芍薬を手折る(下)
「っ……う……」甘く熟れたような香りがする。重く感じる瞼を、どうにか開けた。
「う…………んっ……ぁ……」
項が、ずきりと痛んだ。思わず怯んでしまい、首を反対側へと傾ける。
ふわりとした感触と、強い芳香に頬を撫でられた。
「え……?」
ぼんやりとしていた視界が、少しずつ輪郭を確かにしていく。
ようやく瞳が認識した目の前のそれは、柔らかな薄紅色をしていた。
それが芍薬の花首であることを悟った瞬間、荀彧の意識はついに鮮明さを取り戻した。
「あっ!?」
飛び起きようとして、違和感に押し留められた。腕が、動かない。
それに、初夏とはいえ妙に肌寒い。何故。
己が状況を確めようと、頭を動かす。首元に感じる痛みをこらえながら、荀彧は必死で周囲を見渡した。
「あ、あ……っ!!」
息が詰まった。あまりにも異常な光景。
頭上に映る木々は、先ほどまでいた栗林と同じ。芍薬の香りに混じって、独特の青臭い匂いも感じる。
栗の木のたもとに敷布が敷かれ、そこに横たえられているらしかった。
装束をすべて剥ぎ取られた、一糸纏わぬ姿で。
「やっ……あぁっ……!?」
両手は後ろ手に縛り上げられ、思うように身動きが取れない。
いつの間にか裸にされ、外気に晒されている。その事実に、荀彧は怯懦した。
「っ……!」
身を捩ろうとするたび、柔らかな薄紅が肌に触れてくる。すべて、芍薬の花だ。
右を向いても、左を向いても。芳醇な香りが降りかかってくる。
花首から刈り取られた見覚えある芍薬は、まるで荀彧の貌を囲むように散らされていた。
「荀彧」
頭上から、名を呼ばれる。それと同時に、何かがばらばらと体に降ってくる。甘い香りと共に。
眼前に舞い落ちてきたそれもまた、薄紅。芍薬の花びらであった。
「やはり、そなたには芍薬が似合う」
「陛……下……!?」
見上げたそこには、冕冠を外し、上着を脱いだ帝の姿があった。光をとうに失くした漆黒の瞳が、じとりと見下ろしてくる。
「ご、ご覧に、ならないで……くださいっ……」
裸を包み隠さず見られている。混乱と、羞恥と、恐怖とで、荀彧の眦が滲んだ。
せめて帝のどす黒い視線から逃れるべく、顔を背けようとする。
「っう!」
再び、ずきりと大きな痛みが荀彧の首を苛んだ。その痛みが、今まで曖昧になっていた記憶を呼び覚ます。
気を失う前、自分はいったい何をされたのか。帝に強く腕を取られて、振り解こうとして。
背後から思い切り、誰かに――――
「あ……」
罰、と言われたような、気がした。
刹那、別の気配を感じ取る。そちらを見やった。
「董……承…………殿っ!」
想像した通りの顔が、向こうの栗の木より覗いていた。こちらを冷たい眼差しで睨んでいる。
「あ、あっ……」
帝だけでなく、董承にまで。裸体を見られていることを自覚し、切ない悲鳴が零れた。
あの時殴ってきたのは董承だ。では、このような姿にされたのも、すべて。
「よそ見をするな」
「あぅっ」
目を眇めた帝が圧し掛かってきて、荀彧の顎を取る。
「や、陛下……っん!う……いっ……!んぅ!」
無理矢理な口づけであった。いきなり、下唇を噛まれて。微かに血の味が広がる。
痛みに思わず荀彧が口を開けたところを、帝の舌が容赦なく滑り込んできた。余すところなく、口内を犯してくる。
牡丹の花壇の前で受けた接吻よりも、それは遥かに暴力的な勢いを伴っていた。
「んっ……う、ぁ……は……あ…………」
息も、血も、唾液も、意識も。何もかもが吸い尽くされていくようだった。
苦しい。苦しい。
「ん、んっ……う、ううぅ……っ!!」
