隷属の華【十四】
再び相見える時、どちらもこんな姿で会うとは想像もしていなかっただろう。守宮令でつかの間の安らぎを共にし、無情にも隔てられたあの日からは一年も経過していない。
まるで二人だけが、幾年もの歳月を飛び越えたかのようだった。
互いの変わり果てた姿に、二人は暫し、息を呑んだ。
「荀彧…!」
先に沈黙を破ったのは帝の方だった。
記憶の中の彼は、上品な衣を翻しながら、清廉で穏やかに微笑む文官だ。
今目の前にいるのは、肌の透けた布を纏い、髪を乱し、返り血で染まりながら倒れ込む人の姿。
しかしそれでも。苦痛に歪んでも尚、その麗しい面影を忘れはしない。
「いったい、どうしたというのだ…」
荀彧の異様な姿を見て茫然とする。だが、その言葉は荀彧こそ叫びたかった。
記憶の中の彼の人は、背負うものに対してあまりにも脆弱な幼子で。
それでも守宮令で共に過ごしたあの一時、確かに年相応の子どもらしさが見えたのだ。
今自分を見下ろすのは、痛々しいまでに青白く痩せ細り、生気を失くした少年。
悲愴感すら漂う尊き玉体の様に、荀彧は声も出なかった。
「けがを、しているのかっ?」
返り血を荀彧自身の血と思った帝は、顔を更に青くして駆け寄ろうとした。
「なりませんっ」
荀彧は咄嗟に声を上げて制する。
この血は、国を蹂躙してきた男のもの。そして自分もまた、守宮令の文官だったあの時とは違う。
堕ちたこの身を、帝に触れさせるなどあってはならない。
「なりません…私は、最早穢れた身ですっ…」
しかし大人の思惑など、何の抑止力にもならなかった。
「そんなのどうでもいいっ!」
帝は叫びながら、倒れ伏す荀彧に駆け寄った。
「だれかに追われているのか、董卓か?」
「っ」
声を詰まらせた荀彧を見て、自分の問いが正解に近いことを悟る。
「ならば、早く逃げろ」
帝の言葉に、荀彧は力なく首を振った。
「いいえ。私には、行くべき場所がっ…」
「どこだ。どこへ行くというのだ?わたしが知っている所なら、つれていってやる」
血が着くのも構わず、焦った様子で荀彧の肩を揺さぶる。
その指先からは、守宮令で手習いをしていた時の子どもらしい丸みが失せていた。
「陛下、っ」
あまりの痛ましさに、目の奥がじわりと熱くなる。
国に尽くし、この幼き帝の力となるべく、洛陽の土を踏んだ筈だった。
何も成せぬまま自分は穢れ堕ち、その間に彼の人はこんなにも弱り果てて。
自分への呪いと、帝への慚愧の念が、涙となって頬を伝う。
「お願いです、陛下…どうかお戻りくださっ」
「教えろっ!」
必死の懇願が厳しく一蹴される。
初めて見るその剣幕に、荀彧もたじろいだ。
「わたしはそなたを…助けたい…!」
青白く痩せこけた顔には不似合いな、熱く激しい眼差し。
「へい、か…」
このような姿を晒しても、この方は見捨てずに、まっすぐ見つめてくれるのか。
「恥を承知で、お聞きします…」
残された力を振り絞り、荀彧は跪いた。
「この長安の、牢獄の場所はご存知ですか?」
帝、それも幼子に縋るなど。どこまで情けないだろう。
それでも、強い目に射抜かれて。心が、希望を求めてしまった。
「そこに、公達殿…荀攸殿がおります。なんとしても、お救いせねばならないのです」
荀彧の意を決した告白に、帝は心底驚く。
あの真面目そうな荀攸が、何故牢獄に入らなければならぬのか。
「どうして、だ?だって牢というのはっ」
沸き上がってくる疑念が、記憶を呼び覚ます。
『何顒、こっちの方にはなにがある』
玉座の間を通り過ぎ、奥の寝殿へ向かう途中だった。
西へと続く廊下の先が、昼間だというのに窓もなく、暗くなっている。
先導役の何顒は、やや眉を顰めながら答えた。
『ああ、そちらは貴方様が行くようなところじゃございませんよ。悪人をぶち込んでおくところです』
『そ、そうか…』
その言葉で、一体どんな場所であるかは理解した。
『さ、行きましょう。まずは旅の疲れを癒してください』
『…ああ』
何顒に促されても、暫くは動けずにいた。
