隷属の華【十】
洛陽へと舞い戻った呂布たちが目にしたのは、黒煙燻る変わり果てた都の姿だった。「なんと、洛陽がこのような…!」
普段は何事にも動じぬ胆力のある張遼ですら、目の前の惨状に表情を曇らせた。
宮殿は見る影もなく焼け落ち、街からは未だ火の手が上がっている。
逃げ惑う人々の悲鳴、炎によって焼き焦がされる臭い。華やかなりし国の都は地獄と化していた。
「嘘だろう…こんなのありかよ…」
「母ちゃん、母ちゃーん!!」
「うわあああ…!」
兵士たちも多くが茫然自失となり、中には発狂する者もいた。
洛陽の街に家族を、愛する者を残していた者たちの悲しみが辺りに広がっていく。
「ああ…董卓様、なんということを…!」
貂蝉もまた、馬上で泣き崩れた。
洛陽を捨てるだけでなく、灰にするとは。国そのものを燃やされた心地だ。
「董卓め、どこまでも肝の小さい男よっ!」
貂蝉の涙を見た呂布が、改めて怒りに肩を震わせる。
「落ち着け、諦めてはならぬ!堀の水で消火できる箇所があれば出来るだけ行うぞ!」
「は、はいぃ…」
「怪我人がいれば救出し、避難させよ!己が大切な人々を助け出せるか否かは、己の力にかかっている!」
冷静さを取り戻した張遼が、周囲にいた兵長たちに指示を出して奮い立たせる。
立ちすくんでいた兵士たちも、張遼の言葉を受けて徐々に動き始めた。
その様子を眺めつつ、呂布は貂蝉に訊ねた。
「ところで貂蝉、王允の隠れ処は何処だ。洛陽郊外とは聞いているが」
貂蝉はハッと我に返った。
今は嘆いている場合ではない、一刻も早く王允と合流しなくては。
「ここより北なのです。ご案内します!」
貂蝉は手綱を取り、洛陽の北側に向かって芦毛を走らせる。呂布と赤兎馬もそれに続いた。
振り向きざま、張遼の背中に声を掛ける。
「張遼、そっちは任せたぞ!」
「御意!」
外堀の向こうに存在する林の中に、ひっそりと隠れ処が存在している。
扉の前では、王允が今か今かと貂蝉たちの帰りを待っていた。
「貂蝉…!」
蹄の音と共にやってくる待ち望んだ二人の姿を見て、王允は安堵の表情を浮かべる。
「お義父様!よくぞご無事でっ…」
芦毛から素早く降りて、貂蝉は王允と抱き合った。
親子としての再会を喜び合うも、すぐに王允は呂布に頭を下げた。
「呂布殿…申し訳ないことをした!そなたの武を当て込んで、董卓殿は」
「ああ、伝令から聞いている」
董卓の狙いは、呂布にも想像がついた。
国の都たる洛陽を拠点とされては、余計に連合軍が勢いづくと思ったが故の暴挙であろう。
洛陽を燃やし尽くし、連合軍の戦意を喪失させる。だがそれは、呂布の望む戦の姿に悉く反するものであった。
「俺もこれから長安へ行く。あの豚には言ってやりたいことが山ほどあるからな…!」
血気に逸る呂布だったが、突如、頭の羽飾りをぐいと引っ張られる感触が走った。
「む…?なんだお前」
振り向くと、芦毛が呂布の羽飾りを咥えている。
一体何のつもりかと眉を顰めた瞬間、後方で声が上がった。
「奉先様!こちらを」
貂蝉が目にしたのは、赤兎馬の臀部に出来た傷跡だった。
流れ矢か何かが刺さったと思われるそこから、血がじわりと滲んでいる。
「っ。赤兎!いつの間に」
愛馬の思わぬ深手に、呂布も驚きを隠せない。
ここまで常と変わらぬ様子で走っていたため、異変を察知できなかった。
「赤兎馬のことですから、自力で矢を振り落としたのでしょう。暫しお待ちを!」
王允は傷を見るなり、隠れ処の中へと駆け込んでいった。
「そうか…すまなかったな」
赤兎馬の鼻面を、呂布は優しく撫でた。
思えば、気性の激しいこの馬が、やけに大人しい。我慢していたのだろう。
「呂布殿。こちらをどうぞ」
「助かる」
王允が持ってきた酒を口に含み、赤兎馬の傷口に吹きかける。
すかさず貂蝉が布で傷口を押さえた。
赤兎馬はじっとしていたが、赤い馬体に若干の脂汗が滲むのが見えた。
