隷属の華【十三】
向こうから、見張り番たちの話す声が聞こえてくる。『なあ、この武器どうやって使うんだ?見たことねえよ、俺』
『鞭みたいに振りゃあいいのかね』
『いやー、でもそんなにしなるか、これ?ああもう、恐ぇよ。俺は槍か剣が一番いいや』
『あんなひょろっとした奴が、こんな難しそうな武器をなぁ…』
自分の得物が話題にされているということは、見当がついた。
通常の刀剣とはまるで違う形状に、さぞ戸惑っているあろう顔が思い浮かぶ。
『なら、わしが正しい使い方を見せてやろう』
突然、聞き覚えのある濁声が響いた。
兵士のヒッという小さな悲鳴が上がり、そしてずかずかと大きな足音が近づいてくる。
その足音は、荀攸を閉じ込める牢の前で止まった。
「ふふん、無様だな」
見上げたそこに、下劣な薄笑いが浮かび上がる。
全面に押し出しそうになる殺意を、必死で押さえつけた。
「…相変わらず、つまらん顔をしておる」
表向きには表情の変わらない荀攸を、董卓は心底面白くなさそうに見つめた。
叔父を穢され、仲間を喪い、さぞ慟哭していると想像していたのだが。
「まあよいわ」
董卓は、懐に手を入れた。
取り出したのは、いくつもの鍵がついた束。
その中から鈍く光る、鉄格子と同じ色をした大きな鍵で錠を解く。
鉄格子が開くと同時に、董卓の肥えた体が入り込んできた。
「と、董卓様?」
見張りの兵士たちが慌てるが、董卓はニヤリと嗤う。
その手には、荀攸の得物が握られていた。
「言っただろう。正しい使い方を見せてやると!」
そう高らかに叫ぶや否や、董卓は荀攸目掛けて硬鞭剣を振り下ろした。
バシィン、と激しい金属音、そして皮膚の弾ける音が辺りをつんざく。
「っが…!」
脇腹を打ち抜かれた体が、壁奥まで吹っ飛んだ。
冷たい壁に強かに打ち付けられ、全身に痛みが走る。
それを皮切りに、董卓は何度も硬鞭剣で荀攸を打ち据えた。
「そらそら、そらぁ!」
薄く伸ばされているとはいえ、鉄で出来た立派な武器だ。その威力は並の皮革製の鞭よりも高い。
捕らえられた際に負った怪我の上に、更なる裂傷と鬱血が積み重なる。
「っ……!」
董卓からの責め苦を、荀攸は声も上げず受け続けた。
傷だらけになろうとも反応を示さぬ様に、だんだん董卓も苛立ちが募る。
「ええい、まったくつまらん男め!」
腹立ち紛れに、董卓は言い放った。
「貴様と違って叔父の方は実に美しいというのにな。肌も、泣き声も」
急に吐かれた言葉に、荀攸の眉が僅かに動く。
すかさず董卓は口角を吊り上げて畳み掛けた。
「昨日も実によい声で喚き散らしてくれたぞ。わしの上で懸命に腰を揺らしながらな!がっはっはっ」
高笑いを上げながら、尚も董卓は硬鞭剣を振りかざした。
「…っ」
奥歯で口内の肉を強く噛み締めた。
肚の奥から真っ黒な感情がせり上がるのを、痛みと血の味が押し留めてくれる。
動じては、ならぬ。悶えて苦しむほど、この肥えた獣を悦ばせるだけ。
「…ふん」
何度打ち据えても呻き声ひとつ上げぬ荀攸に、いよいよ興が覚めたらしい。
董卓は硬鞭剣を巻き取ると、鉄格子の外へと投げ捨てた。
慌てて兵士がそれを拾い上げる。
身体中に新しく裂傷を作り、力なく横たわる荀攸からは、呼吸の音だけが聞こえる。
「本っ当に…つまらん奴だな、貴様は」
そう言い残し、董卓は牢より出ていった。
がしゃりと鍵の締まる音が響き、そして兵士たちと共に足音が遠退いていく。
「……」
視線を動かした先に、物言わぬ肉塊と化した友の姿が見えた。
『よう、荀攸殿!見ろよ!』
目の前に得意げに差し出されたそれを、ぼんやりと眺めた。