どうにか逃れようと荀彧が頭を振る。帝もさすがに息が続かなくなったか、ようやく解放してきた。
「っは……あ……」
離された唇から、銀の糸が伝う。淫靡な光を伴ったそれを、荀彧は朦朧としたまま見やった。
「もう……いいのだ。何もかも」
帝は寂しげに微笑みながら、荀彧の頬に手を添えた。
「朕は、そなたさえいればよいのだからな」
皆が望むなら。乱世のためだというのなら、私はこれまで通りの帝でいる。
その代わり。皆が私に対してこうであれと望むように、私も望むものを手にすればいいだけのこと。
こんな簡単なことを、何故もっと早くやれなかったのか。
「ここを、朕とそなたの、契りの場とする」
ここで、今から抱く。
本気でそう宣言されていることに、荀彧は怖気で震えた。
「い、やっ……それだけは、どうかっ……おやめ、くださっ……!」
必死に懇願しようとするのだが、怯えた声しか出てこない。
「陛、下っ……お願いしますっ……!」
手酷く詰られることも、憤りをぶつけられることも覚悟の上で、董承の稚拙な策に乗ることを選んだ。
今ここで逃げ出さず、はっきりと向き合わなければ。すべてを尽くして相対しなければ、後戻りはできないと。
だが、遅かった。彼の人の胸中で渦巻き続けた苦悩と煩悶は、最早、誰にも手に負えないものと化してしまっているのだ。
これほどのおぞましい選択に、踏み切らせてしまうほどに。
『死門部隊、前へ出ろ!』
『『『おぉおおおー!!』』』
城壁の向こうから、雄叫びが上がる。
「……っ!」
ここが調錬場の裏手であることを、まざまざと思い知らされる。
今まさに、曹仁の率いる部隊が気を吐いている最中なのだ。そこには、郭嘉も、満寵も。そして、荀攸もいる筈。
「助けを呼びたくば、叫ぶがよい。届くかもしれないぞ」
氷よりも冷たい帝の声が、頭上より落とされる。
「っ……う……あ……」
荀彧の頬を、涙が一筋、伝っていく。
今ここで、あらん限りの声で叫んだら。もしかしたら誰かは、聞き届けてくれるのかもしれない。
けれどそれは、帝もろともにこの醜態を晒すことを意味する。もしも、そのようなことになってしまえば。
「いけ……ません……どうか、どうか……お考え直し、ください……っ」
溢れる涙は拭うこと適わず、荀彧は震えながら首を振った。
このような姿を、誰にも見られたくはない。このような事態を、絶対に知られるわけにはいかない。
曹操を快く思わぬ者も、未だ多くいる。体で帝に取り入るような者を侍中守尚書令にまで押し上げたと、怒りの声に体裁よく使われるのは目に見えた。
そして、帝を色事で籠絡するような恥知らずの家柄だと、ここまで祖が築いてきた荀家の評も地に墜ちてしまうだろう。
それだけではない。逆に曹操たちが、帝に一層の厳格な目を向けることは、火を見るよりも明らかである。
白昼に臣下を屋外で組み敷くなど、普通の神経とは考えられない。狂乱の果てに奇行に走ったという醜聞が流されたら、帝の立場は危ういどころではない。事と次第によっては、帝に何らかの制裁が下されかねない。
曹操であれば、迷いなく断行するであろう。しかし、帝に咎を与えることに踏み切ったが最後、曹操は一転して王朝の簒奪者としか見なされなくなってしまう。
この有り様が露見することは、最早どちらか一方の破滅に終わらないのだ。下手をすれば、ようやく帝都たる基盤が築かれた許が動乱しかねない。
そうであればこそ。このようなこと、許されない。この先へと進んでは、いけないのに。
「もう、待てぬ」
帝は荀彧へと覆い被さり、無防備な首筋に顔を埋める。