「…お前、これを俺に教えてくれたのだな。感謝するぞ」
呂布は、愛馬の隣に佇んでいる芦毛を見やる。
酒の刺激に耐える赤兎馬を落ち着かせるかのように、老馬はぴたりと寄り添っていた。
長安東門の楼閣では、集まった文官及び兵士たちが息を潜めていた。
「さぁて…どれくらいで到着しますかね」
何顒の視線は、先刻伝令二人が向かった東の先に注がれ続けている。
逆に荀攸は、西に浮かぶやや膨れた弓張月を見上げていた。
「満月であれば動くのを躊躇いましたが、この程度であれば十分事は成せるかと」
「まあな。真っ暗闇でも動くに動けねぇし、丁度いいだろう」
荀爽の見立て通り、李儒宛の早馬が到着したのは夕刻のことだ。
届いた書簡によれば、明日の早朝には長安入りするというお達しだった。
ならばこの夜間が唯一残された機会。否が応にも、緊張感が漂う。
「しかし本当にお前、呂布とやり合うつもりか。死ぬぞ?」
ふいに、心配そうな顔で何顒が覗き込んできた。
「やり合う、といっても足止めをするだけです。それには俺が一番適任だ」
荀攸は腰に巻き付けた愛用の得物をさすった。
鋼鞭剣は一対一での戦闘よりも、馬や兵士の足を薙ぐなど場を撹乱する際に真価を発揮する。
呂布は董卓の馬車を警護している筈。ならば他の馬車や兵士とわざわざ当たる必要はない。
赤兎馬と呂布の動きを一瞬でも止め、その隙を衝いて董卓に引導を渡す。
鬼神を足止めするという一番危険な役を、荀攸はあえて自ら引き受ける覚悟でいた。
「呂布はそもそも、董卓に対して然したる情はありません。俺を打ち払うことに躍起になれば、董卓の身など放り出すかと」
「まあ、そうだけどよぉ…」
下手を打てば荀攸を犠牲にすることになる作戦だ。
何顒は煮え切らない思いのまま、頭をガリガリと掻いた。その直後である。
「二人が戻ってまいりました!」
城壁に取りついていた文官が、短く叫んだ。
「は?」
「早すぎんだろう!?」
慌てて二人も城壁から外を見やる。
文官の言う通り、伝令に出した二人が勢いよく馬を駆けつつ舞い戻ってきていた。
送り出してからまだ大して時は経っていない。胸騒ぎがした。
「どうしました!やけに早いですね」
城壁を駆け下りた荀攸たちは、戻ってきた二人を出迎えた。
彼らは慌てた様子だった。よからぬ情報を以て戻ってきたのは間違いない。
ぜえぜえと息を切らす二人が落ち着くのをまずは待った。
「ていうかお前、すげえな…こいつ、董卓に押し付けられた駄馬だぞ?」
何顒は変な所で感心していた。文官が乗っていたのは何顒が貸し与えた馬だが、長安入りの際に董卓が用意した安馬だ。
それを、馬に慣れた兵士と並走するまでの速度で走らせてきたことにやや面食らった。
「ああ、ど、どうも…父、が、馬好き、でした、ゆえ…げほっ」
「ううわ、無理に喋るな!ほれ」
咳き込む文官に水を渡した。文官はそれを勢いよく飲み干す。
「…申し上げます。董卓の軍勢、既に長安の間近まで迫っております!」
息を整えた兵士が、まさかの事態を告げた。続けざま、落ち着きを取り戻した文官も報告する。
「あの進軍の速さ、今宵の入城も辞さぬのではないかと思われます。野営をする気配はありません」
「な…!?」
一団に明らかな動揺が走った。荀攸も、想定外の報告に体が強張る。
「夜に紛れてこそこそ、だぁ?どういうつもりだ」
何顒は訝しんだ。董卓ほど悪名の高い人間なら、白昼に行動する方がかえって安全である。
まして一度、夜間に曹操に踏み込まれている身だ。夜中に動き回る危険性は、身を以て知っている筈。
「もう少し詳しく聞かせてください。行軍の中に、豪勢な馬車がひとつありませんでしたか?」
荀攸の問いに、兵士ははっきりと頷いた。
「仰る通りです。列の中段よりやや後ろ、夜間でもわかる一際大きな馬車が」
やはり、と荀攸は得心した。間違いなく董卓が乗っている。