金属光沢を持ち、ぐるりと渦が巻かれたその何かは、勿論見たことのない品だ。
『…一体なんです、これは?』
『さっき貿易商から買ったんだよ。南方からの交易品らしい。こんなの、見たことねえだろ』
子どものようにはしゃぎながら、何顒は留め金を外した。
丸まっていたそれがたちまち音を立てて広がり、一本の長い得物になる。
『これは…武器、なんですか?』
驚いたことに、薄く丸められていたのは間違いなく金属だった。
その先端は鋭く磨かれており、触ると皮膚に痛みが走る。
『硬い鞭の剣と書いて硬鞭剣っていうらしいな。どうだ?』
『どうだ、と言われましても。実際の戦場で使うにはあまりにも…』
『そこを使いこなせたら格好いいんじゃねえのか。ってことでほら』
『は?』
思わず間抜けな声を上げた。渡された硬鞭剣と何顒の顔とを何度も見比べる。
『いやほら、俺は使い慣れてる短戟があるからさ。こいつはお前にやるよ』
『冗談も大概にしてくださいませんか?』
要は衝動買いしたはいいが、いかにも使うには面倒そうだからと押し付けに来ただけではないか。
呆れと軽蔑の眼差しを遠慮なく送ると、何顒は肩をすくめた。
『まあまあ、そう怒るなよ。俺よりはお前の方が使いこなせそうだし、やってみなって』
『そうは言われましても…ああ、もう』
剣というにはあまりにも柔く、鞭というにはあまりにも硬い。どう使えというのだ。
半ばやけになりながら、それを振り抜いた。
『…ん?』
想像に反して、勢いよく刀身がしなった。
思ったより、振り抜きざま手首にかかる負担が軽い気がする。
『うーん…』
辺りを見回し、近くの生垣に止まった蜻蛉に目を向けた。
そこに狙いを定め、今度は本気で右手を振り抜く。
ビュッ、と小気味よく空気の切れる音がした。
『お、お前…そんな才能あったのかよ!?あっはっは、こりゃすげえや!』
何顒は目を見開き、景気よく笑い飛ばした。真っ二つになった蜻蛉の羽が、はらりと宙を舞う。
想定以上、とはこのことか。
『驚き、ました』
洛陽入りして一年も経っていない頃の、在りし日の思い出。
初めての都に右往左往していた自分に声をかけてきたのが、何顒だった。
目を閉じれば今も豪快な高笑いと、舌鋒鋭い声が蘇ってくる。
「何顒、殿」
二度と返らぬ声を求め、ついその名を呼ぶ。
その声を新たに聞くことは、もう叶わないのに。
清潔に整えられた寝台で、荀彧は独り横たわりながら朝を迎えた。
窓からは、白い陽射しが入り込んでくる。
洛陽では見ることの許されなかった、穏やかな朝の光。
「っつ…う…」
度重なる心身への凌辱は、荀彧から体力も気力も、ほとんど何もかもを奪い去っていた。
寝台から降りて立とうとするだけでも、足が震える。
疲れ果てた体を引きずるようにして、荀彧は壁際へと近づいた。
改めて眺めれば、随分と窓の多い部屋だと思う。
しかし窓は全て高い位置にあり、容易に周囲の景色はわからないようになっている。
それでもこの部屋がさして奥まった場所に在らず、宮殿の東端に位置していることは推測がついた。
カツン、と金属音が鳴り響いた。ような気がした。
はっとして周囲を見渡したが、変化はない。
ただの空耳。だがその音は、荀彧の耳にこびりついて離れようとしない。
あの時、荀彧の目は確かに床に落ちた鍵の束を捉えた。
金や銀の、きらびやかな鍵がいくつもついた束。
その中に一本だけ、大きな鉄色の鍵がくくりつけられていたのを。
直感が言う。あれは牢獄の鍵だ。もしもあれを使えたならば。
せめて、荀攸と何顒だけでも救い出すことはできないか。
僅かな希望が、浮かんでは消える。
鍵は董卓の懐の中。そう易々と近づけるわけがない。