暗く重苦しい空間の先から、どうしてか目が離せなかった。
「…あそこだ」
ここに来て以来、宮殿の中は大して歩き回っていない。
だが、はっきりとその場所は思い描ける。
明るい造りの宮殿内でたった一カ所、暗がりに覆われた廊下。何顒の、冷たく遣る瀬無さそうな声。
「こっちだ、来てくれ」
迷わず帝は荀彧の手を取り、引っ張り上げようとした。
「っあ…!」
だが無情にも、荀彧の足が限界を告げる。
手を引っ張られるままに体勢を崩し、またもその場に倒れ伏した。
「荀彧っ、大丈夫か」
「はぁ、はあっ…」
「そなた。そんなに、体を…?」
碌な食事をとってない、子どもの自分よりも衰弱するなど。
一体、どんな目に遭わされたらこうなるのだ。一体、董卓は彼に何をしたというのか。
幼い帝には想像もつかない。それでも、胸が締め付けられる心地がした。
「陛下…後生です。見つからないうちに、はやく、お戻りを…!」
泣きそうな顔で見下ろしてくる帝に向かい、荀彧は絞り出すように告げた。
奴隷と共にいる姿など見られたら、たとえ帝でも何を咎められるか分からない。
これ以上、自分の存在を帝の足枷にしたくなかった。
「いやだっ。絶対にいやだ…っ?」
首を頑として振る帝だったが、その視線がふと、荀彧の握り締められた左手に向く。
指の間から金や銀、そして、鉄色の大きな鍵が見えた。
「それは、牢のかぎだな?」
「陛、下、あっ!?」
隙を衝いて帝は左手拳に取りつき、鍵の束を引き抜いた。
それを懐に押さえつけ、小さく頷く。
口を真一文字に引き結んだかと思うと、荀彧に背を向けて駆け出していった。
「へいかっ…!」
小さな背中が、涙で滲む。右の曲がり角へと、消えていく。
「あ、ああ…」
荀彧はただ呆然と、それを見送るしかできなかった。
「っ、あ」
ふいに、目の前が暗くなる。人の影だ。
「ようやく見つけましたよ、この恩知らずめ…!」
振り返ったそこに、全身を震わせながら見下ろす李儒の姿があった。
陰険な余裕ある笑みは消え失せ、憤怒に顔を引きつらせている。
「よくも、よくも董卓様をっ!」
李儒は倒れ伏す荀彧に圧し掛かり、鉄扇で打ち据えにかかった。
「あぁっ!」
咄嗟に頭部を手で守るが、その上から硬い衝撃が襲う。
扇といえど最早鉄の棒に等しいそれは、容赦なく荀彧の体を痛めつけた。
「色仕掛けで董卓様を陥れ、命を刈るとはっ!男の一物を咥え込むしか能のない奴隷がっ!なんと大それたことを!」
怒り任せに罵倒しながら、李儒は何度も荀彧を殴りつける。
「あっ、やぁっ!っぐ!ああ、ぁっ!」
さしたる抵抗も出来ず、荀彧は身を縮こまらせた。
薄布が裂け、露出した肌にいくつもの打撲傷が出来上がっていく。
「この重罪…その命で償っていただきましょうか!?」
李儒は荀彧の首元に鉄扇を据え置き、睨み据えた。
「…本望、です」
「なんですって?」
聞こえてきた台詞に、李儒は眉を顰める。
「この卑しい身も、最期に少しは…国のために捧げられました」
ただ無様に穢れ堕ち、無力でしかなかった自分。
それでも、最後の最後で、この国を蝕む獣を葬れたなら。
たった一瞬でも、この身を国に尽くせたなら。
「…この命、惜しくはございません」
弱々しい声ではあるが、覚悟を決めた声だった。
その様すら癪に障り、李儒のこめかみに青筋が浮かぶ。
「いいでしょう!ならば死後も尚、董卓様の慰み者となりなさい!」
「待ぁてぃ…」
「っ…!?」
振り上げた鉄扇がぴたりと止まる。
荀彧もまた、ぞっとするほどの寒気に身を固まらせた。
この、地の底を這うような、醜い声は。
「李儒…何を勝手に、わしを死んだことにしておる、か」
重い足音、そして体を引きずる音が迫ってくる。
「っひ、ひぃい!?」
振り返った李儒は、化け物にでも出くわしたかのように顔を引きつらせた。
慌てて跨っていた荀彧の体から飛び退き、壁にぴたりと背を張り付ける。
李儒が離れたことで広がった荀彧の視界は、残酷な現実を目の前に映し出した。