帝がその身に相応しくない簡素な馬車でやってきた際に、予測はしていた。
自分がのうのうと避難する時のため。長安入りしてからは街中を闊歩するため。天子の馬車を出し渋ったのだろうと。
「警護の兵士は数多いますが、呂布や華雄の姿はありませんでした。朝に入城するにしても、猛将が傍らにいなくては心許ないと判断したのやもしれません」
「……」
文官の追加報告を受け、荀攸は沈思した。
宮殿入りを果たしてしまえば手の出しようがなくなるからこそ、暗殺計画を練ってきた。
想定が崩れたからといって、ここで引き下がるのは得策と思えない。
むしろ、呂布がいないという情報は、願ってもない好都合。
「…了解です」
執るべき結論を導き出した荀攸は、周囲を見回しながら言った。
「呂布がいないのであれば、我々でも対応かと。恐らく入城の際は、この東門を選ぶでしょう。こちらから打って出ずとも、東門に到着したところを迎え入れる素振りを見せた隙に」
「ですが、呂布が実は伏兵として潜んでいるとは考えられませんか?」
恐る恐る疑問の声が上げられた。その問いには何顒が答える。
「呂布は、己の武を真っ向から振りかざす生粋の武人だ。仮に董卓が伏兵なんか命じたところで、応じたりはしないだろう」
「ええ。呂布は、自身の武が小賢しい策の一部に組み込まれることは嫌う筈」
「呂布がいなけりゃ大分やりやすい。なら荀攸殿、立場逆転だ」
何顒は懐から小刀を取り出し、荀攸に放り投げた。
「素早く動けるお前の方が適任だろ」
「わかりました」
受け取った小刀を握り締めつつ、荀攸は小さく返事をした。
荀爽はひとり、帝の寝所まで呼ばれていた。
帝の身の回りの世話は李儒の差配に一任されており、なかなか会う機会が得られなかった。
しかしその李儒は今夜、董卓の迎え入れで奔走している。
その隙を狙い、帝は女官を荀爽の許まで走らせた。荀爽もすぐさま求めに応じた。
「陛下。荀慈明、参りました」
寝台の傍まで向かうと、横たわっていた帝が嬉しそうに起き上がった。
「おお、荀爽……来てくれたか」
やっと気心知れた臣下と会えた喜びに、帝は顔を綻ばせた。
しかし荀爽は、目にした帝の姿に戦慄した。
「へ、陛下っ…なんとおいたわしいっ」
肌は少年のものとも思えぬ程にくすんでしまっており、頬はこけている。
やつれ果ててしまった玉体に、思わず涙を流した。
「李儒殿も女官たちも、一体何をしているのか…!」
一番近くにいながら、こんな状態の帝を放置している李儒たちに怒りが渦巻く。
そんな荀爽に対し、帝は健気に首を振った。
「いいのだ。わたしがほとんど食事をとれていないせいだ。李儒は悪くない」
「それならば、医師なり薬師を…っゲホッ!」
言い募ろうとした荀爽の喉奥に、焼けつく痛みが走った。
帝は慌てて、激しく咳き込む荀爽の背中をさする。
「そなたこそだいじょうぶか!?わたしは、無理にそなたを呼んでしまったのか」
恐れおののく帝に、荀爽は震えながら笑いかけた。
「な、んの……元々私は、老い先短い身でございますから。お気になさらず」
「じゅ、荀爽…」
荀爽から漂う、背筋が薄ら寒くなるような気配。帝は思わず怯んだ。
「そ、それより…陛下、この老骨でよろしければなんなりと」
「……っ」
帝は、黙りこくってしまった。
時折口元を開くのだが、その先の声が続かない。
なかなか思ったことを口にできない帝を急かすことなく、荀爽は傍らに控え続けた。
「その…明日、董卓が来るんだな?」
やっとの思いで、言葉が紡がれた。
「は、はい、そのようです。李儒殿からお聞きになりましたかな?」
「そなたの甥…荀彧は、潁川にいるか?」
「…はい?」
急に持ち出された荀彧の名に、荀爽は戸惑った。
「あの、陛下?文若が何か…」
脈絡のない問いの意味を考えあぐねているうちに、突如その台詞は降って湧いた。
「うそだ。荀彧は董卓のそばにいる」