仮にどうにか奪い取れたとして、その後はどうすればいい。
奴隷に日当たりのいい部屋を宛がっているのだ、この宮殿が然程入り組んでないとはわかる。
それでも、位置も定かでない牢獄を探して彷徨うことは難しい。
見つかれば即、自分はおろか荀攸も何顒も処刑されてしまうだろう。
「逃げようったって無駄ですよ」
背後から蔑むような声が浴びせられた。
振り返ると、布袋を抱えた李儒が近づいてくる。
「その細腕でこの壁を這って、窓から逃げ果せる自信があるなら構いませんが?」
たいそう冷ややかな声で李儒は言い捨てた。
荀彧が何とかして、窓から逃げられないかと思案していると思ったらしい。
「まあもっとも、そんなことをしたら即座に荀攸と何顒は…おっと、何顒はもうこの世の方ではありませんでしたね」
「え…?今、何をっ」
あまりにも軽い調子で挟まれた言葉に、荀彧は思わず聞き返した。
「…なんです、何顒は昨日死にましたよ?」
「そん、な…!?」
事もなげに告げられた瞬間、荀彧の背筋が冷たくなった。
いよいよ足から力が抜け、その場にへたり込んでしまう。
明らかな動揺を見せる荀彧を見て、李儒は不思議そうに呟いた。
「おや、貴方も聞いていたはずでは…?」
そう言いつつ、昨晩の沐浴室に横たわる荀彧の姿を思い出し、にいっと嗤う。
「ああ。貴方はそれどころじゃありませんでしたものね。まったく淫らな男だ」
「っ…!」
いやらしい口調で詰られ、喉の奥が詰まる。
尚も李儒は、荀彧の心を抉らんとにじり寄ってきた。
「恥じらったところで無意味ですよ。貴方がいかに董卓様に溺れているか、私も私の配下もよく知ってますから。あんなにまあ、はしたなく腰を振って、褥を汚して…」
昨朝、この部屋で繰り広げられた光景が、否応なしに蘇る。
数多の兵士たちと李儒から視線を受け、奴隷だと自らの口で言わされ、何度も貫かれ。
「や、あああっ!」
耐え切れぬ恥辱に、荀彧は悲鳴を上げた。
「やめて、やめてくださいっ…!」
耳を必死に押さえて震える様を、李儒はにやつきながら眺める。
「色事に興味なさそうな顔をして、とんだ淫乱ですな」
鋭い目で荀彧を見下しつつ、李儒の足は寝台近くの机へと向かった。
その上で、布袋をひっくり返す。
「差し入れです。お好きなようにどうぞ」
布袋から音を立てて散らばったそれらは、小さな壺の数々だった。
甘く漂う独特な匂いから、香油や紅といった化粧道具ということに気づく。
李儒はこれ見よがしに、紅を引く真似をしながら言い放った。
「その貌に胡坐をかくだけでは、貂蝉殿が戻ってきたらあっという間にお役御免ですよ。少しは着飾る努力をしなさいな?」
李儒が出ていき、また部屋を静寂が包む。
「何顒、殿…」
陽気で豪胆な笑顔が、今も目に浮かんでくる。
文官とは思えぬ出で立ちで、口を開けば周囲を明るくする。気力と迫力に溢れた男だった。
会うなりに、自分に王佐の器があると、真っ直ぐな目で評してくれた人。
「っ……何顒、どのっ…」
香油の熟れた匂いが、荀彧の鼻を刺す。
こんな品性のない化粧道具を押し付けられるような立場なのだ、今の自分は。
王を佐くどころか国賊を相手に股を開き、はしたなく喘ぐだけの奴隷。
どう足掻いても行き場がない所まで、堕ちてしまった。
「っ、う、ああっ」
情けない程に涙が溢れて、止まらない。
『貴方の奴隷です』と口にした、己が声がこだまする。
なんと愚かで、穢れた者に成り果てたのだろう。
「っ?」
首に、ひやりとした感触が走った。
同時にそれが何であるかを、思い出す。
髪紐を解き、首に触れたものを今一度眺めた。
