隷属の華【十五】
「あ、う…」鎖に縛り上げられ、好き放題に引きずり回され。
その間に薄布は引き千切られて、服の体を成さなくなっていた。
息も絶え絶えの荀彧を染めるのは、返り血ではない。裂かれた皮膚から染み出した、己が血。
「はぁ、はあ…」
荀彧を戒める冷たい鎖は、董卓の右手へと続いている。
董卓の体もまた、己が血で真っ赤に染まっていた。
既に死んでいても何らおかしくない量の血が、滴り落ちては玉座を汚していく。
「と、董卓様っ…」
流石の李儒も二の句が継げない状況だった。
駆け付けた李儒の配下たちも、目の前の凄惨な光景に動けずにいた。
下手に横槍でも入れようものなら、自分たちが巻き添えを喰らうかもしれない。
恐怖と、怨念と、そして濃厚な血の臭いが、この玉座の間を支配していた。
「許さん…許さんぞ、荀彧ぅっ!!」
口許に血を滲ませながら、董卓は全身全霊で鎖分銅を振り抜いた。
「うぁ…っ!!」
絡み付いた鎖に引っ張り上げられ、荀彧の身が宙を舞った。
鎖が解かれるままに投げ出され、いよいよ裸同然の姿となって横たわる。
董卓の手で幾度も嬲られた白い肌は、無数の裂傷が走る無惨なものに変えられていた。
「っ…う…うぅっ」
董卓を討ち果たせなかった絶望に、度重なる苦痛を上塗りされた目が、暗く淀む。
その哀れな姿を見ても、董卓の怒りが収まることはなかった。
「この、わしを謀ったこと…死しても、後悔させてやる…!」
いよいよ董卓は、鎖の先の重量ある分銅を両手に持つ。
荀彧の傍らにつかつかと近寄り、鬼の形相で振りかぶった。
「やめろ董卓っ!!」
子ども特有の甲高い絶叫が響き渡った。
「!?」
董卓の腕の動きが止まった、その一瞬。
勢いよく飛んできた薄い金属の刀身が、鎖分銅を弾き飛ばした。
「ぐあぁあっ!?」
鎖分銅の重みに引きずられて、董卓自身も荀彧から振り払われるように飛ばされる。
「文若殿!」
血を吐くような声で、名前が呼ばれるのが聞こえた。
投げ出された体が抱き起こされ、視界に人の顔が入り込んでくる。
「公、達…どの…?」
涙に滲んだ視界の前にある、その顔。
思い描いた夢か、それとも現なのか。咄嗟にはわからなかった。
嗚呼、それでも。都合の良い幻、だとしても。
背中に回された手から、温もりが伝わる。
その温かさが、荀彧の張りつめていた糸を切った。
「こう、た、つ…どの…」
薄れゆく意識の中、震える声でその名を呟いた。
誰よりも会いたかった、誰よりも慕っていた、彼の名を。
「文若殿、文若殿っ!?」
気を失ってしまった荀彧を、力強く抱きしめた。
目を覆いたくなるほどに、全身を蹂躙された傷だらけの体。
それでも、腕の中の彼は温かかった。胸からとくとくと、心音が確かに聞こえる。
「申し訳ありませんっ…」
例えようもない激しい後悔と、やっと取り戻せたという歓喜が、荀攸の目頭を熱くさせた。
「おのれ…脱獄とは、いい度胸じゃ…!この場で、その奴隷と共に果てろっ!」
起き上がった董卓が、鬼気迫る表情で近づいてくる。
荀攸はそっと荀彧を床に横たえた上で、覚悟を決めて向き直った。
目の前には董卓、入り口には李儒の配下たち。一人で相手をするには心許ないと理解している。
だが、董卓は既に手負い。そして荀彧の身柄は取り返した。
ならばもう、この男に遠慮は無用だ。何顒との約束を今こそ果たす時。
硬鞭剣を構え直した、その直後だった。
「やめぬか!」
小さな体が、董卓の前に立ちはだかった。
董卓はその顔を見るなり、おぞましい殺気を漲らせて言い放つ。
「とんでもないことをしてくれましたなぁ、陛下…其奴は、罪人ですぞ!」
あまりの迫力に、帝の脚がガタガタと目に見えて震える。
「陛下、どうかお退きを!」
いたたまれなくなり、荀攸もたまらず叫んだ。それでも帝は頑として動かない。
「いやだ…!董卓、退くのはお前だっ!」
帝の思わぬ態度に、董卓は一瞬たじろぐ。
しかし、次に頭を支配したのは、言いようのない腹立ちだった。
吹けば飛ばされそうほどに痩せ細った、脆弱な子ども。
斯様に矮小な存在に歯向かわれたという事実が、董卓をいきり立たせる。
「何を生意気なぁっ…!李儒!」
董卓は獣のごとく叫んだ。李儒もそれに呼応し、右手を上げて配下へ合図する。
「皆さん、やっておしまいなさ…」
ザシュッ!!