「あ、あぁ…!」
確かに手応えはあった。確実に、頸の根元を切り裂いた。
現に、その赤ら顔からは色が抜け落ちている。間違いなく致命傷になっている筈なのだ。
それでも動けるのは、並みの男よりも遥かに肥大化したその図体のせいか。それとも。
今全身に渦を巻き、こちら目掛けて注がれる怨嗟と執念か。
「阿呆、め…その貧弱な腕で、ようもわしの寝首を掻けると思うたなぁ…」
右手の鎖分銅が、じゃらりと音を立てた。
「はぁっ、はっ…!」
次第に暗く、そして緩やかに下へと下る造りになっている廊下を、帝は走り続けた。
やがて、蝋燭のぼんやりとした明かりだけが頼りの空間に辿り着く。
「な、なんだお前?」
暗がりの中から、ぼうっと人影が二人、浮かび上がった。
「子ども?なんで…」
見上げれば、二人の兵士が帝を見下ろしてくる。
いきなり目の前に現れた子どもに、暫し戸惑った様子を見せた。
「女官の息子、とかかな?」
「ああ、そうかも」
妙に痩せ細ってはいるが、着ている服が小奇麗故の憶測を向ける。
そんな二人に、帝はきっと顔を向けた。
「通してくれ」
帝の言葉に、兵士らは一瞬面食らう。だがすぐに我に返り、顔を顰めた。
「ばぁか、ここはお前みてぇなのが来るところじゃねえよ」
「帰った帰った!帰らねぇとぶっ叩くぞ」
兵士は軽く脅しのつもりで、槍先を向けた。
いきなり突き出された槍の尖りに、帝の心の臓が跳ねる。
後ずさりそうになったその時、脳裏に荀彧の泣き顔が浮かんだ。
誰からも顧みられない、宮殿での日々。
どこにいても董卓か誰かの目が光り、女官も大して当てにならず。
右を見ても左を見ても息の詰まる毎日の中、ようやく逢えたのが、彼なのだ。
やっと自分を見てくれる人と会えたと、そう思えた。
その彼が。やっと会えた彼が、あんなにも苦しんで、もがいて、泣いている。
皆は言う。帝はこの国の頂点だと。尤も偉く、尊い身分だと。
ならば。それならば。こんな兵士ごときに、足止めを食らういわれなどない。
―――大切な人ひとり助けられなくて、何が帝か。
「下がれ、無礼者」
「は?」
間抜けた声を出す兵士に向かい、毅然と顔を上げる。
あの人を助けたい。
純粋なる想いが、頽れかけていた少年に威を宿らせた。
「聞こえなんだか、下がれっ!わたしを…朕を誰と心得る!」
「ち、朕?」
豹変ぶりにたじろいだ兵士たちに向かい、帝は高らかに叫んだ。
「朕は、帝なり!ここに来たは董卓の意向でもある、通さなくば董卓にも言いつけるぞっ!」
いきなり出された『董卓』の名は、効果てきめんだった。
「ひ、ひい!?」
「しっ、失礼いたしました!?」
思わず体を硬直させ、兵士たちは脇へと飛び退く。
それを尻目に、帝は目の前に現れた階段を駆け下りた。
「帝…?」
突如聞こえてきた、子どもの声。そして『帝』という言葉。
一体、何が起こったのだろうか。
荀攸が傷だらけになった体を起こすのとほぼ同時に、その声は届いた。
「荀攸っ!!」
自分の名を叫びながら、少年が鉄格子に張り付いてきた。
その顔を見て、荀攸は一瞬我が目を疑った。首を振り、もう一度その顔を見つめた。
「…陛下!?」
最後に見た時よりも更に痩せこけ、青白くなっているが、間違いなく帝だ。
全く想定していない人物が現れたことに、荀攸は言葉を失う。
帝は荀攸の無事を確認するなり、鍵の束から鉄色の鍵を取った。
「助けにきた!」
錠前に鍵を差し、がちゃがちゃと左右に動かした。
しかし少し錆びついているのか、痩せた帝の手では思うように力が入らないらしく、苦戦する。
「へ、陛下…」
何故、帝がこんな牢獄に。何故、自分を助けに。
訳も分からず、荀攸は呆気にとられたまま目の前の光景を眺めた。
『待て。今『助けにきた』って言わなかったか!?』
『ああ、聞こえた!』
上の方から、兵士たちの叫び声が上がった。
『畜生!帝と董卓様の名を騙りやがって、誰の差し金だ!』
怒号と共に、階段を駆け下りる音が聞こえてきた。
「あ、っ!ぐ…」