「貂蝉、殿…」
光沢を持った金属の飾りが、淡く煌めいた。
度重なる現実に打ちのめされ、記憶から締め出されていた名と姿が蘇ってくる。
陰修への文を託し、最後に体を清めてもらった夜。思えば、あれから一度も会っていない。
「…あ」
昨晩、董卓は『貂蝉が帰ってくるまでは』と言った。
李儒も確かに今『貂蝉殿が戻ってきたら』と言った。つまり彼女は、この長安にいないのだ。
そして、いずれは戻ってくることを見越されている。
ならば彼女は今、何処にいるのか。
洛陽、の筈はない。あの燃え落ちる宮殿に、彼女を取り残していく訳がない。
ならばあの時、既に洛陽にもいなかったことになる。では何処へ。
許しを得て、帰郷したのだろうか。否、董卓がそこまで許可するとも思えない。
「…まさか」
女性の身で、従軍したとでもいうのか。
いくらなんでも、という思いと、貂蝉であればあるいは、という考えが巡る。
瞼に映るは、美しく、翳も帯び、それでも凛とした目。
同じように董卓に抱かれている身ながら、しなやかな強さを秘めた面立ち。
決して、董卓へ魂を渡していないことは感じていた。自らの意志を持って、彼女は動いている。
「……っ」
机に散らばった壺の中から、牡丹色の紅が入ったものを引き寄せた。
どの道、自分が奴隷として傅き続けたところで、荀攸は殺される運命にある。
残された時間は、確実に少ない。ならば。
こんな穢れた身でも、国のために出来ることは残されている筈。
「…貂蝉殿。どうか」
手の平の飾りを、強く握る。皮膚に痛みが走った。
たった一瞬でいい。
国を喰らう獣に、刃向う力を。
日が傾き、目も眩むほどに空が朱色に染まる。
董卓はその色を肴に独り、自室で酒を呷っていた。
「董卓様、連れてまいりましたよ」
入り口から李儒の声がかかる。
「何じゃ…おぉ」
いったんは面倒臭げに見やるも、すぐに董卓は目の色を変えた。
李儒に促されてゆっくりと現れたその姿に、思わず見入ってしまう。
「どうぞ、お好きなようにしてさしあげてくださいませ」
李儒はそう言い残し、笑いながらその場を後にした。
「ほれ、もっと近う」
董卓は喜色満面の笑みで手招きをした。
「…は、い」
すべてを諦めたような、淀んだ眼差し。
耳許で緩くまとめられた髪。
その口元にははっきりと紅が差され、色づき潤む。
一歩ずつ近づいてくるたび、熟した果実のように甘ったるい匂いが漂った。
「ふん。そこまで紅が似合うとはな。怖ろしい男だ」
近くまでやってきた荀彧を強引に引き寄せ、腰をがっちりと掴む。
情事の時にこそ馴染み深い香により、薄布に透けた肌は更に情欲を掻き立てるものとなる。
肚の内にまで抱き込むように、董卓はこれ見よがしに息を吸った。
「なんじゃなんじゃ、そんなに抱いてほしかったか。準備がいいのう」
「っ…んっ」
袴越しに臀部を撫で上げられ、体が怯える。
「真面目くさったつまらん文官風情が、変われば変わるものよ」
笑みを深くしながら、董卓は荀彧の体を纏う薄布を捲り上げた。
節くれ立ったいやらしい指先が、滑らかな肌を弄ぶ。
「んんっ、う…あっ……と、董卓、殿…」
吐息を零しながら、荀彧は手を自身の耳元へと運んだ。
しゅるり、と衣擦れの音がする。
「ほう」
髪紐が解かれ、艶やかな黒髪がふわりと広がる。
その様を、董卓は満足げに眺めた。
下ろし髪となった恥じらい顔を、より一層の色香が取り巻いていく。
「どうか……この、哀れな私に、慈悲、を…」
羞恥に頬を染め上げ、俯きながら懇願してくる。
震いつきたくなる程の美しさが、董卓の心を揺さぶった。
「ぐふふ…がっはっは!よかろう、よかろう荀彧!貴様にとびきりの慈悲を与えてやるわ!」