「い…?」
何かが切り裂かれる音と共に、李儒の背後から生温い液体が浴びせられた。
恐る恐る、肩にかかったそれを拭い取る。
「っひ!?」
自分の物ではない、真紅の血が手を濡らしていた。
それを自覚する間もなく、背後で次から次にバタバタッと倒れ伏す気配がする。
続いて、ゴトッ、ゴトッと重たいものが落とされる音が連続で鳴った。
「ぎゃあああああああああっ!?」
振り返って真っ先に、李儒は喉を裂かん勢いで絶叫した。
目に入ったのは、自身の配下、だった肉体。
全員が全員、首から上をすっぱりと失くした状態で、鮮血を噴き出している。
落とされた首は方々に転がり、恨めし気に李儒を見つめていた。
「あっ、あっ、あ、ああ、ああああああ!?」
その場に尻餅をついた李儒は、体を戦慄かせながらみっともなく後ずさった。
突如として繰り広げられた、殺戮の瞬間。
何が起きたか、頭の理解が追い付かない。董卓も、荀攸も、呆気にとられる。
しかし、その光景をまともに受け取ってしまった人がいた。
「っ、陛下っ!?」
寸での所で、荀攸が頽れる体を受け止める。
床へと寝かされた帝は、目を見開いたまま気絶していた。
何十人もの首が一瞬のうちに吹っ飛ぶ様は、幼子の精神を砕くには十分だっただろう。
「いい様だな、豚め」
野太く、張りのある武人の声が響いた。
兵士たちの亡骸を蹴散らし、歩みを進めてくるその影。
玉座の間を照らす蝋燭の明かりが、男の巨体に威圧を添える。
荀攸は顔を捉えるなり、驚愕の表情を浮かべながらその名を呟いた。
「呂、布…」
黄金色の鎧を何十人分もの返り血に濡らし、一歩ずつ董卓の方へと近づいていく。
その様を、荀攸は茫然と見送った。
表情は、不気味なほどに凪いでいる。ただただ、冷酷な視線が董卓に注がれている。
その背後には、静かに張遼が控えていた。
「き、貴様らァ…!今まで、何をしておった…遅参にも程があるぞ!」
血反吐を吐きながら、董卓は必死で呂布と張遼を詰りにかかる。
「そんなに、連合軍に手こずっておったのか!?阿呆め!何が、人中の呂布じゃあ…!」
必死で虚勢を張ろうとするも、確実に董卓は気圧されつつあった。
じり、じりと、玉座のある背後へと後退させられる。
呂布は、侮蔑を一杯に湛えた眼差しで以て董卓を見据えた。
「っひ、い…!」
魂が抜けた状態で呂布と董卓のやり取りを見ていた李儒が、はっと我に返る。
そもそも董卓は、荀彧によって首を掻き切られた後なのだ。
この上呂布と張遼に立ち向かう力など、ある筈がない。最早、終わりだ。
そう確信したらば、やることはひとつだけ。
「っぐ…」
配下の首なし死体の間をかき分けつつ、こっそり玉座の間から逃げようと試みた。
「お待ちください」
「っひぃ!?」
見上げたそこに、絶世の美女と謳われる舞姫がいた。
「どちらへ行かれるおつもりですか?」
極めて丁寧で、穏やかな口調なのに、まったく心が籠っていない。
なまじ容姿の整った人間の冷徹な視線がいかに恐ろしいかを、身を以て実感させられる。
「ちょ、貂蝉、殿っ…ええっ!?」
突如現れた貂蝉に驚く暇もなく、その背後から姿を見せた人物に李儒は仰け反った。
生気のない顔立ちに、怒りを孕んだ目で王允が睨みつけてくる。
その右手には、日頃の物静かな雰囲気には不釣り合いな、厳めしい大斧が握られていた。
「お、王允…なっ、何故ここに…!?」
久方ぶりに目にした文官仲間の、明確過ぎる殺意を持った眼差し。
余計なことは口走らず、俯き加減で密やかにしているのが、王允に抱く印象だ。
こんな激しい怒りを露わにする姿など初めて見た。
「李儒、貴様ぁ…!陛下のお傍近く侍る立場にありながら、董卓の専横を許すとは、不敬極まりないぞ…!」
皺の深い面立ちが、暗く冷たい陰影を宿す。
目から迸る殺意は全て、恐怖に這いつくばる李儒へと注がれていた。
「も、申し訳ありませぬ!命だけはお助けを…!」
絶望的な状況に追い込まれて命乞いをする李儒だが、怒り狂った王允にそれを聞き届ける耳はない。
帝を顧みず、董卓の傍で甘い汁を吸い続けた、それだけで極刑に値した。
