうとされていることには気づいた。誰の指図であるのかも。
「董承殿の口から、私が登城していることが伝わっていたのだとしても……公達殿は決して、私を呼ばなかったでしょう」
今朝も見舞いに来ては、安静にするよう念を押してきた荀攸の顔が思い浮かんだ。
あれほど心配してくれている彼が、今更調錬のために呼び出すとは考えられなかった。むしろ執務室に押しかけて、帰宅を促してくるだろう。
「そうか……董承の早合点であったということか。はは、詰めが甘いな」
皮肉めいた笑い声を上げつつ、帝がようやく荀彧と向き合う。
晴れた空の下にいながら、瞳は真っ暗だった。

「同じ花でも、栗は匂いが好かぬ。そなたを待つ間、これが随分と癒しになった」
帝の視線が、左手に持つ花へと移る。
「あ……っ」
荀彧の目が見開く。見間違う筈もなかった。それは昨日、手元に届けられた花と同じものだ。
拝領することを固辞した、淡く芳しい芍薬の花。
「よい……香りだな」
愛おしそうな手つきで、帝は芍薬を撫でた。笑顔は虚ろで、満ち足りた想いはない。
「帝ではなく、劉伯和としての贈り物すら……そなたはいらぬと申すのか」
「……お心遣いはありがたく。ですが陛下と私は、帝と臣。私事のみのやり取りを介在させてはなりません」
帝の言葉に沈痛な面持ちになりかけるも、荀彧は毅然とした眼差しで話しかけた。
「帝が、天下万民に対して広く平らかに接する。その公の心こそ、皆は尊び敬うのです……どこかに偏りを生じさせれば、皆もまた、偏った目を貴方様に注ぎましょう」
「誰も朕のことなど見てはおらぬ。皆が畏れ敬うのは、曹操の方ではないか」
「曹操殿はこの乱世にあって、表立ち血を流す立場におられます。いつの世も、武に拠る働きが衆目に留まりやすいことは確かです。されど……」

「わかっている!」

荀彧の言葉を遮ったのは、絞り出すかのような叫び。
「わかって、いる。曹操は乱世を収束させるために戦っている。ただの私欲の塊であれば……この許昌もまた、荒れ果てていたであろうよ」
帝は肩を震わせた。固く閉じたその瞼には、幼少期から見てきた光景が次々に映る。
煌びやかだが張り詰めた宮殿。野心に燃える男たちの下卑た笑顔。次第に荒れ果てゆく都と民の姿。
物心ついた時から既に、向かうところ安住などないに等しかった。
何もかもが荒廃し、血腥さばかり漂う場所を生き抜いて。初めて目にした穏やかな街並みが、許昌だった。
「この地を踏んだとき、往来する民の表情が柔らかくて驚いた。董卓や郭汜たちとは違う……曹操は政が上手い、と。そんな曹操が、朕を必要だと言ってくれたとき……そして、そなたが現れたとき、どれだけ嬉しかったか」
いつの間にか兄が廃され、代わりに帝として担がれて。窮屈でたまらず、いつ身柄がどうなるか知れぬ恐怖に晒されていた、幼けなき頃。
寒さに凍える自分を見つけ出し、共に星を眺め、慰めの言葉をかけてくれたのは、とても美しい人だった。
いつしか会えなくなってしまったが、あの慈愛に満ちた温もりと優しさを、香りを。一度として忘れたことはない。この身に深く刻まれた、淡く輝ける思い出。
その思い出の人が、目の前に侍中守尚書令として傅いた、あの日。世界が急に、色づいて見えた。
子どもから大人へと変わりゆく己が身が、この高まりが何であるかを教えてくれた。この人こそ、我が初恋であると。
帝として、ようやく一歩を踏み出せる。傍らには恋い焦がれた人が立ち、この身を支えてくれる。初めて得られた幸福感であった。