そう。これを求めていた。
身も心も屈し、我が物となって跪く。この瞬間をこそ待っていた。
「っあ…あっ…んんっ、あ!」
声を震わせながら、荀彧は董卓の首へと腕を回した。
「くっくく、そんなに気持ちよいか?ん?」
すかさず董卓は白い首筋に齧りつく。
「ひっ…あぁ…」
甘く切ない声が、董卓の耳元で反響した。
「いい声じゃ」
苦痛と快楽に泣き叫び、屈辱に身を震わせるばかりだった男が、自らの意思で縋る。
名家の貴公子が誇りも理性も砕かれ、纏ろうしかできない姿の、なんと哀れで淫らなことか。
ついに、堕ちた。その支配欲が、ますます董卓の目に情の火をつける。
「あ、やっ、ああっ…んっ!」
胸を責め立てられ、腰を撫で回され。否応なく芽生える感覚で、体が跳ねた。
弄ばれるまま嬌声を上げる己の姿への恥が、危ういところで荀彧の意識を繋ぎ止める。
「っく…ん…っ!」
どく、どく、と。
太く脈打つ音が、首から腕へと伝わってくる。
興奮し、逆上せあがり、血が流れゆく線が、はっきりと浮き出る。
「董…卓……どの」
震える右手を、きつく握り締めた。その手には、解いた髪紐が纏わりついている。
今の今まで、快楽の波を彷徨っていた瞳に、光が燈った。
刹那。拳の隙間より、小さく鋭利な刃が覗く。
そう、これを求めていた。
目先の色欲に囚われ、急所を晒す。この瞬間をこそ待っていた。
「――――――っ!!」
あらん限りの力を込めて、拳を突き立てる。
「がぁっ!?」
息詰まる痛みに、董卓の目が剥かれた。
動きが止まったのを逃さず、荀彧は力任せに拳を手前へと引き抜いた。
「ぎゃああああああああっ!?」
醜い叫び声と共に皮膚が裂け、鮮血が勢いよく噴き上がる。
「っう…!」
荀彧の体を、真紅の返り血が染めた。
それに構うことなく、迷わずに董卓の懐に左手を突っ込む。
目当ての冷たい金属の束に指が触れ、それをしっかりと握って引き抜いた。
「荀、彧、貴様ぁっ…!!」
唸り声を上げて、董卓が荀彧を捕らえんと手を伸ばす。
それを必死に振り払い、精一杯の力で突き飛ばした。
「ぐえぇっ!!」
「っは、はあっ…は…」
崩れ落ち、蹲る董卓の姿を見届け、荀彧は必死で入口へと駆け出した。
「董卓様っ!?な…!」
叫び声を聞きつけた李儒が駆け込んできた。
返り血を浴びた荀彧と鉢合わせ、その異様な様に怯んで後ずさる。
荀彧は李儒の横をすり抜け、部屋の外へと飛び出した。
「と、董卓…様っ」
背筋が凍り付くほどの血の海の中、横たわる主君がそこにいる。
首からは、明らかなる致死量の血が、絶え間なく噴き出していた。
どう考えても、絶命は免れなかった。
「お、おのれっ…あの、奴隷っ…!」
李儒の顔が、怒りで真っ赤に染まった。
「はぁっ、はあ、はあっ…っ!」
何度も精根尽きた体で走ることは、今の荀彧には苦行そのものだ。
それでも、足を止めるわけにはいかない。
董卓は弑すことができた。最低限のことは成せた。
あとは、荀攸の身柄を解放するところまで辿り着けたなら。
「っく、あっ!」
足がもつれ、転げてしまう。
こんな何もないところで蹴躓いてなどいられないのに。
痛みと疲労に軋む体を、なんとか起き上がらせようとしたその時。
「だれだ…?」
か細い、子どもの声。
もう長らく聞くことのなかった、そしてもう聞くことなど許されないと思った声。
全身の血が凍るような感覚が走った。
「だれ、なのだ」
とても、その玉体に向けて見せられるような姿ではない。
だが二度も呼ばれて、俯いてもいられない。
恐る恐る、顔を上げた。
「…陛下」
2018/09/10