隷属の華【十二】
朝日が昇る頃、いくつかの蹄の音が隠れ処に近づいてきた。「奉先様、もしや」
「張遼か」
赤兎馬の面倒を見ていた呂布と貂蝉は、裏手から入口へと回る。
王允も扉を開けて、やってきた一団を出迎えた。
「張文遠、遅くなり申した」
三人の目に映ったのは、流石に疲れ切った様子の張遼と配下たちの姿だった。
黒を基調とした張遼の鎧は煤に塗れ、日を浴びているにも関わらず輝きが失せている。
「私では何程のこともできず…申し訳ない」
いつになく気落ちした様子で張遼は首を振った。
火は最低限消し止めたものの、街と宮殿は既にほとんど燃やし尽くされた後。
民も片手指で数えられる程度を救い出し、南西の草原まで逃がすのがやっとだった。
董卓軍の兵士たちも、洛陽の惨状を前にして霧散している。
「張遼殿、謝るべきはこちらです。負け戦を強いた上、惨い役目をっ」
王允は平身低頭、張遼に詫びた。
「俺は赤兎の傷が塞がり次第、長安へ行く。ついてきたい奴だけが来い」
「呂布殿…」
呂布の言には、明確な意志が孕んでいる。張遼は直ぐにそれを察した。
次に何をするつもりかは見えている。それでも、あえて問う。
「失礼を承知でお尋ねいたす。義理とはいえ、再び父君を斬る覚悟はおありか?」
「!!」
貂蝉と王允は固まった。冷たい汗が背筋を伝っていく。
呂布は、特別怒りは見せなかった。ただ一言だけ吐き捨てた。
「あの豚に情などない」
「…承知」
ならば、何も言うべきことはない。張遼は静かに礼を拝した。兵士たちも皆悟った顔をしている。
呂布と張遼に従うと肚を決めた者たちだけが、この場に残っていた。
「おーい…生きてっか…」
前の方から、弱々しい声がかけられた。
自分のものではないように感じる程に、頭が重く、ぐらぐらとする。
強い眩暈を感じながら、荀攸は顔を上げた。
「何顒、殿…っ」
天井の僅かな小窓から入る光が頼りの、薄暗い牢獄。
向かいの鉄格子の中に、体中を赤黒く染めた何顒が座り込んでいるのが見えた。
今まで見たこともないような、真っ白い顔で。
「よぉ…その声なら…当分、大丈夫、だな…」
赤ら顔で誰よりも生命力に溢れていた男が、虫の息だった。
「っが…!」
横腹からの失血が、荀攸にもわかった。
何顒の息遣いと脈に合わせて、絶え間なく流れ落ちている。
「っ、あまり喋らないでください。傷口がっ」
「今口つぐんだら…なんもお前に託せないだろうが」
震えながら上げた口角からも、血が一筋溢れた。
「存外俺達は…董卓を見縊ってたな」
何顒は鈍色の鉄で覆われた天井を見上げた。
「怖いお方だな…まさか、荀彧殿を盾に、なんて…想像、してなかった、ぜ」
「っぐ、う…!」
腹の臓物を全て締め付けられるような心地になる。
彼はどれだけの恥辱に晒され、恐怖に怯えていたのだろう。
誰にも救いを求められぬ奥深くへ閉じ込められ、無理矢理に慰み者にされ。
今も董卓はあの美しい叔父を弄び、涙と苦痛に歪ませ、その体を―――。
「っう、うわあああっ!!あああああああっ!!」
想像しただけで気が狂うかと思った。
自分の与り知らぬ所で荀彧が穢され続けていた、その事実が、荀攸の心臓を抉る。
背筋を駆け巡る憤懣のままに、拳を床へと執拗に叩きつけた。
「文若殿、文若、どのっ…あ、ああっ…うあああ…!!」
堰を切ったように涙が溢れる。情けない程の嗚咽が漏れた。
「馬鹿野郎がっ!!」
怒号が辺りに響いた。
その激しさに、荀攸も硬直してしまう。
「か…ぎょう、どの…?」
思わず、鉄格子の向こうを凝視した。力なく座る何顒の姿が見える。
顔色は変わらず、死の淵にあった。とても今怒気を発した者とは思えない。
しかし瞳には間違いなく激情が宿っていた。
「お前がここで狼狽えて、それで荀彧殿が救われるのか!?」
茫然とする荀攸を睨み据えながら、何顒は吠えた。