「……所詮、ぬか喜びであった。朕はただ、誂えられた玉座に坐しているのみ」
曹操が決定したことは荀彧によって仔細を伝えられ、それに頷くだけで即座に事が進んでいく。
税の改定、戦に向けて兵站の準備、人員の確保、新しい土地の開墾。上奏される内容は確かに、至極まともな政といってよかった。
しかし何故こうも、あっさり展開していくのか。もう少し、論議が必要な箇所もあるのではないか。帝である自分に、吟味の余地はないのか。疑問が湧いた。
そうこうしているうちに、見知った臣下が一人、また一人と閑職に遠ざけられ、いなくなっていった。
ようやく悟ったのは、残された董承たちが恨みがましい目つきで、荀彧たちを見つめていることに気づいた時だった。

この地において、曹操のやり方に異議を唱える者はいない。
それは、自分――――帝がいるからだ。

かつて董卓が、我欲の思うままに暴虐を尽くせた理由。
帝を戴く者である、という正当性を、あの男が握っていたが故なのだ。だからこそ、理不尽で残酷極まりないすべての言動が罷り通った。
そして李傕と郭汜も、自らの野心を正当なものとしたかったが故に、躍起になってこちらの身柄を得ようとした。
帝が、手中にある。その状況こそが、その者の立場を重くする。大義を与える。
今、自分は曹操の庇護下にある。だからすべて、滞りなく事が運ぶ。帝を戴く者が持つ正当性を、曹操が保持しているからだ。

「朕は我儘だ…………庇護されなければ明日をも知れなかった身で、政ができぬと嘆くなど」
ふっと、帝の肩から力が抜けた。
「曹操も、そなたも。乱世の収束を願えばこそ、朕を必要としてくれているのに」
「…………っ」
荀彧は胸の詰まる思いで帝を見つめた。やはり何もかもを見通して、理解している。この若き帝は英邁なのだということを、改めて思い知る。
生半な言葉を尽くしてたところで、最早この方にとってはすべてわかり切ったことであろう。
それでも、諦めてはいけない。未だ静まらぬ彼の人の御心を慰撫するため、自分はいかに振る舞い、伝えるべきか。
「だからもういい。いいのだ。曹操やそなたが朕の威光を望むなら、それが乱世のためだというなら……朕はそれを受け入れよう」
「陛、下……?」
思考を廻らせようとした荀彧の瞳に映ったのは、表情からも強張りが抜けた帝だった。
口調も、完全に悟ったようなことを言い出して。急な態度の変化に、戸惑った刹那。

「っあ!」
突如として帝は荀彧に迫り、左手を掴み上げた。
手首をギリギリと強く握り締められ、手袋越しにも強い痛みが荀彧に走る。
「陛、下……っ!?」
思わず、気圧される。光を失った瞳が、眼前に迫っていた。
「そなたらが朕の威光を望むなら……朕も、そなたを望んだって構わぬだろう!」
「陛、下……!いけません、陛下っ!」
荀彧は青ざめながら、握られた手を振り解こうともがいた。
違う。それだけは、いけない。決して受け入れることはできない。受け入れてしまったら、その先に待つのは――――

「お願いです、陛下!お放しくださ……ぅあっ!?」
ガツン、と荀彧の首筋に衝撃が走った。
「っあ……」
目の前がぐらりと歪む。立っていられなくなり、荀彧は前のめりに頽れた。図らずも帝の胸元へと飛び込む形となり、体を抱き込まれる。
いけない。陛下から、離れ、なく、ては。

『陛下を弄び続けた、罰です』

背後の、いや、遠くで、声がした、ような。

ああ駄目だ。痛い。苦しい。目の前が、暗くなって、いく。

頬を、撫でられた。柔らかい感触、甘い香り。

これは、なに。わからない。わからない。


『じ ゅ ん い く』


名を呼ぶ声を最後に、荀彧の意識は途切れた。




2019/06/01

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