「来たぞ」
伝令の二人が言った通り、そして荀攸の予測通り。
いくつもの馬車と荷車が連なった長い列が、長安東門前に姿を現した。
それを目にした者たちは互いに目配せをし、所定の位置に着く。
ある者は東門の門番として。ある者は近くの茂みに体を臥せ。またある者は、城壁の死角に身を潜ませ。
来たるべきその瞬間を、皆で待った。
「門を開けよ。董卓様のおなりだ」
先頭の兵士が、やや声を顰めながら門番に伝えた。門番は恭しく頭を下げて、東門を開け放つ。
馬車は次々と門を通り、宮殿へと向かっていった。
(…あれだ)
茂みに潜んだ荀攸の目に、列の後方からやってくる大きな馬車が入る。
薄い月明かりの中でも数段目立つそれは、他とは一線を画す造り。
また先々代の帝の治世だった頃。何度か洛陽で見かけた、記憶の中の馬車と影形が一致した。
やがて、目的の馬車のひとつ前の馬車が、東門を通過していく。
すかさず、荀攸は合図の石を城壁目掛けて投げつけた。
「!」
音を聞き分けた兵士たちが、東門両脇の死角から躍り出る。
「ぐわっ!?」
左右から伸びてきた棍棒に絡め取られ、御者が馬車から振り落とされた。
動きの止まった馬車を見て、茂みから一斉に暗殺部隊が飛び出す。
「ハッ!」
後続の馬車や荷車部隊の警護兵目がけて、何顒が襲いかかった。
反応の遅れた兵たちを容赦なく短戟で薙ぎ倒していく。
「うわぁっ!?」
「な、なんだっ!?」
「おのれ、っ、ぐふっ!?」
何顒が討ち漏らした警護兵に、兵士の槍と文官たちの鏢の追い打ちがかかる。
暗闇から飛んでくる攻撃に体勢を崩され、警護兵は混乱に陥った。
「…!!」
荀攸はその喧騒を横目に、完全に孤立した馬車へと取りつく。
ついに訪れた千載一遇の機会。
必ずや、仕留める。
「董卓、覚悟…っ!?」
扉を開けた瞬間、急に橙色の光が差し向けられた。
「っく!」
夜目にはやたら強烈に感じた。恐らく、燭台の明かりか何か。
一瞬怯むも、構わず荀攸は懐の小刀を抜き取った。
「あぁあっ…!」
切ない悲鳴が荀攸の耳を突いた。
「っ!?」
側女の誰かか。そう認識した途端に、体の動きが止まってしまう。
迂闊に踏み込めなくなった荀攸を嘲笑う濁声が、光の向こうから聞こえた。
「久しいなぁ、荀攸」
明かりに慣れてきた目が、ようやくその姿を認識する。
「馬車にまで乗り込んでくるとは無粋な奴よ。そんなに、わしの奴隷が見たかったか?」
久方ぶりに目にする男は、その手に一際大きな燭台を持ちながら醜悪な笑みを浮かべていた。
「そんなに見たいなら見せてやろう」
近くに燭台を置き、傍らでぐったりとしている存在を明かりの下へと曝け出す。
目の前に現れたその顔を見た瞬間、荀攸の息が止まった。
「な…っ!?」
見間違いかと思った。だが見間違う筈もなかった。
見知ったどころではない。幼い頃から、間近でその成長を見届けてきた人。
この上ない美貌と品格を備えた姿で目の前に現れ。
しかし己の不甲斐ない一言で傷つけ、それきり顔を合わせないままに別れた―――大切な叔父。
「文若、殿っ!?」
体が透けて見える薄布を纏わされ、董卓の手にいやらしく体を弄られ。
「ん、ああっ、やぁっ…!」
眦に涙を浮かべながら苦しみ喘ぐ青年は、紛れもなく荀彧だった。
目の前の信じ難い光景に、荀攸の中で何かが打ち砕かれる。
「あ、ああ…!?」
力の抜けた荀攸の手から、小刀がするりと落ちた。
カタン、という金属音に、荀彧の体がびくりと震える。
「っ、あ…?」
快楽に溺れさせられ朦朧としていた意識が、少しずつ呼び覚まされていく。
涙にぼやけた視界は、やがて輪郭を確かにし、そして。
「…っ、あ、あっ…あぁあああああっ!!」
自分の痴態を見ている人物が誰かを認識した瞬間、荀彧は喉が裂ける勢いで泣き叫んだ。
荀攸ですら一度も聞いたことのない、あまりにも悲しく激しい慟哭。
