隷属の華【十一】
何故あの時、董卓の命令にただ従った。何故あの時、潁川まで駆け合わなかった。
何故あの時、突き放すようなことしか言えなかった。
何故あの時、せめて共に潁川に戻ろうと言えなかった。
何故だ。何故だ。何故だ。何故だ。
「っ、う、あっ!!」
こみ上がってくる感情に任せて、壁に拳を打ちつける。
手袋の下の皮膚が破れて、痛みの感覚がなくなっても、只管に。
「あ、ああっ…!!」
腹の中で、後悔と憤怒が渦を巻いて暴れ回る。
再会を果たした時に気づいていた筈だ。
彼は自分が思う以上に、見目麗しく成長した。いや、し過ぎたと。
その姿が、彼にとって余計な災いをもたらしはしないかと。
ただでさえ筆跡に目を付けられて、無理矢理推挙された身なのだ。しかも明らかに役不足な守宮令に押し込められて。
何故、その不自然を深刻に捉えなかった。何故、芽生えた疑心に忠実にならなかった。
変な気を回して、彼の男としての尊厳を傷つけてはいけない。そんなくだらない思い込みが思考を放棄させた。
目に見えて情勢が危うくなる洛陽から、何としても引き離さなくてはいけない。ただそれだけを考えて。
焦りは不用意な言葉にしかならず、彼の心を傷つけた。
あの時、どれだけ恨まれようとその手を掴み直して、潁川へと送り返していれば。
取るべき道はいくらでも目の前にあった。それを何一つ自分は選ばなかった。
そのせいで、人としての尊厳すら彼は奪い取られたのだ。
どれだけ愚かなのだ。叔父の誇りを守れず、そして今、同志の命を犠牲にして。
成すべきことを何も成せずに、何もかもを喪おうとしている。
「っ…!!」
只管壁の合間を縫って、駆ける。その足は荀爽の邸宅へと向かっていた。
彼はまだこの喧騒から取り残されたままだ。
せめて、董卓の手が回る前に。どうか、どうか、無事で。
「よう、荀攸殿」
望みを全て打ち砕く声が荀攸を出迎えた。
「郭汜…殿!」
邸宅前にずらりと並んだ兵士たちが、現れた荀攸に槍の穂先を向ける。
兵士たちを率いる将は実に嬉しそうな歓声を上げた。
「たまには李儒殿の言うことも素直に聞くものだ!俺はこれで、反逆者を捕らえた第一の臣下になれる」
「……っ、ぐ」
背後からも気配が迫る。
得物に手をかける気力すら残っていなかった。
「文若…っ、ゴフッ!」
口から血を滴らせる顔は、最早生者のそれではない。
殆ど魂も抜けた心地だった。
気力だけで、荀爽は朽ちかけた身を歩かせていた。
『…は?』
いきなり向けられた言葉を理解できず、荀爽はらしからぬ間の抜けた声を出した。
帝は顔を強張らせながら、荀爽を見据える。
今の今まで力のなかった瞳が、意を決した強い眼差しになった。
『荀彧は、香が好きだろう?』
『そう、ですが…?』
『長安に来る前だ。荀彧の姿が見えなくなった頃から…董卓から、香の匂いがするようになった』
『な!?』
頭を勝ち割られた心地がした。
固まってしまった荀爽に、尚も帝は必死で言葉を続ける。
『董卓はあんないい匂いの香などつけない。ぜったいに荀彧が近くにいる』
『な…なっ…』
『うそをついてまで、荀彧をそばにおいてる。だからきっとよからぬことを考えている。早く、助けてあげてくれ』
帝の必死な声が、荀爽の耳の中で尚も反響する。
信じられない、というよりも、信じたくない、といった方が正しかった。
帝の言葉が真なら全て、合点がいってしまう。
突然荀彧が洛陽を離れたことも、自分たちが急に長安へと追いやられたことも。
「いいざまだな、荀爽」
蔑むような濁声が耳を貫いた。
「と…董、卓、どの…あ、ああっ…!!」
荀爽の体からいよいよ生気が奪い去られる。
この宮殿に辿り着かせまいとしていた男が、目の前で不気味に嗤っている。
自分たちの計画が脆くも崩れ去った事を雄弁に物語っていた。
しかも。その腕に抱かれているのは。
「おっ…叔父上…!?」