以前、衝動のまま舐め上げたその滑らかな肌に、齧りついた。
「やめ……っあ!」
鋭い痛みが荀彧を襲った。唇を離されたそこには、赤黒い痕と歯形が残される。
「ふ……」
舌をちらつかせながら、帝は荀彧の鎖骨にも唇を寄せた。
赤子のように吸い付いたり、生温い舌を這わせながら、白皙の肌をたっぷりと味わっていく。
身体の自由を奪い取られている荀彧には、為す術もなかった。
「いっ……あっ!」
帝の唇が、ついに胸の尖りに触れてくる。
外気に晒され続けた上、這い寄る刺激を受けたそこは、既に形を明確にしていた。
生温かい口内に吸い込まれ、舌先でつつかれ、背筋がぞくりと震える。
「あ……やっ……およし、くださ……あぅ!」
反対の蕾には、指が触れてきた。親指と人差し指で丹念に擦り上げられ、そして押し潰されて。
痛みと、もどかしい快感が荀彧を苛んだ。
「あ、あっ……な、ぜっ……」
嫌なのに。受け入れたくないのに。どうしてか、体は感じてしまっている。
「効いているようで何よりだ」
「――――っ」
ぼそりと呟やかれたその言葉に、荀彧の目が見開く。
周囲を取り巻く香りは、散らされた芍薬のものとばかり思っていた。
しかしながら。確かに芍薬のものにしては、爽やかといえない。度の過ぎた甘ったるさも感じる。そうであれば、これは。
「まさ、か……っ」
恐ろしい推察に行き当たり、荀彧は顔を引きつらせた。
対照的に、帝は恍惚に蕩けた微笑みを浮かべる。そのまま、荀彧の傍らにある芍薬へと手を伸ばした。
特に花が密集している箇所を掻き分けると、小さな香炉が姿を見せる。
「董承が用意してくれたのだ……気持ち悪かったり、痛いばかりでは、そなたに辛い思いをさせてしまうからな」
「あ、うっ……」
完熟した強い芳香が漂う。少し吸っただけで、荀彧の頭はぐらりと揺れた。
やはりこれは、媚薬の。
「いや……っ、あ!んんっ!」
荀彧は顔を背けようとしたが、首の痛みに阻まれ、動きを止めざるを得ない。
そこで間を置かずに頬を取られ、唇を再び奪われる。今度は深く、呑み込まれるような接吻だった。
「んっ、ふ……ぅ……ん……っぁ……」
角度を変えながら啄まれ、舌が絡まってくるたび、全身が慄いてしまう。
頭では振り解きたいと思えど、生じる快感は否応なく荀彧を縛り上げていった。
「い、あ…………は……あぁっ!?」
ようやく唇が離れ、息を取り込もうとした瞬間だった。荀彧の下腹部に激しい感覚が走った。
「やぁっ!あ、そこはっ、あぁ、あ……!」
背中を仰け反らせ、今までになく生じる快楽にもがき苦しむ。
「お離し、くだ、さっ、やめ、て……やっ……!」
帝の細い指は、荀彧の茎に絡みついては、脈を打つ箇所を扱き上げた。硬く勃ち上がった先から、白い蜜が染み出してくる。
それを愉悦の表情で指先に絡ませつつ、帝は更に荀彧を煽り、追い詰めていく。
「あっという間に……濡れてきたな……っ」
「いっ、あ、や……あぁん……っ!」
反り返った首筋に、追い討ちのように噛みつかれて。
痛みと、滑った感触と。狂おしいほどの悦楽が、荀彧の頭を真っ白に染める。
「あ、あああ……――――っ !」
体が宙に浮くような心地がした。直後、粘ついた水音が響き、吐精の脱力感が荀彧を覆い尽くしてくる。
「っは、あ……はぁ……あ、やっ……!?」
たった今萎えかけた芯に、帝の指が纏ろってきた。吐き出された蜜ごと弄ばれる。
「やぁっ……もう、おや、め、くださっ……あ、ぁんっ……!」
薬の影響は甚大だった。昂りを手放した筈であるのに、帝の手つきに過敏な反応を示してしまう。内奥の熱はいっこうに収まる気配がない。