「お願っ、見ないで!見ないでくださいっ、公達殿っ、いやです、いやああぁあっ!!」
「いい声で鳴きよるが、ちとうるさいわ」
「んうっ、うぅっ、んう!!」
董卓に口を塞がれ、荀彧の嘆きは塞き止められる。
「荀攸。わしを殺すというならやってみせい。だが」
董卓は腰から七星剣を引き抜き、その切っ先を荀彧の首筋に突き立てた。
「それ以上踏み込めばこやつが死ぬぞ?」
むき出しにされた荀彧の白い首を、細い血の筋が伝う。
「ん、うっ…んんっ!」
首に微かに走る痛みに、荀彧は身を捩らせた。
燭台の明かりに照らされた刀身は不気味に輝き、悄然となる荀攸の姿を映し出す。
「董、卓…っ!!」
刀身に映る己の顔を見た瞬間、荀攸の腹の底で形容し難い感情が爆発した。
どす黒く染まった憤怒が体中を支配し、がくがくと震わせる。
だがそのまま動けば、荀彧の首が掻き切られる。どうにもできない屈辱が荀攸を雁字搦めにした。
「がははは。わしの勝ちじゃな!やれ!!」
「荀攸殿っ!」
董卓の一声と、何顒の叫びは同時に発せられた。
刹那、荀攸は襟首を掴まれ、後方へと引っ張り倒された。
「うぁっ…!?」
何顒によって馬車から引きずり出された体が、遠くへと投げ飛ばされる。
その直後、ドスドスッと鈍い音が響き渡った。
警護兵の槍が、四方八方から馬車の内部へと突き立てられていた。
「っが!は…っ」
予想していなかった衝撃に受け身が取れず、打ち付けた体が軋む。
「馬鹿野郎が、逃げろ!!」
間髪入れず何顒の怒鳴り声が飛んできた。
「か、何顒殿っ…!?」
顔を上げた先では、何顒たちが数多の警護兵らを前に奮戦していた。
加勢しようと立ち上がるが、尚も制止の声が飛ぶ。
「逃げろって言ってんだ!お前は生きて必ず…荀彧殿をお助けしろ!いいな!!」
「っ…ぅ…!!」
何顒たちが、命を賭して自分の盾になっている。
それを悟った荀攸は、断腸の思いでその場を走り去った。
遠ざかる足音に満足そうに頷いた何顒は、改めて目の前の男を見据えた。
「まったく…俺も焼きが回ったもんだぜ」
馬上から真っ直ぐ剣を向ける文官に、苦虫を噛み潰す。
荀爽が日に日に死へと向かっていく姿を見て、存外焦っていたようだ。
結果、人の奥を見通すに至らず、不穏因子を引き入れるという失態をやらかした。
「そうかいそうかい。お前さん、涼州の出か」
兵士ならばともかく、文官の癖に妙な乗馬技術を持っているとは先程感じた。
良質な馬産で有名な涼州出身であれば、納得がいく。そして涼州は董卓と所縁の深い土地柄。
今頃、全てを繋げることのできた己の不明が情けない。
「私は最初から董卓様の配下です」
文官は冷ややかな声で告げ、構えの姿勢を取った。
何顒は口の端を引きつらせながら、尚も戦意を滾らせる。
「…ぶっ飛ばす!」
「公達、殿っ…あ、ああ、っ…!」
国賊の奴隷と成り果てた姿を見られた。あろうことか、荀攸に。
光を失くした瞳から涙が溢れ、止まらない。
そんな荀彧のことなど何も顧ずに董卓はその身を抱き上げた。
「貴様ら、槍を抜かんか!」
外に向かって怒鳴り散らすと、すぐさま刺さった槍が抜かれた。
「まったく、この馬車はもう使い物にならんなぁ…破棄じゃ破棄」
精に汚れ、穴だらけになった床を尻目に、董卓は荀彧を抱えて馬車を降りた。
「あっ…何顒、どの…!?」
荀彧の目に、警護兵たちと暗殺部隊による乱戦の光景が映る。
中心で、血まみれになりながらも短戟を振りかざす何顒の姿が見えた。
「あ、あ…何顒、殿…公達殿っ…いやだ、そん、なっ…!!」
既に形成は逆転している。暗殺に加わった者らが次々と打ち倒されていく。
その凄惨な様を、荀彧は董卓の腕の中から見ることしか許されなかった。
「さあ、やっと長安じゃ!」
意気揚々と董卓は東門をくぐる。
その腕に、底なしの絶望に突き落とされた奴隷を抱きながら。
2018/08/01