王允が一度大斧を握り締めた瞬間、李儒は体を翻した。
「ひ、ひいいいっ!」
何とか逃げようとするその背中目掛けて、王允は得物を振り下ろす。
「ぎええ…っ!!」
大斧は一息に、その背を真っ二つに引き裂いた。
今度こそ自身の血で真っ赤に濡れた李儒は、呆気なく倒れ伏した。
「や、やめろ、やめんか呂布!」
玉座前では、迫り来る恐怖の極致に達した董卓が喚き散らした。
「貴様、この父を斬ってまでなにがしたい!今までの恩も忘れたか!?」
「恩…?」
苦し紛れに吐かれた単語に、呂布は一瞬だけ眉を動かした。
しかしすぐに鼻を鳴らしたかと思うと、視線に宿る蔑みの色をきつくする。
口角を少しだけ上げ、呂布は董卓へと告げた。
「そうだな、赤兎にだけは感謝しよう」
こんな醜悪な男に対してもひとつは思い出があるものだと、呂布は内心嗤った。
自分にとって唯一無二の愛馬をもたらしたのは、確かに目の前の男。
だが、思う通りに戦をさせてやる、という約束はついぞ果たされぬまま。
一方的に利用され、飼い殺しの将として終わるなど、呂布の誇りが許さなかった。
「っぐ…!」
脂汗を流す董卓の目端に、入り口から顛末を見守る女性の姿形が映った。
自分が最も心を寄せて愛でてきた者だとわかった瞬間、痛みも恐怖も呑み込む怒りが沸き上がる。
「貂蝉!きさ、ま……貴様が誑かしおったなぁ!?」
血走った目が、貂蝉に向けられた。
凄まじい怒気が一心に己に注がれるのを、貂蝉は粛々と受け止める。
その目には、怯えも戸惑いもなかった。澄ました姿が、董卓に更なる怒りをもたらす。
「おのれ…おのれおのれぇ!貴様も、荀彧も!その体で他人に取り入る輩の、なんと卑しいことかのぉ!?」
激情に駆られながら、董卓は口汚く罵った。
自分が思うままに支配していた筈の者たちの、思わぬ手向かい。
荀彧に続き、貂蝉にまで背かれたという事実が、董卓の精神を揺さぶる。
「呂布よ…この、愚か者め……貴様が惚れたのは、とんでもない女狐ぞ!」
董卓は改めて呂布を睨み据えた。
「散々貂蝉を弄んでおいて、よくその台詞が言えたものだな」
呂布の額に青筋が浮き出る。
貂蝉の玉の肌に落とされた、支配の痕跡。それを恥と思う憂いの横顔。
何物にも代えがたいほどの美貌が、こんな男の欲に消費されていると思うだけで吐き気がした。
また一歩、呂布が前に進み出で、董卓は後退する。
「何を、しておる、張遼…!さっさとこやつをっ…」
呂布の後ろで黙ったままの張遼を見咎め、唾を飛ばしながら董卓は叫ぶ。
「…董卓殿」
張遼は、小さく首を振った。
呂布が再び、義父殺しに手を染める。それを肯定する。煮え切らない思いはあった。
だが焦土と化した洛陽で逃げ惑い、泣き叫ぶ者たちの声と、呂布の堅い意志が張遼の肚を決めさせた。
目の前の男はあまりにも、国を食い潰し過ぎた。それを見逃す方が義に悖る行為だと。
「徒に都を焼くような真似は、流石に度しがたい」
それが、張遼の出した答えであった。
「おの、れ…貴様ら…んぎぃいいい…!」
毅然と言い返され、いよいよ取りつく島もない董卓は歯軋りをした。
流石に、血を流し過ぎた。怒りと痛みと失血が、董卓の頭に靄を作っていく。
目の焦点が合わなくなってきた様を見て、呂布は見下すように言った。
「俺が来る前に虫の息とは…惨めだな」
この男は恨みを買い過ぎていたのだ。
わざわざ自分が手を下すまでもない、救いようのない男であると改めて感じる。
「っぐ…まだまだ…わしの酒池肉林の夢は…まだ!」
尚も董卓は吠えた。
鎖分銅を投げ捨て、玉座に立てかけていた七星剣を抜き取った。
その刀身に、鬼神の顔が映り込む。
「う…うあああああああ!!」
残されたすべての気力を、董卓は形振り構わず呂布へとぶつけた。
「…ふん」
一瞬だけ、呂布の目が憐憫に曇る。
己が欲望に膨れ上がり切ったその様は、醜かった。あまりにも。
方天画戟が唸りを上げた。
向かってきた七星剣を、たったの一振りで弾き飛ばす。
よろめいた董卓の腹目掛けて、鬼神の刃が鋭く撃ち込まれた。
ザクッ!!