荀彧の体は最早、己の意志でどうにかなるものではなくなっていた。
「荀彧……っ」
帝もまた、媚薬の匂いを浴び続けていた身である。心はとうに呑まれていた。
欲に塗れた年若い雄にとって、これほど目に毒な光景があろうか。愛する人が泣きながら婀娜に惑う、それも、己が腕の中で。
下着の間からは、早く解放してくれと云わんばかりに怒張が顔を出した。
生唾を呑み込むと、帝は今一度、荀彧の股や腹を撫で擦った。散らばった精を掬い取るようにして、指に擦りつける。
「っあ!やぁあ……っ!」
荀彧の菊座に、指が這う。濡れそぼった指先は、その内々へと押し入ってきた。
「ひぃっ、ぁ、っ!その、ようなっ……あ、やぁ……!」
切なく、苦しく、しかし甘さを過分に含んだ悲鳴。
自分のものとは思えぬ声しか出せなくなっていることが情けなく、荀彧の目尻は熱を増して。涙と嬌声とが、交互に零れ落ちていく。
「あ、ぅ……や、あ、あんっ、あ……んっ!」
帝の指は時に優しく、かと思えばいきなり激しく荀彧をかき乱す。
少しずつ、丹念に。そして強引に、確実に。固く閉じられていた蕾が、解されていく。
「ああぁ……っ!?」
柔くなったところに、いよいよ帝の指が奥深くまで入り込んできた。
その途中で指を曲げられ、軽く触れられる。その一点から、強烈なまでの快感が荀彧の体に走った。
「やあぁっ!?あ、あっ!だめ、やめてぇっ、やめ、っあぁ……!」
臣下として外聞を取り繕う余裕もなかった。そこを押さえ込まれてしまったら終わりだと、本能が告げてくる。
支配されてしまうという恐怖感からどうにか逃げようと、荀彧は必死に藻掻いた。
しかし抵抗はなんら意味を成すことはなかった。帝の指は執拗に、探り当てた泣き所を責めてくる。
「やっ、あ、あっ!ああっ!あ、あう……っ!」
「気持ち、よいのだな……荀彧っ」
調錬場の方から時折聞こえてくる喧騒も、帝には気にならなかった。
自分の手に翻弄され、甲高くなっていく荀彧の喘ぎ声のみが、鼓膜を揺さぶってくる。
「っひ、あ!あっ、やっ、や、あ、ぁあぁああっ!?」
荀彧は再び、天高く放り出されるような心地に追いやられた。しかし先刻とは、何かが違った。
「っぅ……あぁ……あ……!?や、やだぁ……どう、してぇっ……」
達したという感覚はあれども、腰の間をいつまでも熱い奔流が駆け巡る。そこでやっと、精を吐き出していないことに気づいた。
なけなしの解放感すらも得られないまま、過ぎたる快楽が獣のように荀彧を貪る。
「だ、め……こんな、っ……や、ぁ…………!」
「あぁ、荀彧……楽に、してやる……!」
無意識に腰を揺らめかせる荀彧の痴態が、わずかに残されていた帝の理性を焼き切る。
帝は荀彧の足を持ち上げると、内部を犯していた指を引き抜いた。そこに、いきり立った己が雄芯を押し当てる。
今こそ。ついに。
この人を我が手に抱く時が来たのだ。
「っひ、いっ!いや、あ!」
荀彧は反射的に後ずさろうとしたが、帝の腕に腰をがっちりと抱え込まれてしまう。
逃げ場を失ったそこを目がけて、容赦なく杭は穿たれた。
「あ、や、ああああぁ……っ……!」
痛みと、圧迫感と。形容し難い粟立つ感覚が、一度に荀彧の背筋を駆け抜ける。
「っぐ……ふぅ……!」
荀彧の内なる温もりが、きつい締め付けと共に帝へと迫った。想像以上の気持ちよさだ。一瞬、意識が飛びそうになってしまう。
何もしないまま果てるようではどうすると踏み止まり、奥深くまで貫かんと帝は腰を突き出した。
「っは、はは……荀彧め……すべて、呑み込んでくれるのか……」