腹から血が噴き出るのも厭わずに。
「っ…!」
しかしそれが最後の意地だったか、何顒はがっくりと項垂れた。
荀攸はハッとして、鉄格子に取りついて叫ぶ。
「お気を確かに!」
「はは、は…情けねぇ…自分にできもしねぇことを怒るなんてよ」
ややあって、何顒は脂汗の滲んだ顔を上げた。
「俺はなぁ、どうにも昔から、腹の内に隠すってのができねぇ性分で…だから最後の最後に、足許見られちまった。こんな分かりやすい野郎…真っ先に消されて、当然、だな…っ」
「何顒殿…!」
「いいか、荀攸殿…よく、聞け」
「っ」
何顒に、命の輝きがないことはわかっている。
頼む。頼むから、もう喋ってくれるな。そう願えど、口にできるような空気ではなかった。
「俺の、この情けねぇ姿を忘れるな。謀に手を染めようってんなら、感情を、言葉を…表に出した方が、負けだ。何があっても、静かに、してろ。焦るな、よ」
「っ、はい…しかと心得ます」
「慌てず、騒がずにいろ…それで、なんとしても、ここから出てくれ。荀彧殿も、必ず、お救いしろ…いいな」
最期の力を振り絞りながら紡がれる言葉を、荀攸は歯軋りしながら受け取った。
「お約束、します。必ずや…文若殿だけでも、必ず」
荀攸の返事に、何顒は安心したように息を吐いた。
「ああ…それ、からで、いい…た、のむ、な。この、く、に、を」
「っ…何顒殿!?」
ついに言葉が途切れた瞬間、荀攸の血の気が引く。
「何顒、殿」
洛陽へ上ってから、長い間苦楽を共にしてきた友だった。
かけがえのない存在がまたひとつ、この手から滑り落ちていく。
「……っ」
拳を握り締め、口の奥を噛み締め、襲ってくる喪失感を抑え込んだ。
ここで慟哭して、何になろうか。感情も、言葉も。表に出したら負けだ。焦るな。
何顒の言葉を、何度も何度も、腹に楔として打ち付ける。
それでも、頬を伝う涙だけは拭えずにいた。
「まったく、ひでぇことしやがるぜ!」
傷つき疲弊した民らを前に、張飛は怒りを抑えられなかった。
手当を施すその手は休めないまでも、劉備もまた遣る瀬無い思いで胸が痛んだ。
「ああ…董卓とやら、ここまで心の腐った男とは思わなんだ」
「この惨状では、いかに呂布でも撤退も已む無しであろう…惨いことよ」
この避難場所に集ったのは、行き場を失った民だけではない。
董卓軍の兵士だろうと思しき若者も、何人も呆けた様子で座り込んでいる。
つい先日まで敵だったとはいえ完全に気力を失った姿は痛ましく、関羽は首を振った。
鬼神との一騎打ちに臨んだ関羽は、確かな手応えを感じていた。
正々堂々、武を持って打ち破るに相応しい相手と見定め、朝を迎えた。
だが待てど暮らせど、虎牢関から軍が出てくる気配がない。おかしいと思った時には遅かった。
虎牢関は既に破棄されていたのだ。しかもその先に見えたは、黒煙と炎に包まれた洛陽。
連合軍の戦いはあまりにも呆気なく、そして理不尽な幕切れを迎えたのである。
「どこの方かは存じませんが、ありがとうございます」
足に火傷を負った女性は、涙ながらに張飛に頭を下げた。
「なぁに、礼を言われるほどのことじゃねえ。ゆっくり休めよ」
「はい…すみません…」
難を逃れた民は、洛陽南西の草原を避難場所として、身を寄せ合うようにしていた。
洛陽入り後、それを知った劉備たちはすぐさまそちらへと赴いた。
劉備は勿論、関羽も張飛も武器を放り出し、薬草とあるだけの包帯で以て看病を続けている。
蹄の音がいくつも聞こえてきたことに気づき、劉備は振り返った。
「お主ら、世話をかけるな」
絶影の馬上から、曹操が声をかける。背後には夏侯惇と夏侯淵、典韋がついていた。
「曹操殿。こたびはまこと、無念且つ遺憾にございます」
劉備はいったん手を休め、曹操へと礼をする。
曹操も絶影から降り、礼を返した。