虚しくも。帝の言葉の意味が荀爽に突き立てられる。
扇情的な薄布姿で拘束された奴隷の名を、荀爽は文字通り血を吐きながら叫んだ。
「文、若…文若っ…ゴホッ!!」
「叔父上っ!!」
荀彧もまた必死の思いで叫んだ。
やっと会うことのできた叔父が、血まみれの姿で息も絶え絶えに横たわっている。
奴隷となった姿を見られた恥辱などより、遥かに重く辛い衝撃だった。
「暗殺を扇動したこと、本来であれば即刻死刑ものだが…」
董卓は、余裕の表情で顎鬚を撫で付けた。
誰の目から見ても、荀爽の命は尽きようとしている。手を下すまでもなかった。
「まあよい。天命は全うさせてやろう」
手にした七星剣で、荀彧を縛る縄を切り裂く。
「っ、叔父上、叔父上っ…!」
解放された瞬間、脇目も振らず荀彧は荀爽へと駆け寄った。
「叔父上、お気を確かに…っ!?」
抱き起こした荀爽の体が思いの外軽いことに戦慄する。
老齢ながら背筋を伸ばし堂々としていた叔父が、今や風前の灯火としか言えない姿に変わり果てていた。
「文、若……すまな、かった…」
荀爽の震える手が、泣き濡れた荀彧の頬に添えられる。
手は、哀しいまでに冷たかった。
「お前が、そんな…苦界、に、堕とされている、などっ…」
本来ならばその溢れる才知を国に尽くすべき甥が、暴虐の徒の傍らに据えられている。
男としての矜持を折られたに等しい姿を前に、荀爽は呻いた。
「ああ…私は、兄上に、顔向け…が、できぬっ…なんて、ことを…っ、ガァッ!」
「叔父上っ!」
荀爽の口から、一層の激しさを伴って赤黒い血が吐き出された。
生温い血の感触は死の刻限を告げるものとなって、荀彧の肌を伝っていく。
悲痛な声で泣きながら、荀彧は詫びた。
「私こそこんな、浅ましき姿をっ…!一族の恥さらしです!申し訳、ありません…!」
溢れた涙が、深く皺の刻まれた荀爽の手を濡らす。
「ぐ、ふっ…ゆる、せ……ゆる、して…くれ…あ、あ…おゆるし、くださ…」
涙に瞳を濁らせ、いよいよ焦点の合わなくなった手は宙を彷徨った。
赦しを乞うのは、救えなかった傍らの甥にか。それとも、その目に映っている兄か。
「っは…あ…!あ………」
一際強く手が戦慄き、ばたりと落ちた。
「っ?叔父、上…叔父上!?叔父上ぇっ…!!」
何度呼びかけても、言葉は返らない。その瞼が瞬くこともない。
あまりにも無情な別れだった。
「董卓様!たった今報告が上がりましたっ!」
配下の兵士を伴った李儒が嬉々として駆け込んできた。
その場に跪き、歯を見せて笑いながら報告する。
「董卓様の暗殺を図った部隊は全滅!首謀である何顒並びに荀攸は捕縛しました!」
「ご苦労だったな。牢にぶちこんでおけ!」
「そん、な…何顒殿…公達、殿っ……あ、あっ……!」
たった今、叔父を喪い。甥やその輩までも、董卓の手で。
現は惨い。醒めることのない悪夢のよう。
か細く震えた声しか出せぬまま、荀彧は物言わぬ荀爽に縋りついた。
「ところでもう一人の首謀は…おや、まあ」
冷たい視線が、荀彧の腕の中で事切れている荀爽に向けられる。
「董卓様、こやつはいかがなさいます?」
「そこそこ世話にはなったからな。それに免じて、五体満足で埋葬くらいはしてやれ」
董卓は見向きもせずに荀爽と荀彧の横を過ぎ、すれ違いざま振り向いて命令した。
「その奴隷は、体を綺麗にさせてからわしのもとに連れてこい」
「ははっ…仰せのままに」
宮殿の奥へと消えていく肥えた背中に、李儒は慇懃な礼をした。
頭を上げるとすぐに、後ろに控えていた配下の兵士に向かって合図をする。
「っ、近寄らないで!お願い、ですっ…あっ!」
荀彧はたちまち兵士に取り囲まれ、その体を捕えられた。
無理矢理引き剥がされた荀爽の亡骸が、無造作に麻布の上へと放り出される。
「嫌です、叔父上、叔父上っ…!」
叔父が物のように包まれて回収されていく様を止めることもできず、荀彧は泣き叫んだ。