根元まで受け入れられた様をじっと見つめるうち、帝は自然と笑った。
こみ上げてくるのは、どうしようもないほどの征服感。
夢幻の中で何度、こうなることを望んで、届かぬ想いを吐き出し続けたことだろう。
ついに、私のものだ。
「うあ、ぁああっ!荀彧、荀彧っ!!」
半狂乱の叫びを上げながら、帝は一心不乱に抽送した。
猛り狂った剛直で荀彧の内奥を抉り、激しく擦れ合わせ、全身で恍惚を味わう。
これがやがて覚める夢ではなく、紛うことなき現だと確かめるように。
「あ、ぁう!や、め……っ、ん!やっ、あ、あ……!」
若い肉体に蹂躙されるまま、荀彧は泣き喚いた。
抗う力など、指一本残されていない。暴力的な情動を受け入れることしか許されない。
これを現だと信じたくなかった。せめて覚める夢であってほしかった。
「や、あ……っ!ぁ……い、や……あぅう、ぁあ…………!」
濁流が押し寄せるかのように、荀彧に今ひとたびの絶頂が迫り来る。帝もまた、追い縋るように果ての景色に辿り着こうとしていた。
「あっ……じゅん、いく……っ!!」
「っひぅ!あ、やっ!あ、あっ、あ……っぁ、あああ――――っ!!」
より一層、奥深くを抉るように貫かれた瞬間、荀彧は蜜を迸らせた。
それに呼応するが如く、内壁が小刻みに痙攣する。うねりとなって、帝の昂りを締め上げてくる。
「っ、うぁ……!」
包まれる悦びに浸り、ようやく手中に収めた喜びを抱きながら、帝もすべてを解き放った。
「……っ」
今どこかで、人の声がした、ような。
「荀攸殿、どうしたんだ?」
突然虚空を見上げた荀攸を、隣にいた李典は不思議そうに見やった。
「あ、いえ……」
勘の冴える李典が特に気にした様子がないことを見て取り、荀攸は押し黙る。
今の今まで、熱の入った怒号と剣檄の音を至近距離で聞き続けていたのだ。耳が麻痺していても仕方がない、と結論付ける。
「荀攸殿、李典殿。いかがだったであろうか?」
撤収作業を配下たちに命じ終えた曹仁が、二人に歩み寄ってきた。
「いやもう、お見事でしたよ!槍兵の練度において、曹仁殿の右に出る部隊はないですね」
俺のところもしっかりしなきゃなぁ、と苦笑を浮かべつつ、李典は頭を掻いた。
荀攸も軽く頷き、求められた私見を述べる。
「死門部隊の槍兵の動きは素晴らしかったと思います。ただし、部隊ごとで持たせる武器を統一するよりは、部隊に槍兵も歩兵も配置し、交互に整列した方がよいのではと俺は思いました」
「ふぅむ……なるほど」
「それから驚門部隊は、更に盾兵を増員して、前方の防衛線を盤石にしてもよろしいかと。敵に対して真正面を向く部隊ですので」
「確かになぁ。徐晃殿のように、あれだけ長柄を扱える猛将が相手だと、あっさり正面突破されちまうかも……」
李典は、論議が白熱している一角をちらりと見やった。
敵方を務め上げた徐晃を交えて、郭嘉と満寵、そして楽進も加わり、あれこれ話し合っている。
「徐晃殿、さすがのお手並みでした!歩兵を次々に薙ぎ払う姿、この大斧を振るっているとは思えぬほど俊敏で」
「お褒めの言葉、かたじけない。しかし盾や剣を随分と損壊させてしまったような……申し訳ござらぬ。少々やり過ぎてしまったか」
「いやいや、そんなことはないよ!調練はこれくらい本気でないと!やはり歩兵だけで固めている箇所は弱点となりやすいね」
「でも、歩兵にも利点はあるからね。徐晃殿に隊列を割られても素早く立て直せていたし、あの機動力をもう少し……そう、別の部隊で生かせないかな」
「……今の我が軍は、本当に充実しているな」