「わしも同じ思いよ。先程、歴代の帝の墓に参ってきたが、案の定全て盗掘されておったわ」
「なんと…!?」
思わぬ報告に、劉備は絶句した。国そのものを踏み躙る行いだ。
「信じられませぬ…漢室を、天をも畏れぬ行為を平然と行えるとは」
「それが董卓という男だ。人の皮を被りし獣よ」
曹操の言葉は静かだったが、そこには侮蔑がありありと感じられた。
「曹操殿は、これからどうなさるおつもりか」
「うむ…」
劉備からの問いに暫く逡巡した後、曹操は告げた。
「洛陽を拠点と出来ぬのであれば、な。ただでさえ兵糧でいざこざを起こしているのだ、戦線を維持するのが更に難しくなろう。袁紹もそれで、途方に暮れておる」
「やはり、そうですか…」
予期していたことではあるが、改めて事実上の連合解散を告げられ、劉備は肩を落とした。
長安に攻め上る気配が見えないことを心配していたが、やはり一丸となって董卓を討ちに行ける程、横の繋がりは強固ではないということだ。
「お主の無念、察して余りある。だが今は機を待つ他あるまい」
成すべきことを成せなかった無念は、曹操もまた然りである。
一見無謀な暗殺計画から始め、用意周到に袁紹を焚き付けてまで行った大戦だ。
董卓を仕留められないばかりか、洛陽を灰にされてしまったのは手痛い敗北といえた。
だが、それでおめおめと泣く曹操ではない。
「わしらはこれより焼け落ちた内部を検めてくる。これは足しにしてくれ」
曹操は手持ちの甘草と蒲を全て劉備へと差し出した。
驚きつつ、劉備は丁重にそれを受け取る。
「ありがとうございます。我々は引き続き、民の救護に当たらせていただきます」
「うむ。そちらは任せたぞ」
絶影に再び跨った曹操は、一路、洛陽の中心部へと引き返した。
「だが孟徳、内部の検めといってもあの惨状では…」
馬を走らせる中、夏侯惇が疑問の声をかける。
市街も宮殿も完全に焼け落ち、炭化した残骸ばかりのどこを検めるというのか。
曹操なりの意図はあるだろうと皆思ってはいるものの、今一つ腑に落ちない。
「何か心当たりでもあるんですか?」
「ああ。力仕事になるぞ…よいな」
それは夏侯淵への返事ではあったが、自分が当てにされていると気づいた典韋は慌てて叫んだ。
「へ、へい!任せてくだせぇ!」
将兵らを引き連れ曹操が向かったのは、瓦礫の山と化した一帯だった。
何かを探すように目線を配ると、目当てを見つけたのか頷く。
「そこだ、曹仁。その窪みを引き上げてくれ」
「ここ…でございますか?」
曹仁は指示通り、床板だったらしき黒ずんだ木材の窪みに指をかける。
「これは!?」
木材を引き上げた曹仁の目に、大きな空洞、及び降りる階段が飛び込んできた。
他の将兵らも覗き込んで、感嘆の声を上げる。
「以前董卓の暗殺に失敗した折、ある文官がここにかくまってくれてな。それで逃げ果せることができた」
「しかし殿、ここに一体何の用なのですか?」
「降りればわかる」
曹操は兵士に用意させた燭台を受け取ると、階段を降り始めた。
「あっ殿!?お待ちを」
「危ないですぜ!?」
何の躊躇もなく地下へ向かう主君に面食らいながら、曹休と典韋が後ろに続く。
他の武将も、順々に階段を降りていった。
「これは…!」
地下に降り立った皆が、一様に目を見張った。
曹操が照らす燭台の先に、数多の書物が山となって折り重なっている。
床には箱が置かれ、その中に書簡や竹簡も束となって収められているのが見えた。
「ひゃー!結構ありますなこりゃ」
思ってもみなかったものに出くわし、夏侯淵も思わず感嘆する。
「やはり、ここはなんとか無事であったか」
「孟徳、これがお前の目当てとはな」
幾分安堵したような曹操の声色を聞き、夏侯惇も得心した。
「これらは漢室に代々蓄えられてきた貴重な文書類。全て消失しては国の損失と危惧していたが…勘のいい文官が一部、手を打ってくれていたことを思い出してな」