焦りで、帝の額に玉の汗が滲む。無我夢中でもう一度右へと捻った。
ガシャン、という鈍い音と共に、ついに錠前が外される。
「待てこの、ガキがっ!」
駆け付けた兵士たちが、目前まで迫ってくるのが見えた。
怒号と足音で我に返った荀攸は、帝に向かって叫ぶ。
「陛下、向こうへお退きください!」
帝は素直に、荀攸の指示した方へと飛び退いた。
「ッハァ!!」
渾身の力を込めて、荀攸は鉄格子の扉をぶち開けた。
ガシャアンという激しい音が周囲に響き渡る。
「ぐええぇっ!?」
向かってきた鉄格子に当たった兵士は、勢いよく吹っ飛ばされた。
すかさず荀攸はその手から槍を奪い取り、後方にいた兵士へと投げつける。
「ひっ!?」
兵士はどうにか槍を交わした。
その時、チャキっという金属の擦れる音がしたのを、荀攸は聞き逃さなかった。
荀攸の視線が、兵士の腰に下げられているものをしっかと捉える。
「お、おのれぇ!」
兵士も負けじと槍を突き出してきた。
それを寸での所で交わし、横をすり抜けざま、荀攸は腰からそれを奪い取った。
留め金が外れ、ついに主の手元に戻った硬鞭剣が牙を剥く。
「はっ!」
振り抜いた刀身が蛇のごとくしなり、容赦なく兵士の首に襲いかかる。
バシインと、皮膚が打ち抜かれる音が響いた。
「ぎえ…っ!」
蛙の潰れたような声を出しながら、兵士はあえなく崩れ落ちた。
「ああっ…!?」
奥から、帝の切ない悲鳴が上がった。
それに気づいた荀攸は得物を巻き上げ、帝の下へと駆け寄る。
「何顒…」
荀攸がいた場所の向かいの牢獄前で、悄然となる帝の姿がそこにあった。
冷たい鉄格子の奥にいる、その骸の生前の名を、か細く呟く。
ついこの間まで生きて言葉を交わした臣下の死。それを受け止めるには、この帝はまだ幼い。
いたわしく思いながら、荀攸は小さな肩に手を置く。
「彼は立派に戦いました。どうかその事…お忘れなきよう」
静かに告げると、帝は震えながらも黙って頷いた。
「陛下、俺などに多大なる慈悲、感謝いたします。さあ」
この暗く死臭が漂う牢獄から、一刻も帝を出してやらねば。
そう思った瞬間、弾かれたように帝が飛び付いてきた。
「荀彧を助けてくれっ!」
叫んだその名を聞き、荀攸の目が見開く。
「え…?」
荀彧は今、忌まわしき董卓の手の中だ。ならば帝は一体、何処で彼と。
「陛下、文若殿にお会いしたのですか?」
努めて冷静に振る舞いながら、荀攸は問うた。
返ってきた答えは、更に荀攸を驚愕させるものだった。
「ここに来る途中で、血まみれの荀彧に会った!」
「なっ!!」
「李儒がいなくなったから、外に出てやれと思って…そうしたら、動けなくなってる荀彧と会ったのだ」
「文若殿、が…血塗れ…?」
「かぎを持って、そなたのいる牢を探していた。だから代わりにわたしが」
「!!」
荀攸の視線が、床に落ちた錠前に向けられる。
刺さったままの鍵、そして鍵の束。
見た瞬間に、それを握っていたもう一人の手が蘇った。脳裏で一つの推論が組み上がる。
「っ…かしこまりました。参りましょう」
荀攸は即座に帝を抱き抱え、牢獄を後にした。
「あぁっ!?」
帝が来た道をひたすら駆ける、その行く手に生々しい光景が見えた。
「血が…」
廊下の床に、べったりと血痕が染みついていた。
それは引きずられたような跡を作りながら奥へ進み、曲がり角の向こうへと続いている。
荀攸も、そして帝も、その先が何処に通じるかを知っていた。
「…玉座か」
「荀彧…どうしよう、荀彧っ」
狼狽える帝の背中を、荀攸は落ち着かせるように撫でた。
「お気を確かに。文若殿は必ずお救いします」
自分自身が一番動揺したい気持ちを抑え、荀攸はきっぱりと言った。己への鼓舞も込めて。
彼は危険を冒してまで董卓に抵抗し、牢獄の鍵を奪ったのだろう。
幾度も凌辱を受け、身も心も打ち砕かれたにも関わらず、足掻こうとした。
こんな、情けない俺のために。
ならば今度こそ。今度こそ、貴方を救ってみせる。
2018/09/16