曹仁は感慨深げに頷いた。
「武に優れた者と智に優れた者が揃い、忌憚なく意見を述べ合える。幸せなことよ」
「それは確かに。腕っぷし頼みで進軍してたあの頃に比べたら、変わりましたよねぇ……」
李典も昔を懐かしむように言うと、荀攸の肩をぽんと叩いた。
「あんたらのお陰で、うちも大分動きのいい軍勢になってきたっていうか!有能な軍師が揃ってるってのはありがたいことだな」
「いえ、これも皆様方の優れた智勇あってこそ。俺たちも、共に策を練る甲斐があります」
やや控えめな調子で、荀攸は頭を下げる。曹仁も拱手の礼を返した。
「過分なお言葉、ありがたい。今後とも、折を見てこの八門陣の調練にお付き合いいただけるだろうか?」
「はい。それはもちろん……」
「曹仁殿っ!」
八門陣の図面片手に、勢いよく満寵が割って入って来た。
「思いついたことがあるんですが、ぜひ聞いてください!死門部隊の西隣は景門部隊ですよね、ここは思い切って歩兵のみで固めて、あとは」
「満寵殿、また悪い癖が出ているでござる。そういきなり捲し立てずとも」
古馴染みらしく徐晃がたしなめれば、郭嘉はくすりと笑って楽進に目配せする。
「ふふ、確かに……ここで立ち話するくらいなら、場を改めてゆっくり、語り明かそうか。ね?」
「本当ですか!ならば私もしっかり学んで、どこに陣形の隙があるのか確かめないと。そして次回はぜひ、私と李典殿で敵役を務めさせてください!」
「おいおい、本気かよ。あと勝手に決めんな」
いきなり巻き込まれた李典は、当惑及び抗議の声を上げた。その背後より、荀攸は郭嘉へ呆れた眼差しを注ぐ。
「郭嘉殿は、酒にありつく理由が欲しいだけでは?」
「武将と軍師が同じ卓を囲み、同じ酒を飲みつつ策を語らう……うん、とてもいいと思うけれど?」
荀攸の視線に、郭嘉も負けじと悪戯っぽい微笑みを返してきた。
「確かに……そうですが」
ひとつため息をついて、荀攸は目の前の賑やかな光景を眺め回した。
異なる立場の者が、垣根なく意見をやり取りする。曹仁の言う通り、陣営は今まさに充実しているといえた。
曹操という稀有な雄を戴き、有能な人材が集ったこの場において、戦術家及び軍師の立場でいられる。その幸運を、改めて実感する。
(しかし、文若殿は)
この場に自分を推挙してくれた当事者は、苦しみの只中にいる。
自分は恵まれた環境を与えられ、腰を落ち着けている一方で、彼は得体の知れない存在に脅かされているのだ。
こんなにも充実一途の陣営であるのに。しかも彼こそは間違いなく、最大の功労者の一人であるのに。
今の彼にとっては、ここすらも気の休まらない場所なのかと思うと、歯痒くてならなかった。
「荀攸殿。貴方も来るよね?」
いつの間にか飲みに行く方向で話が纏まったらしく、郭嘉が改めて誘ってくる。
「……了解です」
露骨に出していないが、荀攸としても此度の八門陣は目新しい点が多く、興味深いのは確かだ。
いずれ平原での大規模な調錬に発展するだろうし、完成されて実戦に投入される日も待ち遠しい。なるべく協力はしたかった。
それに、街に出向けば何かしら、見舞いの品も調達できる。早めに抜け出して、帰りがけに伺おうと算段をつけた。
彼は、心身を休めることができただろうか。滋養をつけるには何がよいだろう。
ぼんやりと考えつつ、荀攸も皆と連れ立って調錬場を後にした。
「っ……あ…………はぁ…………ぁ……」
視点の合わない虚ろな瞳には、何も映っていない。
ただ、か細い呼吸のみが繰り返されて。やがて静かに、荀彧の瞼は閉じられた。
「…………」