「なんと。書物を先立って守った上、殿をお救いになるとは。随分と気骨のある方ですね」
元々文官だった楽進にとっては、この話に一段と感銘を受けた様子を見せた。
見習わなくては、と小さく気合を入れ直す。
「んじゃ殿。この本の山を運び出しゃいいんですかい?」
典韋の問いに、曹操は大きく頷いた。
「わしの手でいったん預かる。勘のいい賊が荒らしに来るとも限らん故な」
「賊?奴ら、こんなもの欲しがるんですか?」
李典は心底意外そうな顔をした。
金や宝飾ならまだしも、教養のない者が文書の価値を見いだせるとは思えない。
尤もな李典の疑問に、曹操は簡潔に答える。
「以前黄巾の残党を取り押さえた時、盗んだと思しき書物を抱えていた輩もいたのだ。近頃は、市場によっては古文書の類も高価に取引されるようでな」
「へぇ…最近の賊は結構進んでますね」
李典は目の前の書物を手に取り、土埃を払う。表紙に「史記」の文字が見えた。
「回収出来次第、このまま許昌へと向かうつもりだ。そこを新たな本拠としたい」
「…わかった。皆、協力してこの中の書物を運び出すぞ!」
夏侯惇の一声で、一同は手分けして文書類の回収に取りかかり始めた。
「そういえば、殿をお救いした文官とは一体、どういうお方だったのです?」
作業をする傍ら、ふと気になったらしく曹仁が訊ねてきた。
「荀彧と言ったな」
「荀彧?」
曹操の口から出た名を聞いて、曹仁は目を丸くした。
初めて聞く名ではあるが、『荀』の姓を持つ者となればどういう出自かは見当がついた。
「荀家といえば、名門ではございませんか。確か今の司空も荀家の方ではなかったかと」
「間違いなくその出だろう。物腰も、名家の貴公子そのものであった」
「しかし、その荀彧殿も、洛陽がこの有様では…」
焼け跡からは、先程から筵に包まれた遺骸が何体も運び出されている。
恐らく董卓は近しい文官武官のみを連れ、下級の者たちは切り捨てたのだろう。この洛陽と共に。
「易々と命は散らしておらぬと思うが…だとすれば長安か」
やや埃臭くなっている尚書を抱えて、曹操は階段を上がった。
地上は尚も、焼け焦げる臭いが満ちている。ひとしきり見回した後、西方の空を見上げた。
「董卓の下では、さぞ生き辛かろうな」
脳裏に、清廉な恩人の顔が浮かび上がった。
「さあて、そろそろ起きたか…?」
扉が開く音と共に、董卓の上機嫌な声が寝室に響いた。
早々に気を失った荀彧では物足りず、昼の間は他の側女で発散してきたところだ。
しかし戻ってきて寝台を覗き込むなり、董卓は顔を顰めた。
「何じゃ、そのままではないか」
白濁の精に腹を汚し、気をやったままの荀彧がぐったりと横たわっている。
籠った汗の臭いと雄の臭いが、董卓の鼻を刺した。
もう一度抱いてやろうと思っていた気持ちがたちまち削がれる。
「むう…そうか、仕方あるまいな」
今更ながら、貂蝉という女がいかに神経きめ細やかであったかを思い知る。
どんなに激しく抱いても、次に見える時の彼女は、常に完璧な身なりであった。
そればかりか、荀彧や他の側女たちの事後も、毎度のごとく見事に清め、整えていた。
だからこそ董卓は、面倒なことを一切気にせず、好き放題に抱けていたのである。
「う……っ」
時折、苦しそうな声は上がるが、目を覚ます気配はない。
『長くお楽しみいただくためにも、丁重に扱うことも肝要かと』
ふいに響いた貂蝉の言葉が、董卓にため息をつかせる。
「…やれやれ。このわしが直々に湯浴みさせることになるとはな」
呆れながら言いつつも、荀彧を寝台から抱き起こした。
「ん、ん……っ」
体にじわりと染み入る湯の感覚に、ようやく荀彧の目が開けられる。
だが瞳に光はなく、まだ判然としない意識のままに、董卓の腕の中に収まっていた。
完全なる無抵抗なのをいいことに、董卓は股に手を滑らせた。