「が…はっ…」
抉られ裂かれた腹より、大量の血が噴き出た。
二、三歩後ずさったかと思うと、その巨体が力なく玉座へと座り込む。
事切れた首が、天を仰いだ。
「荀彧様!」
放心状態だった荀攸を引き戻したのは、女性の声だった。
振り向くと、見知らぬ女性、そして見覚えのある文官が連れ立って駆け寄ってくる。
「陛下ぁ!」
その文官は真っ先に、気を失っている帝へと取り縋った。
「王允殿…」
荀攸は久しぶりに、その名を口にした。
洛陽で別れてからというもの、文ひとつのやり取りも交わせずにいた仲間。
何の消息も掴めず、生死すらわからなかった彼が何故ここに。
「荀攸殿…すまぬ、すまぬ…すまぬ…」
呼びかけられても、王允は荀攸の顔を見ようとしなかった。ただひたすら、謝罪の言葉を繰り返す。
「…私は陛下を。そちらは頼む」
王允は帝を抱き上げた。その言葉を受けて、女性は黙って頷く。
歩き出した王允の背中を見て、慌てて荀攸は声をかけた。
「何顒殿が!」
何顒、の名前に反応し、ぴたりと歩が止まる。荀攸は更に言葉を続けた。
「何顒殿がまだ牢にいます。どうか手厚く…お見送りを」
「…わかった」
たったそれだけ、王允は言葉を返した。
そのまま、帝を連れた姿が宮殿の奥へと消えていく。荀攸を振り返ることはついになかった。
「王允、殿…?」
離れている間に一体彼が何をしていたのか。
そしてあの謝罪の言葉の意が、荀攸には理解が及ばない。
ただ。苦楽を共にしたあの頃から決定的な隔たりが生じたことだけは、感じ取った。
「ああ、荀彧様…!」
やっと再会できた荀彧の痛ましい姿に、貂蝉は泣きそうな表情を浮かべた。
慈しむように、その頬を撫でさする。
「…貴方は、一体?」
荀彧に纏ろう女性の美しさと只ならぬ雰囲気にたじろぎつつ、荀攸は訊ねる。
「王允が娘にございます」
貂蝉は、短くそう告げた。
「娘?」
言い方は悪いが、生白く後ろ暗さを漂わせる王允とは似ても似つかぬ美貌だ。
仮に母親似だとしても、王允の血を感じさせる部分が一切見当たらない。
荀攸は訝しみ、もう少し問い質そうとした時だった。
ざり、と足音が響いた。
振り返った背後にいた存在に、荀攸は息を詰まらせる。
「っ…!」
無言の呂布が、荀攸と荀彧を見下ろしてくる。
その凄まじい圧に体が震えた。冷や汗が背筋を伝うのがわかる。
「奉先様。この方々はどうか、お見逃しを」
二人の間に割って入ったのは貂蝉だった。
「私と同じように、董卓様にその身を弄ばれ続けた方です…どうか、どうか」
必死に訴える貂蝉を、呂布は黙って見つめていた。
「張遼」
ややあって、呂布は後ろに控えていた張遼を呼んだ。
「そいつを運んでやれ」
「承知いたした」
張遼は短く頷くと、荀彧へと駆け寄る。
「…貴殿は、確か」
その顔に見覚えがあった。いつぞや、暗殺騒ぎの折に会った文官のものだ。
あの時の彼が何故、このような惨い目に遭わされたのか。
張遼には見当もつかない。詮索するつもりもなかった。
「失礼仕る」
張遼は背にしている外套を取ると、それで荀彧の身を包み込んだ。
傷に障らぬよう気を配りながら、ゆっくりと担ぎ上げる。
「どこか、当てはおありか?」
尋ねられた荀攸は、咄嗟に伝えた。
「長安南に、この方の叔父の邸宅がございます。そこまでどうか、お願いできますか」
「分かり申した。ご案内よろしく頼む」
その丁重な姿勢に、荀攸は内心胸をなで下ろす。
董卓は勿論、呂布とも違って話が通じるという安心感が張遼には存在した。
玉座の間を抜けて、宮殿の外へと出る。
外は既に日が落ちていた。薄ぼんやりと明るい東の空に、白く膨れた月が浮かぶ。
二度と見ること叶わぬかもしれなかった夜空が、今、頭上に存在する。
荀攸の目から一筋、涙が伝った。
2018/09/19