「まったく…貴方の体は董卓様のものでしょう?」
李儒は、汚物でも見るような目で血を浴びた荀彧の姿を睨み据える。
ひとつため息をつき、懐から愛用の鉄扇を出した。
「穢れた死体に縋るなど、分を弁えなさい!」
掲げられた鉄扇は、無防備な鳩尾に真一文字に叩きこまれた。
「がっ…!」
激しい衝撃に、息が詰まった。
打ち据えられた痛みはあっという間に意識を混濁させていく。
「あ、う……っ…」
薄れる視界に映ったのは、陰険を絵に描いたような李儒の笑顔だった。
「ん…」
顔を明るく照らされる心地が、荀彧の意識を呼び覚ましていく。
「ん……っ?」
ゆっくりと瞼を開けた。
途端に眩しい光が急に入り込み、思わず目を瞑ってしまう。
「やっと目が覚めたか」
醜い声が頭上より突き立てられた。
その瞬間にぼんやりとしていた意識は掻き乱され、無理矢理な形で覚醒した。
「ひっ!?」
弾かれたように身を起こした。
慌てて周囲を見渡し、更に荀彧は驚愕することになる。
「な…っ!?」
豪奢な部屋には窓が多く設えてあり、朝日がたっぷりと差し込んでくる。
だが荀彧に降り注ぐのは、穏やかな陽射しだけではない。
部屋の壁には、李儒とその配下の兵士たちが並んでいた。寝台の上の荀彧をぐるりと囲むように。
その視線は方々から好奇のものとなって、荀彧へ向けられている。
「あ…ああぁっ!?」
そのことを悟った瞬間、荀彧は悲鳴を上げながら自分の体を抱きしめた。
「あ、っ…!」
そこでやっと、薄布すら剥がされた、一糸纏わぬ姿であることに思い至る。
ただでさえ日光に何もかもを露わにされ、あろうことか裸を衆目に晒すなど。
「どう、してっ…」
計り知れない程の羞恥が荀彧を締め上げる。
訳もわからず、ただ縮こまりながら頭を振るしかなかった。
しかしそれすらも荀彧には許されることはなかった。
「何をしておるのだ。もっと皆に、そのいやらしい姿を見せてやれ」
「あっ、やぁっ!」
後ろからいきなり董卓によって羽交い締めにされ、体を仰け反らされる。
周囲に裸体を見せつけるような格好となり、兵士たちからは歓声が上がった。
「皆に己の痴態を見られる気分はどうじゃ?」
董卓はあっという間に荀彧の手首を縛り上げ、抵抗の術を奪う。
後ろから手を回し、荀彧の胸と股を遠慮なく弄った。
勝手知ったる手つきで弱い箇所を絡め取り、扱き上げていく。
「ひぅっ、あ!んんっ…や、やめて、くだ、さ…あぁっ!」
喘ぎ苦しむ荀彧の姿は、この場にいる男たちをすぐさま高揚させた。
「う、うわ…すげぇ」
「ああ…男でもあれくらい綺麗なら…なぁ?」
「俺も抱いてみてぇよ、あんな美人…」
董卓の手前、兵士たちは声を潜めつつも口々に下卑た感慨を漏らす。
「皆さん、くれぐれも見て楽しむだけにしなさいよ。あれはあくまでも董卓様の奴隷ですからね」
李儒は兵士たちに釘を指しつつ、目の前の光景を面白おかしそうに眺めていた。
「うっ、あぅっ…ぐっ…!!」
大勢の男の視線を受けながら、日の光の下で嬲られる。
限界を超えていた。耐え切れなかった。
こんな凌辱を受け続けなければいけない日々に、意味など。
「っ…あ……!」
覚悟を決めて口を開く。
だが董卓は、荀彧の心を見透かしながら言い放った。
「死ぬのは勝手だが、貴様が死ねば即刻荀攸と何顒の首を刎ねるぞ?よいな?」
「っ…!?」
舌に掛けようとしていた歯が止まった。
次々と降りかかる屈辱を前に消し飛んでいた記憶が、呼び起こされていく。
腕の中で息を引き取った、荀爽の氷のような手。
たった一人になりながら戦い続ける、何顒の血塗られた姿。
董卓の腕の中に収まった自分を見た時の、荀攸の茫然とした表情。
「あ、ああ…っ!」
昨晩目の前にした光景が、生々しくも脳裏に蘇った。
全てを思い出し、声を強張らせる荀彧に向かい董卓は追い打ちをかける。