「あ…っ…あぁっ…!」
湯の中で触れられる感触に、切なくか細い声が洩れた。
やんわりとした愛撫が、湯の心地よさと共に荀彧を絶え間なく刺激していく。
「いっ……あ、あっ、んんっ…!」
蕩けた声で頭を振るいじらしい姿に、董卓は感心した。
「ほう、薬もなしにこの程度で感じるとは。貴様もいよいよ完成されてきたな」
薬漬けにしたのは、長安へ連れて行く際に宦官に命じた猿轡が最後だ。
これまで媚薬により快楽が生じるよう仕向けてはきたが、ここにきて体が覚え込んできているらしい。
満足げな笑みを浮かべつつ、董卓は荀彧の秘所に指を差し入れる。
今朝方、散々嬲った際に吐き出し、未だ残されている己が精を強引に掻き出した。
「あっ、やぁ……っ!あぁっ!?」
湯の温かさと指の動きが、荀彧をあっという間に高みへと追いやる。
「やはりここが気持ちよいか」
「あ、んっ…い、や……あ、ぁあっ!」
短い嬌声を上げて、荀彧はくたりと董卓に寄り掛かった。
「いい感じにのぼせおって。流石に疲労困憊か」
快楽と湯あたりで、荀彧の顔は真っ赤に染まっていた。董卓は湯船から体を引っ張り上げ、床に寝かせる。
「はぁ、はぁ……あ…」
磨かれた玉石で造られた床は、火照った肌には心地よかった。
ひやりとした感覚が、熱に浮かされ続けた荀彧の体と心をゆるやかに鎮めていく。
しかし、未だ目線の焦点は合う気配がない。
「お楽しみのところ失礼いたします」
李儒が足音も立てずに入り込んできた。
「何顒が死んだと報告がありました。腹の傷が致命傷だったようですね」
「はぁ?」
董卓は興を削がれた心地がした。もっと悲惨な目に遭わせる心積もりであったからだ。
「…ふん、まあよい」
絶望に塗れながら牢で息絶えたと思えば、少しは溜飲も下がる。
董卓は早速、思いついたことを李儒に指示した。
「奴は暫く放置しておけ。目の前で腐り落ちる友の姿を、もう一人の愚か者に見せつけろ」
「はい、かしこまりました。では私はこれで…おっと!」
立ち上がった李儒の足が、脱衣籠にうっかり当たった。
董卓の平服と、新調された荀彧の奴隷服が収まったそこより、何かが飛び出す。
カツン、という金属音が高らかに鳴り響いた。
「……っ?」
今の今まで瞳を濁らせていた荀彧の視界が、少しだけ晴れた。
咄嗟に首を向けると、床に落ちたそれがすぐ目に入った。
「馬鹿者、丁重に扱え!」
「こ、これは失礼いたしました!」
流石に李儒も慌てた様子でそれを拾い上げ、籠に押し込む。
頭を下げると、すぐさま踵を返した。
「待てぃ」
低い声が李儒を制止する。
あからさまに肩が震えたのを、董卓はせせら笑った。
「罰じゃ。こいつを帰すまでに寝台を綺麗にしておけ」
「…はい、今すぐに!」
一瞬命の危機を感じただけに、李儒はほっと胸を撫で下ろす。
首を刎ねられるくらいなら、事後に濡れた褥を片すくらい訳はない。
輪をかけて慇懃な返事をすると、今度こそ足早に出ていった。
「ようやっと見られる姿になったものだ」
清めた体に真新しい薄布を纏った荀彧の姿に、董卓は口角を釣り上げた。
奴隷として扱ってから長らく経つ。にも拘らず、いやらしい恰好をさせても不思議と高潔な美しさが漂う。
それでも確実に、快楽に呑まれてきている。何より心をへし折ったという手応えはあった。
今も尚、茫然とした表情で、どこかを見ているのがその証。
「今宵は休ませてやろう。ありがたく思え」
「はい…董卓、殿…」
荀彧は力なく返事をすると、大人しく董卓の腕に収まった。
いつにない従順さに気をよくした董卓は、その細い腰に腕を回す。
「がははは。いいぞ、荀彧。貂蝉が帰ってくるまではたっぷり可愛がってやろう」
木浴室中に、卑しい高笑いが響き渡った。
荀彧の視線がどこに向けられていたかも気づかずに。
2018/08/30