荀彧を見下ろす帝の瞳から、ぼろりと涙が零れ落ちた。
若さと情動に任せるまま、暴れ狂って。手元に残ったは、傷つき疲れ果てた愛する人。
こんな形で、手に入れたかったわけではないのに。心を奪えるわけではないことくらい、百も承知であったのに。
「――――綺麗、だ」
それでも、抑え切れなかった。恋慕ってきたこの人を手折ることでしか、最早己が心を保てなかった。
背ににじり寄る後悔を、荀彧の体中に散らした所有痕を眺めることで振り払う。
この赤黒い痕こそは、この人を我が物とした何よりの証。ようやく抱くことができたという満足感に、すり替えた。
時が止まったかのような二人の背後で、董承は粛々と後始末をしていた。
芍薬の中に隠しておいた香炉の蓋を開け、掘った穴に燃え尽きた灰をすべて捨て去る。
香炉を懐にしまい込み、穴を塞いでいたちょうどそこに、小さな馬車が到着した。
「陛下……」
茫然としたままの帝に、董承はそっと声をかけた。
体格のいい馭者と、馬車の中から出てきた宦官も近くに歩み寄る。二人とも、やや緊張した面持ちだ。
「やってくれ」
「は、はい」
董承に促された宦官は、手にしていた包みから晒し布を取り出し、荀彧の傍らにしゃがみ込んだ。
それを見た帝は、咄嗟に宦官の手から布を奪い取る。
「陛下……っ」
手ずから荀彧の体を清め始めたことに、董承も宦官も、困惑の眼差しを向ける。しかし帝は頑として首を振り、黙々と手を動かした。
互いに何度も吐精し合い、白濁に塗れてしまった荀彧の下半身を、丁寧に拭っていく。
「ん……あぅ…………ん……」
時折、荀彧の口からは、苦しげな吐息が零れ落ちた。
「あ、あの、陛下……ではこちらを……」
「……すまぬ」
宦官が持参した紺色の――いつぞやの上掛けを受け取ると、帝はそれを荀彧に被せた。
「よし……運ぶぞ」
「は、はいっ」
董承と馭者、二人がかりで荀彧を抱え込み、慎重に持ち上げる。
馬車の中へ荀彧が運び入れられると、帝もすぐさま後を追って乗り込んだ。
「……わかっているな?この件は他言無用だ」
入れ違いで馬車から降りた董承は、厳しい目つきで宦官と馭者に念を押した。
「ははっ」
礼を捧げると、宦官は芍薬ごと敷き布を回収し、まとめて小脇に抱える。
そのまま栗林を駆け出していくのと同時に、馬車馬ものっそりと動き出す。馬車の背後には、董承がついた。
「荀彧……」
二人きりとなった馬車の中、帝は今一度荀彧に纏ろった。
上掛けから覗く肢体には未だ火照りが燻っており、頬には赤みが差している。仙女もかくやという艶めかしさだった。
あれほど欲望を叩きつけたというのに、また腹の下へと熱が籠っていくのを感じ取る。
「敷布があったとはいえ、随分と無理をさせてしまった……すまない」
帝の指先が、荀彧の頬に触れる。やがて昏い想いを宿したままに、形の良い唇をなぞり上げた。
「っ、あ……」
ぞわりと肌が粟立つ感覚に、荀彧の瞼が開かれる。
しかし、意識の覚醒もままならぬうちに、唇は塞がれた。
「ん……ぅ…………っ」
無抵抗の舌を絡め取られ、嬲られて。頭を振って逃げる気力も、荀彧には残っていなかった。
「褥では、ゆっくり可愛がってやろう」
静かに告げた帝の背後に、夕陽が見える。
揺らぐ視界に映る空は、燃え盛るような激しい赤に染まっている。痛いほどの眩しさが、荀彧の瞳に涙を滲ませた。
「おゆ……る、し……を…………」
落日の光を背にした帝の顔を、はっきりとは窺い知れない。
ただ、夜闇のような瞳と、澱んだ笑顔がそこにあることだけは、わかっていた。
2019/06/21