「わしに生涯奴隷として忠誠を誓うというなら、奴らはいずれ解放してもいいが?」
「なっ!?」
矜持を全てうち捨てろと言われているも同然の台詞。
完全なる服従を迫らんと、董卓は荀彧の耳元で執拗に脅迫する。
「さあ、言え。言わぬか!」
見え透いた嘘だ。一度自分に歯向かった者を、この男が許す道理がない。
荀攸も何顒もいずれは殺す気だ。ただ、心を完全に折りたいが為。
大勢の前で、自分自身の口で、奴隷であると言わせたいが為。
「あ、う…ううっ…!」
董卓の留まるところを知らない卑劣さに、歯の奥が軋んだ。
「おんのれ、強情な!」
痺れを切らした董卓は、入口近くで待機している李儒に向かって叫んだ。
「李儒!今すぐ二人のそっ首刎ねてこい!この生意気な奴隷に見せてやるのじゃ」
「はっ、畏まりました!」
「っ!やめて、やめてくださいっっ!!」
たまらず、荀彧は金切り声を上げた。
「それだけ、はっ…お願い…しますっ…!」
断腸の思いで懇願する荀彧に、冷酷な眼差しが突き刺さる。
董卓は今一度、荀彧の耳元に問うた。
「ならば?」
「あ…っ」
「ほれ、言ってみろ。お前は一体、わしの何だ?」
ねっとりと纏わりつくような響きを伴う声が、荀彧の耳を犯した。
「わ、私…私、は…っ」
今すぐ、喉を裂いてしまいたかった。
だが自分に許されたのは、抗いでもなければ死でもない。
涙で途切れ途切れになりながら、荀彧は言葉を紡いだ。
「私、は…貴方の…奴隷、です」
とうに穢れ切った身だとしても。決して、口にしたくはなかった言葉。
「この、身…生涯…董卓、殿の…思うまま、にっ…う、うああああっ…」
全てを言い終わった瞬間、荀彧は泣き崩れた。
ついに、言ってしまった。自らの尊厳を投げ捨てる言葉を。
後悔と、これまで以上の屈辱感が、荀彧を支配する。
「ふふん。ならば望みどおりにしてやろう」
鼻を鳴らすと、董卓は荀彧の腰に腕を回した。
「あ、うっ…」
荀彧の体は無理に反転させられ、董卓と向き合う形で膝立ちになる。
目の前に、勝ち誇った獣の笑顔が迫った。
「その美しい泣き顔に免じて、この先も顔だけは傷つけないでやる。ありがたく思えよ」
董卓は前を寛げた。いきり立った己が、露になる。
「や、やめてくださっ…!」
荀彧は必死で身を捩らせるも、抵抗虚しく腰を掴まれた。
秘所に、雄の先端が宛がわれる。
「ひっ…や、あぁああああああっ!!」
勢いよく腰を引き下ろされると同時に、荀彧は貫かれた。
力任せに突き上げられ、押し広げられるたびに、激痛が体を駆け抜ける。
「あ、あああぁっ!もう…ゆるし、て…!」
奥の奥まで咥え込まされ、ついに董卓の膝に乗る格好となった。
痛みと羞恥が、際限なく荀彧の心身を切り刻む。
息も絶え絶えに落涙するその様に、董卓は更に興奮を強めた。
「貴様はそうやって喚き散らしてる姿が一番似合いじゃ!どれ、もっと泣け!」
愉快そうに言い放ち、董卓はより一層激しく荀彧を揺さぶった。
「やっ!あ、ひぅっ!あっ、あ…んっ、や、あぁっ!」
その動きは無造作に見えて、確実に荀彧の弱い箇所を打ち抜いていく。
体を裂くような苦痛の中でじわじわと快楽が背を伝い、荀彧の喘ぎに色を混じらせた。
「ぐふふふ、皆も楽しんでおるぞ。お前の雌っぷりをな!」
董卓は周囲を見回した。
壁際に並ぶ兵士たちは皆一様に色めき立ち、股を膨らませている者もいる。
「は、はは…」
「董卓様…生殺しですよ…」
その視線は妖しく熱を帯び、董卓の仕打ちに喘ぐ荀彧へと一心に注がれていた。
「や、やめ、て…っ!みない、で、くだ、さっ…いやぁあっ!」
数多の男たちの眼差しにまで心を踏みにじられ、粉微塵にされていく。
最早誰からも、自分は慰み者としてしか見られていない。
一体、どこまで堕ちていけばいい。
「い、や、……っ、あ、っ!あ、あぁ、あああああああああああっ!!」
断末魔に近い声を上げながら、荀彧は果てた。
2018/08/15